第31話 風と水
「指を、もう一度握ってみて」
救護係に言われ、マシュウは左手を閉じた。まだ鈍い痛みはあるが、小指まで曲がる。巻き直された布を押さえ、寝台へ目を向けた。
フェリクスの胸は、ゆっくり上下していた。
「準決勝の選手は、控えへ移動してくれ」
入口から呼ばれ、立ち上がる。ネラは寝台の横に座ったまま、こちらを見た。
「何かあったら、エリオに呼びに行ってもらうから」
「頼む」
救護室を出ると、廊下の先にロルフがいた。剣帯を締め直しながら近づき、開きかけた扉の隙間へ目を向ける。
「彼は」
「まだ起きてない。命は助かったって」
ロルフは短く頷いた。それ以上は尋ねず、隣に並んで歩き出す。
「アーヴィンに勝ったそうだな」
「ああ」
「なら、僕も勝ってくる。君との続きをするためにもな」
マシュウは横顔を見た。ロルフは試合場へ続く明るい出口を見ていた。剣の柄を握る手に、迷いはなかった。
「勝ってこい」
答えると、ロルフは一度だけこちらを見て、先へ歩いていった。
*
レティシアは試合場の中央で待っていた。右手に杖を持ち、左手で髪を背中へ払う。向かいにロルフが立ち、刃を潰した長剣を構える。彼女はその剣先から足元までを確かめた。
マシュウは選手の控えから二人を見た。周囲の声はまだ小さい。砂を均す道具が片づけられ、審判が間へ入った。
「第一準決勝。始め!」
レティシアの杖先に水が集まった。丸い塊が三つに分かれ、細く尖りながら飛ぶ。
ロルフは一つを横へかわし、二つ目へ剣を合わせた。
「翠刃!」
剣に沿って走った風が水槍を外へ押し流す。最後の一本も払ったが、砕けた水が袖と頬を濡らした。
その向こうで、もう杖が動いている。
次の水槍は二本。一本が胸へ、もう一本が逃げる足の先へ来た。ロルフは足を止め、低い方を剣で弾く。胸へ来る水は、空いた左手からの風で逸らした。
逸れた水が地面を抉った。
ロルフは細く息を吐き、剣を戻した。受けているだけでは近づけない。次の杖の動きに合わせ、身体を低くする。
「疾翼!」
背を押す風で、一気に距離が縮まった。レティシアは杖を横へ引く。地面に落ちていた水が起き上がり、細長く伸びた。
「蒼鞭」
水の鞭が、前へ出した脚を狙った。
ロルフは剣を下げて払う。だが、崩れたはずの先端が曲がり、剣の側面へ巻きついた。
腕が外へ引かれる。胸元が空いたところを、水の塊が打った。
「ぐっ!」
ロルフの身体が後ろへ流れた。靴が土を削り、片膝が落ちる。レティシアはすでに杖を持ち直し、次を狙っていた。
彼は横へ転がった。さっきまで膝のあった場所へ水槍が刺さり、泥が跳ねる。
立ち上がったときには、最初の距離へ押し戻されていた。
「速いわね」
「君の方こそ、撃って終わりではないんだな」
ロルフが胸を一度押さえた。レティシアは返事の代わりに杖を向ける。足元の水が、また細く伸び始めた。
マシュウは、試合場に残る水を見た。剣で散らしても、それで消えたことにはならない。レティシアの近くへ落ちた水ほど、次の攻撃へ使われている。
ロルフも足元を確かめ、構える位置をずらした。
水槍が来る。今度は剣を下から当て、風で高く跳ね上げた。水がレティシアの頭を越え、遠くの白線際へ落ちる。
そのまま踏み込むと、また鞭が伸びた。
ロルフは剣を振る直前、左手を横へ払った。鞭の腹へ風がぶつかり、巻きつこうとした水が外へ膨らむ。
空いた内側へ、長剣が入った。
レティシアが杖を立てる。剣と杖が噛み合い、水の薄い幕が二人の間に広がった。
ロルフは押し合わず、剣を引いた。幕が閉じるより早く持ち替え、短く斜めに打ち下ろす。
剣の先が、レティシアの左肩を捉えた。
杖が揺れ、水の幕が崩れた。レティシアは顔をしかめて退き、右手一本で杖を振る。
ロルフも追おうとしたが、足元から跳ねた水に腰を打たれ、止まった。
「当たったぞ!」
客席の一角から声が上がった。立ち上がった生徒の肩越しに、別の生徒も身を乗り出す。
レティシアは左肩へ触れた。指を離し、改めて両手で杖を握る。持ち上げるとき、左肘だけが少し遅れた。
「……もう一度」
ロルフが剣を構え直す。レティシアの杖が、今度は地面へ向いた。
散っていた水が一斉に動いた。
ロルフの前で、太い帯になって持ち上がる。右へ逃げると、その先でも水が跳ねた。剣で払い、別の方向へ踏み出した靴が、ぬかるみに沈む。
足が止まった。
