第30話 準決勝への道
救護室の扉が閉まっても、ネラは取っ手から手を離さなかった。
「ここで待っていてくれ。処置の邪魔になる」
追って出てきた救護係に言われ、ようやく一歩退く。マシュウはフェリクスの杖を壁へ立てかけようとして、やめた。手から離したくなかった。
エリオが水袋を差し出した。誰も受け取らず、彼は口を結んで隣に立った。廊下の向こうから、次の試合を告げる声が聞こえてきた。
「まだ、やるんだ」
ネラが呟いた。取っ手を握っていた手には、赤い跡が残っている。
「あいつを勝たせて、そのまま続けるんだ」
マシュウも声のした方を見た。さっきまでフェリクスが倒れていた場所へ、次の選手が立つ。土を均せば、それで済むのか。
戻ってきたダリウスへ、ネラが詰め寄った。
「ヴァレクは? 失格になるんでしょ?」
「降参を妨げたことは申し立てた。まだ返答がない」
「みんな見てたじゃない!」
「見ていた。私も証言する」
ダリウスは救護室の扉へ目を向けた。
「止められなかった。すまない」
マシュウは何も言わなかった。許す言葉も、責める言葉も出てこなかった。杖を握る手だけが痛んだ。
しばらくして、中へ入ることを許された。
フェリクスは寝台の上で眠っていた。左腕と右脚には添え木が当てられ、胸にも包帯が巻かれている。呼吸に合わせて動く布を、マシュウは何度も確かめた。
「命は取り留めた。だが、骨が繋がっても、すぐに動かせるとは思わないでくれ」
救護係が説明する間、ネラは寝台の脇から離れなかった。エリオが床へ落ちかけた毛布を直し、荷物を足元からどかす。
「私にも、何かできない?」
ネラが救護係に尋ねた。返された指示を聞き、濡らした布を絞って額の土を拭う。力を入れすぎないよう、何度も手を止めていた。
フェリクスの右手には、杖の握りに沿った硬いところができていた。その上まで腫れている。マシュウは指へ触れかけ、握り返してもらおうとしていた自分に気づいて、手を引いた。
「杖、ここに置くぞ」
返事はない。マシュウは寝台の壁側へ杖を立てた。目を覚ましたら、手の届くところへ移してやろうと思った。
やがて一回戦の終了が告げられ、準々決勝の選手を呼ぶ声が廊下に響いた。
「行くの?」
ネラに聞かれ、マシュウは頷いた。
「勝てば、あいつと当たる」
ネラは唇を噛んだ。それから、フェリクスの掛け布を握った。
「私、ここにいる。起きたとき、誰もいないのは嫌だから」
「僕も残る。試合が終わったら、戻ってきて」
エリオの声に、マシュウはもう一度頷いた。扉を閉める直前、ネラがフェリクスへ何か話しかける声がした。返事がないまま、それでも話し続けていた。
*
試合場へ出ると、アーヴィンが槍を構えて待っていた。ネラに裂かれた袖は、短く結び直されている。
「始められるか」
「ああ」
マシュウは拳を上げた。腕を動かすと、左前腕と鎖骨の下が痛んだ。構わず右足へ体重を掛ける。
合図が鳴った。
一気に距離を詰めた。突きを身体の外へかわし、腹へ拳を伸ばす。その途中で槍が短く引かれ、柄が胸を横から打った。
息が詰まった。それでも前へ出る。
「赫牙!」
炎をまとった拳が空を打った。アーヴィンは斜めに退き、伸びきった腕の下へ穂先を返していた。
胴当ての脇を突かれ、マシュウはよろめいた。踏ん張った足を、槍の柄が払う。片膝をついた頭上で、雷が弾けた。
横へ転がったが、左腕が痺れた。指がすぐには握れない。立ち上がる間にも穂先が近づき、身体を反らして避けた。
後ろの靴が、白線を踏んだ。
もう一歩下がれば、終わる。
「俺を見る気がないなら、そのまま押し出すぞ」
アーヴィンが槍を突き出した。マシュウは横へ逃れたが、腰が遅れ、穂先が胴当てを擦った。
あの笑い声が、まだ耳に残っている。握りしめた拳を早く叩き込みたくて、足まで大きく前へ出ていた。外されたあと、次の一歩が出せない。
マシュウは痺れた左手を開いた。息を吐き、足の幅を戻す。
目の前にいるのは、ネラの降参を聞いて槍を引いた相手だった。その手元も見ずに、何度も同じ踏み込みをしている。
「悪い。もう一度、行く」
アーヴィンは返事をせず、穂先を下げた。足へ来る。マシュウは小さく退き、地面すれすれの突きが戻るところへ火炎矢を放った。
相手の左手が槍から離れ、雷が炎を横から散らした。
