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第32話 精霊の名

「ネイレア」


 レティシアが呼んだ名に、差し出した手の先で光が応えた。


 水の幕を割った剣は、止まらなかった。ロルフは柄を握り込み、肩口へ振り下ろす。


 その刃とレティシアの間へ、青い腕が伸びた。


 掌が剣に触れるより先に、水が膨れ上がった。薄い幕だったものが、ロルフの視界を塞ぐほどの厚みを持つ。刃にまとわせた風が散り、剣ごと身体を押し返された。


 踏ん張った靴が滑った。ロルフは自分から後ろへ跳び、着地と同時に構え直す。


 レティシアの隣に、女性が立っていた。


 肩から垂れた長い髪が、腰の辺りで何本もの水流へほどけている。透き通った衣の内側を青い光が巡り、宙に浮いた足の下へ輪が広がっていた。


 ロルフは息を止めた。


「……精霊?」


 剣先が下がった。見開いた目が、その姿とレティシアの顔を行き来する。喉が張りつき、続けようとした言葉が出なかった。


 精霊との契約は、精霊に選ばれた者にしか許されない。


 優れた魔術師だからといって、誰もが手にできる力ではなかった。自分が剣を向けている少女は、その契約者なのか。


「君が……選ばれたのか」


 レティシアは頷いた。


 ロルフの奥歯が、かちりと鳴った。


 ついさっき、膝をつかせた。あと一撃で勝てると思った。自分の剣が、ようやくAクラスにも届いたのだと。


 なのに、まだ。


 そんな力が、残っていたのか。


「本物の精霊だ!」

「ヴェルナーが契約者だったなんて……!」


 客席から声が噴き上がった。記録席の教員まで立ち上がり、隣の教員へ何か尋ねている。その相手も驚いた顔のまま、首を横に振った。


 マシュウも、柵を握ったまま声を失っていた。


 ネイレアがレティシアの左手へ触れる。細い水が手首を巡り、杖へ届いた。


「力は渡すわ。流れを決めて」

「ええ」


 杖の周囲に、水が湧いた。


 宙へ持ち上がり、太く長い三本の槍へ変わっていく。水音が重なり、客席の声さえ聞こえにくくなった。


 ロルフの踵が、半歩下がった。


 剣を握る手まで冷たい。あれを受けたら、どうなる。さっきまで弾けていた水が、まるで違うものに見えた。


 レティシアの杖先が動く。


 ロルフはようやく剣を上げた。


 一本目が来た。正面から受けず、側面へ風を当てて逸らす。何度も通した、その動きにすがった。


 水の表面が、わずかに散った。


 それだけだった。


「なっ――」


 剣が跳ね上がった。水槍の腹が胴当てを叩き、足が地面を離れる。息を吐く間もなく、背中へ土が迫った。


 左手から風を噴かせ、身体を回す。膝をついた途端、二本目が足元を打った。泥が顔へ跳ね、視界が塞がる。


 横へ転がった直後、三本目が頭のあった場所を貫いた。


 ロルフは地面に手をつき、咳き込んだ。


 胸が痛い。剣を握る手が震えている。さっきまで、この剣で彼女を押していた。それが今は、立ち上がるだけで息が切れた。


「……こんなに、違うのか」


 声にしてしまうと、膝から力が抜けそうになった。


 レティシアの周囲へ水が戻っていく。あれだけ撃って、まだ同じ量が残っている。ネイレアは彼女の隣に浮かび、静かにこちらを見ていた。


 羨ましい、と一瞬思った。


 自分にも精霊がいれば。そこまで考えて、ロルフは唇を噛んだ。


 そんなことを考えている間にも、相手は次を撃てる。


 剣を握り直した。レティシアの左肘は、まだ上がりきっていなかった。腹を庇うように、立つ姿勢も少し変わっている。


 自分の攻撃は、確かに届いていた。


「……まだ、終わってない!」


 ロルフは走った。


 水の帯が伸びる。一つ目は先端だけを風で押し、二つ目を低く潜る。足首を狙った三つ目が届く直前、地面を蹴った。


「疾翼《ゲイル・ドライブ》!」


 背から噴いた風が、身体を前へ運ぶ。


 狙うのは、痛めた左肩の側だった。水を全部どうにかしなくてもいい。杖を動かされる前に、一度だけ剣を届かせる。


 レティシアが右手を軸に杖を傾けた。


 足元の水が起き上がる。


 ロルフは刃先へ風を集め、突き込んだ。水が窪み、剣先が入った。その向こうに、レティシアの顔が見える。


 あと少し。


「届け……!」


 声と一緒に、残していた風を押し出した。


 剣は進まなかった。突き込んだ腕へ水の重さが返り、肘が曲がる。見えていた顔が水の向こうへ消えた。


 ロルフは剣を引き、頭を庇った。


 身体ごと押し戻され、両足が土を削る。踏ん張って顔を上げたとき、レティシアは遠くにいた。


 飛び込む前より、離れていた。


 ロルフの口から、震える息が漏れた。


