第3話 拳の届く距離
翌朝、マシュウはパン生地を叩く音で目を覚ました。物置の小窓から射す光を眺め、もう少し寝ていても誰も死なないことを確かめるように息を吐いてから、借りた毛布を畳んだ。
朝の薪運びを済ませると、パン屋の女が包みを渡してくれた。練習場所は村長に聞いておいたという。村の北にある古い採土場なら、周囲に燃えるものもなく、土手を的にして構わないそうだった。
「昼までには帰ってくるんだよ。運んでほしい荷物があるからね」
「わかった。かまどのほうは、火打ち石で頼む」
「言われなくても、そうするよ」
包みを開けば、切れ目に肉と野菜を挟んだパンが二つ入っていた。一つを歩きながら食べ、もう一つを残しておくつもりだったが、村を出る頃には両方なくなっていた。身体が若返ると、腹まで遠慮を忘れるらしかった。
採土場は、丘の斜面を大きく削った場所だった。剥き出しの土手が三方を囲み、窪地の底には雨水の乾いた跡がひび割れている。南側の坂を下りれば、村と街を結ぶ道へ出られるようだった。
マシュウは土手から十歩ほど離れ、掌を前へ向けた。昨夜より慎重に魔力を押し出すと、指先に赤い火が灯り、手の動きに従って揺れた。いったん消して、さらに弱く出し直す。それを何度か繰り返し、ようやく、かまどに使える程度の火になった。
「ここまで絞るのか。そりゃ、昨日の加減じゃ駄目なわけだ」
魔力が指先へ流れる感覚は、以前と変わらなかった。それなのに、同じつもりで使うと、出てくる火の大きさが違う。水袋だと思って傾けたものから、桶一杯の水を浴びせられたような具合だった。
今度は火を掌に集め、正面の土手へ狙いを定めた。
「ファイア・ボルト!」
放たれた火弾が赤い尾を引き、土手の中ほどで弾けた。乾いた土が薄く剥がれ、焦げた跡が残る。もう一発撃つと、二つの跡は手の幅ほど離れて並んだ。
マシュウは口元を緩め、五歩下がってから同じ魔法を放った。以前なら途中で散っていた距離を、火弾が形を保ったまま飛んでいく。思わず次を撃ちかけたが、調子に乗って使い切る前に手を下ろした。
「これなら、もう少し遠くからでも足を止められるな」
火を当てて怯ませ、その隙に懐へ入る。魔力が乏しかった頃、少しでも殴りやすくするために身につけた戦い方だった。射程が伸びた分だけ、相手へ近づくまでの危険を減らせるはずだった。
確かめるように拳を構え、乾いた地面を蹴ったが、踏み込みは思っていた位置で止まらなかった。足元の目印にしていた石まで、靴一足分ほど届いていない。腕を伸ばしてみても、そこから先へ拳を届かせるには、肩を出しすぎる必要があった。
筋力はあっても、脚と腕の長さは昔のままではない。マシュウは立つ位置を直し、踏み込みからやり直した。拳を戻す途中で足が近づきすぎたため、今度は構えの幅も少し狭めた。
十数回繰り返したところで、坂の下から木の割れる音が響いた。続いて馬が甲高くいななき、男の怒鳴り声が上がったため、マシュウは振り返るより先に道へ走り出した。
坂を下る途中から、傾いた荷馬車が見えた。道の端で片輪が溝にはまり、荷台から落ちた袋の周りに根菜が散らばっている。その脇で御者らしい男が、長い棒を両手で握って後ずさっていた。
男の正面には、灰色の獣がいた。猪に似ていたが、肩口の骨板が皮膚を突き破って盛り上がり、口から伸びた二本の牙には土と血がこびりついている。地面を掻く前脚を見て、マシュウは走りながら掌を開いた。
「そっち、下がれ!」
