第29話 届いたはずの一撃
「左腕は、もう平気?」
ヴァレクがフェリクスの袖を見た。
「試合はできる」
「なら、よかった」
刃を潰した長剣が持ち上がる。開始の合図と同時に、フェリクスは左腕を前へ出した。
「岩装!」
重なった石の板で剣を斜めに流し、杖を短く返す。ヴァレクが下がっても追わず、剣先を見ながら足を動かした。
「落ち着いてるね」
ネラの声に、マシュウも頷いた。昨夜、何度も直した動きだった。
次の突きを外へ払い、相手の踏み出す場所へ土を盛り上げる。靴が引っかかったところを、杖で打った。
ヴァレクが腹を押さえて後退した。
「入った!」
フェリクスの口元が緩む。すぐに構え直し、今度は小石を放った。
石に覆われた左腕は、剣を流したところで止まらなかった。次の攻撃に備えて戻されている。何度も打たれて覚えた動きが、今度は間に合っている。
マシュウも柵を握り、身を乗り出した。
「礫雨!」
剣で防がれた隙に踏み込み、脇腹へ杖を叩き込む。ヴァレクが身体を折り、Eクラスの名を呼ぶ声が会場に広がった。
けれど、マシュウは相手の踵を見ていた。
杖が当たるより先に、後ろへ動いている。苦しそうに息をしているのに、剣を握る指は緩んだままだった。
「フェリクス、距離を取れ!」
フェリクスは追うのをやめた。次の踏み込みを待ち、足元へ杖を向ける。
「縛冠!」
土の輪で靴を捉え、左腕で剣を受ける。胸へ突き出した杖は、ヴァレクの素手に掴まれた。
引いても、動かない。
「……ああ、駄目だ。もう笑っちゃう」
ヴァレクの肩が揺れた。押さえていた笑いが、喉から漏れる。
「本当に勝てると思ってるんだね。僕に」
靴を包んでいた土の輪が、踏み砕かれた。
「痛がるふり、上手だっただろう? 君が嬉しそうにするから、つい二回もやっちゃった」
フェリクスの顔から笑みが消えた。
杖が捻り取られ、地面へ放られる。同時に、長剣が振り下ろされた。
「重刃」
岩装が砕けた。その下の左腕が折れ、フェリクスは悲鳴を上げて膝をついた。
「あはっ! そんな声も出るんだ!」
ヴァレクは剣を引き、顔を覗き込んだ。フェリクスが折れた腕を抱えようとすると、その手が届く前に胴を蹴った。
「こう、さ――」
次の蹴りが腹へ入った。
言葉が途切れ、フェリクスが土の上へ倒れる。ヴァレクは口を開けて笑った。
「ごめん。何か言った?」
「やめろ!」
マシュウが柵へ足を掛けた。競技係に腕を掴まれ、振りほどこうとしたところへ、もう一人が回り込む。
「降参しようとしてただろ! 離せ!」
「判定前の立ち入りは――」
「だったら止めろよ!」
隣でネラも柵を乗り越えかけていた。係員が行く手を塞ぐ。その向こうで、フェリクスは咳き込みながら右手を上げていた。
武器を持たない掌を見せ、首を振っている。
「降参? いいよ」
ヴァレクは一歩退いた。
「ほら、言ってごらん。最後まで言えたら、やめてあげる」
フェリクスが顔を上げた。荒い息の合間に、唇が動く。
「こ、う……」
剣の平が脇腹を打った。身体が跳ね、言いかけた声が悲鳴に変わる。
「あはははっ! 惜しい、惜しい!」
ヴァレクは腹を抱えて笑った。さっき痛がっていたときよりも深く、身体を折っている。
「もう一回。今度は頑張って」
フェリクスは口を開いたまま、息を吸えずにいた。
「もういいでしょ! その子は降参してる!」
ネラが叫ぶと、ヴァレクはこちらを見た。
「そう? 僕には聞こえないけど」
ヴァレクはネラへ笑いかけた。
「さっきは楽しそうに応援してたのに。もうやめちゃうんだ?」
ネラの口が開いた。言い返すより先に、また剣が動いた。
起き上がろうとしたフェリクスの肩を踏んで倒し、地面についた右手を、剣の平で打つ。指が引っ込み、顔が伏せられた。
「顔、隠さないでよ」
ヴァレクは髪を掴んで持ち上げた。