 彼女の前で、水が頭の高さを越える。左右へも広がり、走って逃げられる隙間がなくなっていく。


「蒼瀑《アズール・カスケード》」


 水の塊が、正面から崩れ落ちた。


 逃げたいと思った。剣を捨てて、顔を覆いたかった。


 それでも、柄を握る指を離せなかった。決勝で戦おうと告げたマシュウの顔が浮かんだ。勝ってこいと、送り出されたばかりだった。


「翠刃《エメラルド・エッジ》!」


 声が裏返った。両手で振り下ろした剣から、風が走る。


 水が割れた。


 ほんの一瞬だった。開いた隙間を次の流れが埋め、剣を押し上げる。前の足が滑り、後ろ足も浮いた。


「まだ……っ!」


 声が水に呑まれた。足を戻そうとしても、もう地面に届かない。風を噴かせる左手ごと押され、身体が白線を越えた。


「場外! 勝者、レティシア・ヴェルナー!」


 水が左右へ分かれた。


 ロルフは地面へ落ち、横倒しになった。水は客席の手前で向きを変え、白線の内側へ戻っていく。


 胸を押さえて咳き込むと、歓声が耳へ戻ってきた。


 試合場へ手を伸ばした。剣先は、白線まで届かなかった。


 その白さを見つめたまま、しばらく動けなかった。


 救護係に肩を支えられて起き上がる。ロルフの名を呼ぶ声もあった。よく戦った、と誰かが叫んでいる。


 彼は俯いた。


 勝ちたかった。


 善戦したと言われるために、ここまで来たのではなかった。


「ロルフ」


 レティシアが近くに立っていた。左肩を押さえ、息を整えている。彼はその顔を見て、すぐに目を伏せた。


「……精霊を呼ばなくても、勝てると思っていたのか」

「思っていたわ」


 答えが、胸に刺さった。


「でも、あなたに膝をつかされたとき、それでは勝てないと思った」


 ロルフは黙っていた。柄頭を打ち込んだ感触が、まだ手に残っていた。


 少しして、顔を上げる。


「次も……その力で来てくれ」


 一度言葉を切り、息を吸い直した。


「次は、何もできないまま終わりたくない」


 レティシアは真剣な顔で頷いた。


 彼が救護係と歩き出すと、背後で彼女が精霊へ礼を言う声がした。青い光が薄れていく。


 ロルフは振り返らず、剣を握る手に力を込めた。


     *


 控えへ戻ったロルフは、椅子へ座るなり顔を布で覆った。


 マシュウが隣に立っても、すぐには何も言わなかった。救護係が濡れた膝の布をめくると、肩が小さく揺れた。


「……勝てると、思ったんだ」


 布の下から、掠れた声がした。


「膝をつかせたとき、本当に。もう一度、君と戦えるって」

「見てた」


 ロルフは顔から布を離した。赤くなった目元を拭い、丸めた布を膝へ押しつける。


「なのに、精霊が出た途端、怖くなった。足が勝手に下がったんだ」


 マシュウは、すぐには答えられなかった。


「でも、そのあと走っただろ」


 ロルフが顔を上げた。


「肩の方へ。俺、届くかと思った」

「……僕もだ」


 それだけ言って、また俯いた。マシュウはそれ以上話しかけず、隣で待った。


 試合場の土を均す音が聞こえていた。しばらくして、ロルフが剣を鞘へ戻した。一度では収まらず、手元を見ながらやり直す。


「君との試合は、また今度だ」


 ようやくこちらを見た顔に、笑みはなかった。


「ああ。やろう」


 マシュウが答えたところで、背後から名前を呼ばれた。


 入口にネラが立っていた。袖口を握ったまま近づき、巻き直されたマシュウの左腕を見る。


「フェリクスは?」

「まだ寝てる。エリオがついてるから、少しだけ」


 彼女は右手を差し出した。何かと思っていると、マシュウの手首を取り、緩んでいた布の端を引く。


 結び直す指先に、力が入りすぎていた。


「ネラ」

「……ごめん」


 少し緩め、もう一度結ぶ。それが終わっても、彼女は手を離さなかった。


「あいつが、何もなかったみたいに帰っていくの、嫌だ」


 マシュウは返事をせずに聞いた。


「フェリクスは、今も起きないのに」


 廊下の向こうで剣帯の金具が鳴り、ネラの顔がそちらへ向いた。ヴァレクが係員と歩いていた。二人に気づくと、口元を緩める。


 ネラの手が離れた。杖へ伸びかけた指を、マシュウが押さえた。


「次は俺だ」


 彼女はこちらを見た。何か言いかけ、唇を噛む。


「……戻ってきてよ」

「ああ」


 第二準決勝の選手を呼ぶ声が響いた。


 マシュウは右手を握ってみた。布はずれなかった。ネラへ一度頷き、明るい出口へ向かう。


 先に試合場へ出たヴァレクが、振り返った。


 その目が、マシュウの左腕で止まる。笑いながら剣を持ち上げ、刃の腹で、自分の左前腕を軽く二度叩いた。


 マシュウは歩みを緩めず、白線を越えた。

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