ロルフは左手の風を強めた。水の帯が窪み、飛沫が顔へ降りかかる。だが、押し返すには足りなかった。水は左右へ広がって回り込み、彼の逃げ道をさらに狭くした。
剣で一方を押し流す。濡れた靴を引こうとしたとき、反対側の水が届いた。
レティシアの杖が上がる。水の帯が膝へ絡み、さらに腰へ巻きつこうとした。
ロルフは左手を足元へ向け、風を叩きつけた。水が散り、泥が飛ぶ。その隙に脚を抜いたが、横から来た水槍までは避けられなかった。
太腿を打たれ、身体が傾く。
レティシアが詰めた。杖で剣を外へ押し、短くした水の鞭を腹へ叩き込む。ロルフの靴が二歩、後ろへ滑った。
白線が近づいている。
マシュウは柵へ手を置いた。ロルフの肩が上下していた。風を出す左手を下ろせず、剣も正面へ戻りきっていない。
それでも、目はレティシアを見ていた。
次の水を避けるとき、ロルフは横へ跳ばなかった。後ろ足を半歩だけ引き、身体を薄くする。水が胸の前を通る間に、剣を下へ構えた。
レティシアが再び杖を振る。
水の鞭が左から迫った。ロルフはその先へ向けて剣を振り上げたが、触れる寸前で止めた。左手の風だけを当て、鞭を外へ流す。
剣は、まだ身体のそばに残っていた。
レティシアが水を戻そうとする。その杖先へ、ロルフの剣が伸びた。
乾いた音がした。杖を弾かれ、レティシアの胸元が開く。
ロルフが踏み込んだ。
けれど、レティシアも退かなかった。短く持った杖を剣の根元へ当て、左脚を軸に身体を回す。剣先を逸らしながら、足元の水を二人の間へ噴き上げた。
水を浴びたロルフが後退する。レティシアも肩を押さえ、息を吐いた。
声が増えていた。ロルフの名を呼ぶ声に、レティシアを励ます声が重なる。審判のそばで記録をつけていた教員まで、筆を止めて二人を見ていた。
ロルフは濡れた前髪を払い、柄を握り直した。
「今のを止めるのか」
「あなたこそ、剣を押さえても止まってくれないのね」
レティシアは打たれた肩を回してから、杖を握り直した。
「そこで終わらないように、練習してきたんだ」
マシュウの方は見なかった。剣先を正面へ残し、両手の幅をわずかに変える。その姿を見て、マシュウは柵に置いた手を離した。
レティシアの口元がわずかに緩んだ。すぐに息を整え、杖先へ水を集める。ロルフの剣にも風が巻きついた。
先に動いたのは、ロルフだった。
剣を大きく振り、正面へ風を走らせる。レティシアは水の幕を厚くし、受け止めた。
水が左右へ飛び散る。
ロルフはすぐには進まなかった。風に押された水の端が地面へ落ちるところを見て、右へ踏み出す。
「疾翼!」
レティシアがそちらへ杖を向けた。その動きに合わせ、ロルフは剣を低く払った。刃に沿う風が、持ち上がりかけた水を地面へ押し伏せる。
泥の上へ、靴が入った。
足を取られる前にもう一歩。レティシアが杖を引きつけ、剣を受ける。ロルフは触れたところで握りを緩め、杖に沿わせて剣身を滑らせた。
柄頭が、胴当てを打った。
レティシアの息が詰まった。さらに肩で押され、後ろ足が浮く。水を集めようとした杖先が下を向き、彼女の片膝が地面へ落ちた。
歓声が跳ね上がった。
ロルフは剣を返した。だが、レティシアは膝をついたまま杖を振り、水の帯で剣を打ち上げた。
手首が反り、ロルフが一歩退く。
その間に、レティシアは立ち上がった。腹を押さえた手を離し、杖を握る。深く息を吸おうとして、途中で顔をしかめた。
マシュウは無意識に身を乗り出していた。ロルフの最後の踏み込みは、合同実技のときより短かった。剣を止められてからも、届く距離に身体を残していた。
レティシアが泥のついた膝を伸ばす。
「このまま押し切れると思ったのだけれど」
「僕も、今ので決めるつもりだった」
ロルフは言いながら、また間合いを詰めた。レティシアは動く足を見てから、顔を上げた。
「ここで負けたら、Sクラスには挑めないものね」
杖を持つ手が、胸の前へ戻った。
ロルフが地面を蹴る。レティシアは正面へ水を立ち上げ、その向こうで、誰もいない自分の隣へ左手を差し出した。
「お願い。力を貸して」
靴の周囲に、青い紋が浮かんだ。
地面の水が、細かな粒になって持ち上がる。杖先へは集まらない。差し出された手の先へ、ゆっくり渦を巻いていく。
ロルフの剣が、水の幕を割った。
その向こうで、レティシアが誰かの手を取るように、指を閉じた。