猪の魔物が地面を蹴るのに合わせ、その鼻先へ火弾を撃ち込んだ。炎に顔を包まれた獣が首を振り、突進の線がわずかに逸れる。その隙に男の腕を引いて荷台の陰へ押し込むと、遅れて届いた獣の肩が車輪の縁を擦り、木片が飛び散った。
「脚は動くか!」
「動く! だが、馬が――」
「そっちは頼む。俺がこいつを引き離す!」
魔物が向き直る前に横を抜け、採土場へ続く坂の手前へ出た。こちらへ鼻を向けたのを確かめてから、小さな火弾をもう一つ、目の上へ叩きつける。低い唸り声とともに頭が下がり、二本の牙がマシュウを向いた。
正面から頭蓋を殴れば、拳のほうが砕けかねない。坂の石を踏まない位置へ足を置き、獣が駆け出すのを待った。乾いた道に蹄が食い込み、蹴り上げられた土を背後へ残しながら、重い身体が迫ってきた。
マシュウは左へ身体をずらし、通り過ぎる顎の横へ右拳を打ち込もうとした。だが、踏み切る直前に、肩を伸ばさなければ届かないことに気づいた。無理に打たずに腕を引くと、目の前を牙が走り、風圧で服の裾が跳ねた。
「……そうだったな。今の俺、ちっせえんだった」
息を吐きながら振り返ると、魔物は蹄で道を抉って止まり、首を振って向き直っていた。後ろには荷馬車がある。距離を取って避け続ければ、御者と馬をもう一度危険にさらすことになる。
マシュウは半歩前へ出て、拳を顎の高さへ戻した。短くなった腕に合わせるなら、さっきより深く入るしかない。大きな牙が再びこちらを向いても、今度は足を引かなかった。
地を蹴った魔物の鼻へ火弾を当て、顔が横を向いた瞬間に斜め前へ踏み込んだ。牙の外側へ左足を滑り込ませ、沈めた腰を押し上げながら、露出した顎の下へ右拳を突き上げる。骨を打ち抜く感触が腕を伝い、跳ね上がった頭に引かれて獣の前脚が地面を離れた。
マシュウは拳を引く勢いで身をひねり、倒れ込んでくる胴体をかわした。横倒しになった巨体が砂利を削って滑り、腹を震わせながら脚を突っ張ったが、起き上がることはなかった。少し離れて動きを見守るうちに、浅く続いていた呼吸も止まった。
拳を開くと、右手の節が赤くなっていた。痛みはあるが、指は動く。握り直して確かめたところへ、馬をなだめ終えた男が駆け寄ってきた。
「おい、怪我は……お前、それ、素手でやったのか?」
「剣、持ってないからな」
「持ってないからって、殴るか普通!」
その言い分には覚えがあった。昔も何度か同じことを言われ、そのたびに、金があれば考えると返したものだった。マシュウは苦笑して拳を下ろし、傾いた荷馬車へ目を向けた。
「車輪を見ようぜ。放っておいたら、そっちまで折れるぞ」
男と一緒に荷を下ろし、溝から車輪を持ち上げた。傷ついた縁を確かめていた男は、修理のため村へ戻ると言い、立ち上がって深く頭を下げた。
「助かった。礼はさせてくれ。金でも、何か運ぶんでもいい」
マシュウは答えかけて、懐の紙に気づいた。指先に触れる折り目をなぞってから、馬の向いていた道の先へ顔を向けた。
「街まで、人を一人乗せられるか? 学園へ行って、入学の話を聞きたいんだ」
「そんなことでいいのか。車さえ直れば、いくらでも乗せるさ」
村へ荷馬車を押し戻す間、マシュウは右手を何度か握り直した。戦えることはわかったが、昔の身体のつもりで動けば危ないこともわかった。学び直すものは、思っていたより多そうだった。
それでも、車輪の軋む音に混じって男が学園のある街の話を始めると、マシュウは聞き逃すまいと顔を上げた。通りに並ぶ飯屋の話へ逸れたところで腹が鳴り、男に笑われたが、今度は恥ずかしがらずに、どの店が安いのか尋ねた。