その間に、一歩だけ近づく。アーヴィンは空いた手を柄へ戻し、槍を横へ払った。マシュウは深追いせず、上体を引いて外した。
握り直すのも速い。二歩入っていたら、また胸を打たれていた。
今度は右へ回った。穂先も追ってくる。その外へ火炎矢を送り、足を止めずに左へ切り返す。
アーヴィンは炎を避けながら槍を突いた。引き戻すまで待たず、途中で握る位置を変える。近づけば、後ろの石突が届く構えだった。
ネラが脇腹を打たれたときと同じだ。
マシュウは拳を出す代わりに、前へ出た脚を低く蹴った。膝の外側を捉えたが、アーヴィンは踏み替え、石突を返してくる。
頬をかすめた。完全には避けきれず、口の中に血の味が広がる。
それでも、足は残っていた。肩を引きながらもう一歩動き、槍が長く持ち直される前に拳を出す。
柄で受けられた。直後、青い光が走った。
掴みかけた手を引き、マシュウは離れた。槍ごと押さえるつもりだったが、これでは触れている間に腕を痺れさせられる。
アーヴィンは追ってきた。突き、払い、手元から飛ぶ雷。マシュウが逃げる先へ、槍の届く場所をずらしてくる。
火炎矢を二発使って距離を取り直した。息が熱い。これ以上、避けるためだけに撃ち続けられない。
アーヴィンも肩で息をしていた。さっき蹴った脚を後ろへ引いているが、槍先は少しも下がらなかった。
マシュウが横へ動くと、穂先が追ってきた。もう一度逆へ回る。アーヴィンは向きを変えたが、後ろの脚で地面を蹴る前に、わずかに腰を浮かせた。
下がる足が遅れている。踏み込まれれば、槍か雷で止めるはずだった。
マシュウは右拳を頬の横へ戻した。
槍を押さえ続ける必要はない。振り切らせ、その直後へ入る。
火炎矢を、相手の肩へ放った。
アーヴィンが避ける。同時に、マシュウも前へ出た。踏み込む速さを見せてから、後ろ足を引きつけて止まる。
顔が来るはずだった場所へ、雷が抜けた。
眩しさに目を細めながら、その外側へ身体を入れる。アーヴィンの腰が回り、石突が頬を狙った。
マシュウは膝を折った。
頭上を槍が通る。その腕の下から左拳を突き上げ、脇腹を打った。痺れの残る拳では、まだ倒せない。アーヴィンは息を詰めながらも柄を引き戻す。
マシュウは腰を回した。戻ってくる柄を右前腕で短く外へ押し、すぐに手を離す。次の雷が槍を走ったときには、もう身体ごと懐へ入っていた。
「赫牙!」
右拳が胴当てへ触れ、炎が弾けた。
アーヴィンの両足がずれた。倒れながらも槍を横へ出して距離を作ろうとする。その柄へ左手を添え、マシュウは自分から離れた。
すぐに、地面を踏み直す。
「砕星!」
前蹴りが横向きの槍を押し込み、守っていた腕ごと胴を打った。接触したところで炎が弾け、アーヴィンが後ろへ倒れる。
槍が手から離れた。
マシュウは追いつき、拳を構えた。
「降参だ」
上がった手の前で止まった。荒い呼吸の向こうから、勝者を告げる声が聞こえた。
拳を下ろす。しばらく待ってから差し出すと、アーヴィンはそれを握って起き上がった。
「最後の雷、止まって外したな」
「近づいたときに来るのは、見てた」
「……最初から、それで来い」
マシュウは頷き、拾った槍を返した。勝った実感は、名を呼ばれたときより、その柄を渡したときに湧いてきた。
観客席からEクラスの名を呼ぶ声がした。振り向きかけたが、いつもの三人はそこにいない。マシュウは息を整え、救護室への通路へ向かった。
*
救護室へ戻ると、エリオが立ち上がった。
「勝った?」
「ああ。準決勝だ」
ネラも顔を上げた。笑わなかったが、マシュウの胸と腕を見て、椅子を一つ引き寄せた。
「座って。そこ、また腫れてる」
冷たい布を受け取り、左腕へ当てる。寝台のフェリクスは、まだ眠っていた。
次の試合を見てきたダリウスが、遅れて入ってきた。
「ヴァレクの相手は、開始直後に降参した。次は、彼と当たる」
ネラの手が止まった。
「結局、出場させたんだ」
ダリウスは頷いた。マシュウは布を腕へ押しつけたまま、顔を上げなかった。
廊下では、その後も勝者の名が告げられた。一回戦を勝ち上がっていたレティシアとロルフが、それぞれ準々決勝も制した。
準決勝の第一試合は、その二人。
第二試合で、ヴァレクが待っている。
マシュウはフェリクスの杖へ目を向けた。寝台のすぐ脇に立てたのに、まだ一度も握られていない。
布の下で、拳が固くなった。