「さっきみたいに笑って。ほら、友達も見てる」
フェリクスの唇が震えた。ヴァレクはそれを間近で眺め、満足そうに歯を見せた。
マシュウの腕を押さえる手が増えた。
「離せ……!」
押し退けた係員の肩越しに、ダリウスが見えた。反対側の入口で、二人の競技係と揉み合っている。
「即刻中止だ! 救護を入れろ!」
「まだ意識があります。Sクラスの通達では、限界まで――」
「降参を妨げているだろうが!」
審判は答えなかった。ダリウスは胸を押し返す腕を払い、もう一人の係員へ怒鳴った。
「責任なら私が取る。そこを退け!」
ヴァレクが髪を放す。フェリクスは右肘をつき、白線へ這おうとした。動く脚で土を蹴る。その右脚を、長剣が叩き折った。
悲鳴が会場に響いた。
ネラが係員の胸を突き飛ばした。
「やめろって言ってるでしょ!」
ヴァレクは悲鳴が収まるのを待ち、折れた脚へ靴を載せた。
「まだ逃げられると思った?」
踏み込むと、フェリクスが身をよじった。そのたびにヴァレクは笑い、逃げようとする顔を追いかけて覗いた。
「ほら、またその顔。いいねえ。僕、これが見たかったんだ」
「殺してやる」
ネラの声が、すぐ横でした。
泣いていた。けれど、目はヴァレクから動かず、杖を握る手に風が巻いていた。
「どいて。あいつを殺してやる!」
マシュウは係員の腕を振り切った。ネラの進路を塞ぐ男も押し退け、柵を越える。
ヴァレクが、こちらに気づいた。
「ほら。助けに来てくれたよ」
フェリクスの顔がわずかに動いた。
「よかったね」
笑いながら、剣の平をその身体へ振り下ろした。
フェリクスの頭が落ちた。
今度は悲鳴も上がらなかった。ヴァレクが靴を離しても、身体は動かない。
「……ああ、終わっちゃった」
声から楽しさが消えた。
審判がようやく腕を上げた。
「続行不能! 勝者、ヴァレク・グランヴェル!」
*
マシュウが駆け寄る寸前、ダリウスがヴァレクの前へ入った。
「下がれ。剣を置け」
「はい、先生」
その返事を聞いて、マシュウはヴァレクの喉へ目を向けた。
あそこへ拳を入れる。
息ができなくなっても、立てなくなっても、やめてやるものか。
握った拳を、ネラも見ていた。止めようとはしなかった。彼女の杖先も、まだヴァレクへ向いていた。
「マシュウ! 場所を空けて!」
エリオが救護係を連れて走ってきた。担架が二人の間を通り、マシュウはそこで初めて、フェリクスから目を離していたと気づいた。
「息はある。すぐ運ぶぞ!」
救護係の声に、ネラが杖を下ろした。
「フェリクス。ねえ、聞こえる?」
膝をつき、顔を覗き込む。返事はない。いつもなら土を払うはずの手が、地面に落ちたままだった。
めくれた襟を直そうとしたネラの手が、救護係に止められた。彼女は手を引っ込めたが、立ち上がれずにいた。
「……起きてよ。ねえ、もう終わったよ」
呼びかける声だけが震えた。フェリクスは担架へ移されても、目を開けなかった。
マシュウは近くに転がっていた杖を拾った。
握りの部分に、昨夜ついた擦り傷がある。疲れて指が開きかけても、フェリクスは何度も握り直していた。
昨日、あんなに嬉しそうだったのに。
「次は、もう少し長くもつといいね」
ヴァレクが担架を見ながら言った。
ネラが振り向いた。
「お前だけは、絶対に許さない」
「それも彼に教えてあげなよ。友達思いで、泣いちゃうかもね」
ヴァレクは笑った。ネラの目からまた涙が落ちると、いっそう嬉しそうにした。
マシュウが踏み出すと、ダリウスが正面に立った。
「フェリクスのところへ行け」
押さえられた肩から、力が抜けなかった。向こうでヴァレクが、笑いを噛み殺している。
エリオがフェリクスの名を呼んだ。
マシュウは杖を抱え直した。ネラも唇を噛み、担架の後を追う。その背中へ続きながら、一度だけ振り返った。
ヴァレクはまだ、笑っていた。




