第28話 本戦の一歩
翌朝、試合場を四つに分けていた白線は消されていた。
広くなった土の上で、マシュウは靴の裏を擦った。昨日よりも観客が多い。柵のそばに三人を見つけ、軽く手を上げる。
左腕の腫れは昨夜より引いていた。肘を曲げ伸ばししてから構えると、向こうでフェリクスも同じように腕を動かしていた。
向かいでセリカが杖を構えた。
「炎で氷を溶かせばいいって、思ってる?」
「溶かせるなら、そうする」
「試してみて」
開始の合図と同時に、地面へ白い筋が走った。
「氷路」
セリカの靴が、細く延びた氷へ乗る。身体が横へ滑り、杖の先から三本の氷の矢が飛んできた。
マシュウは二本をかわし、残りを炎で砕いた。その間に踏み込もうとした右足が滑る。
自分の足元にも氷があった。
体勢を低くしたところへ杖が迫る。肩を引いて避けたが、先端が鎖骨の下を打った。
「っ!」
右手を伸ばす。掴む前に、セリカはまた氷の上を滑って離れた。
「火炎矢!」
進路へ撃ち込むと、氷が砕けて土が見えた。だが、セリカはその手前で向きを変え、隣へ新しい道を作った。
溶かした場所へ足を置く頃には、もう違う角度から矢が来ている。
マシュウは頬をかすめた冷気に目を細めた。
追いかけて撃っていては、こちらの魔力が先に尽きる。
次の氷の筋を避けて右へ動くと、セリカも右へ回った。身体を入れ替えながら、また杖が伸びてくる。
今度は肘で押し流した。左腕に痛みが走ったが、目は相手の足から離さなかった。
滑る速さは変わらない。それでも、急に反対へ動けるわけではなさそうだった。曲がる前には膝を折り、外側の足へ体重を移している。
マシュウは二歩下がった。
セリカが距離を詰める。足元の氷が、こちらの右側へ曲がって延びた。
「火炎壁!」
その先へ、短い炎の壁を立てた。
セリカの膝が沈む。壁を避けて左へ曲がる、その内側へマシュウは踏み込んだ。
「そこも、凍るわよ」
杖が下を向く。
薄い氷が足元を覆ったが、マシュウは走り続けなかった。右の掌を地面へ向け、火炎矢を短く放つ。
靴一足ぶんの氷が弾けた。
露出した土へ右足を踏み据える。左足は滑るまま前へ送り、目の前を通ろうとするセリカへ拳を伸ばした。
杖で防がれる。
それでも、彼女の身体はまだ左へ流れていた。
「灼嵐!」
引いた右に続け、左を打つ。杖の柄を叩き、守りが外へ開いたところへ、もう一度右拳を送った。
炎が灯ったのは、胴当てへ触れる直前だった。
セリカの息が詰まる。踏ん張ろうとした靴が氷を削り、片膝が落ちた。
マシュウは次の拳を構えた。
「待って。……降参」
拳を下ろすと、審判の腕が二人の間へ入った。
「勝者、マシュウ・ファルニール!」
歓声が耳へ戻ってきた。ネラが両手を上げ、エリオはフェリクスの肩を叩いている。
セリカは立ち上がり、腹を押さえながら、溶けた足跡を見た。
「一歩だけで、よかったのね」
「止まって殴れる場所が欲しかった」
「だったら、次は止まらせない」
言い切ってから、彼女は息を吐いた。
「その拳、もう覚えたから」
マシュウも、自分の胸を軽く叩いた。
「俺も、杖が痛かったのは覚えた」
*
砕けた氷が片づけられる間に、ネラが胴当ての紐を締め直していた。
「今度は最初から見ててよ」
「わかってる。約束しただろ」
マシュウが答えると、ネラは杖を持って試合場へ出た。
アーヴィンは、練習用の槍を両手で構えていた。穂先に淡い雷が走る。ネラの杖では、あと二歩近づかなければ身体へ届かない。
合図が鳴った。
「群牙!」
分かれた風が左右から迫る。
アーヴィンは槍で両方を払おうとはしなかった。片方を横へ逸らし、もう片方には自分から近づいて、その内側を抜けた。
ネラの前へ穂先が伸びる。
横へかわすと、今度は槍の柄が追ってきた。杖を挟んで受けたが、肩ごと押される。
ネラはすぐに足を動かし、二撃目を外した。
「まだ!」
短い風を手元へ当て、突き出された穂先をずらす。そのまま一歩入った。
届く。
マシュウが身を乗り出したとき、アーヴィンの握る位置が変わった。槍が短く引かれ、反対側の石突がネラの脇腹を打つ。
ネラはよろめき、杖を前へ出して距離を保った。
穂先だけ見ていたら、今ので倒れていたかもしれない。歯を食いしばる横顔が、柵のこちらからも見えた。
アーヴィンは槍を戻し、詰めてきた。
ネラが右へ動く。相手も足を入れ替え、穂先を正面へ残す。
もう一度風を放った。
彼の袖が裂けた。観客席から声が上がったが、ネラはそちらを見なかった。杖を構え直し、槍の突きに合わせて左へ出る。
さっきより深く、懐へ。
アーヴィンの手元で雷が弾けた。
青白い光がネラの右腕へ走る。指が開き、落ちかけた杖を左手で掴もうとしたところへ、槍の柄が身体を押した。
背中が土についた。
ネラは起き上がろうとしたが、喉元の手前で穂先が止まる。
右手は、まだ杖を握れなかった。
「……降参」
アーヴィンは即座に槍を引いた。
勝者を告げる声の下で、ネラは空いた手を握ったり開いたりしていた。起き上がり、落ちた杖へ手を伸ばす。
先に拾ったアーヴィンが、柄を向けて渡した。
「あの風、あと少し内側だったら腕に当たっていた」
「当てるつもりだったよ」
ネラが受け取ると、彼は裂けた袖を見て頷いた。
「だから、次を撃たれる前に詰めた」
*
「槍って、後ろも痛いんだね」
戻ってきたネラが、長椅子へ座るなり言った。
エリオが水を渡した。フェリクスは彼女の杖を受け取り、椅子の脇へ立てかける。
「近づけたと思ったのに。まだ二歩もあった」
ネラは右手の指を曲げた。震えは、少しずつ収まっていた。
「次、私と戦うはずだったのにね」
「ああ」
「大会が終わったら、また練習に付き合って。今度は槍も借りよう」
「ああ。俺も、あの間合いは覚えておきたい」
ネラは少し笑い、水袋へ口をつけた。
マシュウは向かいの控え場所を見た。アーヴィンが槍の握りを確かめている。風で穂先を逸らされても、あの少年は足を止めなかった。
近づくまでにも、近づいてからにも、考えることがある。
「次の選手、準備しろ」
呼びかけに、フェリクスが立ち上がった。
昨夜は借りた長剣を使い、剣先が届く場所と、届かない場所を何度も確かめた。フェリクスは今、そのときと同じ幅に足を開いていた。
「私も、一つ勝ってくる」
マシュウは頷き、試合場へ続く通路を空けた。
向こう側から、ヴァレクが長剣を抜きながら歩いてきた。




