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第2話 百年後の火種

「ごちそうさん。……助かったよ」


 空になった杯を返すと、パン屋の女はマシュウの顔を覗き込み、ようやく頷いた。泣いたことには触れず、血で汚れた袖をつまんで眉を寄せる。その手つきがあまりに遠慮のないものだったので、マシュウは礼の続きに用意していた言葉を飲み込んだ。


「顔色は戻ったね。けど、その格好じゃ、行く先々で人が飛んでくるよ」

「着替えを買う金もないんだ。何か仕事はないか? 荷運びでも薪割りでもやるぞ」

「仕事の前に、村長のところへおいで。寝る場所だって決まってないんだろう?」


 言われて初めて、今夜も草原で寝るしかないことに気づいた。相手はそれを顔で察したらしく、店の奥へ留守を頼むと、前掛けを外して戸口へかけた。


 案内されたのは、広場から二本ほど道を曲がった先の家だった。パン屋の女が戸を叩くと、奥から紙の束を抱えた老人が現れ、マシュウを見て目を丸くした。どう説明したものかと迷っている間に、女が背中を軽く押した。


「道に迷った子だよ。怪我はないらしいけど、持ち物もろくにない。少し話を聞いてやっておくれ」

「子って……まあ、そう見えるよな」


 口の中で訂正を諦め、マシュウは差し出された椅子に座った。名を尋ねられ、「マシュウ・ファルニール」と答えると、村長は手元の紙へ書き留めた。どこから来たのかについては、うまく説明できないと正直に告げ、代わりに、今が何年なのか教えてほしいと頼んだ。


 村長は少し不思議そうにしたものの、今日の日付を別の紙に書いてくれた。マシュウはそれを自分の前へ引き寄せ、数字を確かめた。黒龍討伐へ出発した年に百を足せば、目の前に書かれた年になった。


「……黒龍のことが載った本は、あるか?」


 村長は棚から革表紙の本を抜き出した。村の子どもたちにも読ませているものだそうで、角が擦り切れ、何枚かの頁には紙を継いだ跡があった。開かれた見返しには、剣を掲げた冒険者の絵が描かれていた。


 黒龍が現れ、街が焼け、人間と魔族が共に討伐へ向かったことが書かれている。首を落としたSランク冒険者の名は何度も現れたが、その足元で戦っていた者たちは、ひとまとめに「冒険者たち」と記されていた。


 マシュウは決着の頁をめくり、その次まで読んだ。戦いのあと、負傷者の収容が夜通し続いたという記述を見つけ、そこへ指を置いたが、誰がどこで助けられたのかまでは載っていなかった。


「この戦いに、興味があるのかね」

「……少しな。生き残った連中のことも、知りたかったんだが」

「詳しい記録なら、大きな街で探したほうがよかろうな。この本は、子どもにもわかるようにまとめたものだから」


 夜通し、誰かが捜していた。それなら、あの壁の陰にも手が届いていたかもしれない。マシュウは額に布を押し当てた冒険者の顔を思い浮かべ、頁の端を握りかけた指を緩めた。


 本を返そうとしたところで、後ろに挟まっていた紙が膝へ滑り落ちた。拾い上げると、大きな建物の絵と、学園の入学希望者に向けた案内が印刷されていた。


「そちらも気になるかね。村の若い者に見せようと思って、挟んでおいたんだ」

「学園って……勉強しに行くところだよな?」

「もちろん。魔法や戦い方を学ぶ者も多い。あんたも、そのくらいの年頃だろう」


 マシュウは紙の上へ視線を戻した。五年間学ぶ、と書かれているのを見て、思わず村長の顔を確かめた。


「五年も?」

「長いと感じるかね」

「そりゃ、まあ……その間、飯も食わなきゃならないだろ」


 学ぶためだけに五年を使う暮らしが、うまく想像できなかった。明日の稼ぎを考えずに寝られる日さえ少なかったのに、その明日を五年先まで用意するとなれば、いくらあれば足りるのか見当もつかない。


「費用のことは問い合わせてみるといい。ここでわしが適当なことを言っても、あんたが困るからな。紙は持っていきなさい」


 マシュウは礼を言い、案内を折って懐へ入れた。すぐに通おうと思ったわけではないが、捨てるには惜しかった。


     *


 パン屋の裏手には、屋根の下まで積まれた薪と、使われていない物置があった。荷を動かして掃除をすれば、当面はそこで寝てもいいという話になり、マシュウは借りた服へ着替えるなり、仕事に取りかかった。


「一度にそんなに持つんじゃないよ。腰を痛めるよ!」

「このくらいなら平気だって。どこへ置けばいい?」


 薪を詰めた木箱を抱えて尋ねると、女は答える前に箱の底を覗き込んだ。軽いものと間違えたのかと思い、中身を見せるように傾けると、慌てて手を振られた。


「わかった、わかったから。窯の脇へ置いておくれ」


 足の運びにはまだ少し違和感があったが、重さに負けることはなかった。木箱を下ろすときも膝が素直に曲がり、身体を起こしたあとに痛みが残らない。それが嬉しくて、頼まれた分を運び終えてから、入口の邪魔になっていた樽も脇へ寄せた。


 物置を掃き終わる頃には、空が赤くなり始めていた。裏口から女が顔を出し、夕食に使うかまどへ火を入れておくれと声をかけた。


「火打ち石は、そこの棚にあるからね」

「火なら出せる。これでも魔法は使えるんだ」

「へえ。それじゃ、頼んだよ」


 感心されたのが少し照れくさく、マシュウは鼻の下を指で擦った。火をつけるくらいなら、少ない魔力でも役に立つ。乾いた焚き付けをかまどの奥へ置き、薪の間に空気の通り道を作ってから、掌を差し入れた。


 いつものように、ごくわずかな魔力を押し出した途端、指先から噴き出した炎が焚き付けを呑み込み、かまどの奥で膨れ上がった。低い唸りとともに赤い光が顔を照らし、マシュウは反射的に手を引きながら魔力を断った。吹き返した熱風が前髪を持ち上げ、積んだ薪の表面で、一斉に火が走った。


「何だ、今の音は!」

「悪い! ちょっと強すぎた!」


 駆け寄ってきた女に返事をしながら、火挟みを掴んで燃えた薪を離した。追加の魔力はもう流れていない。燃料を減らしてやれば、かまどの火は次第に勢いを落とし、煙も上へ抜けていった。


 女はかまどを覗き、次にマシュウの顔を見た。


「パン屋を燃やしたら、働いて返すにも店がなくなるからね」

「返す気はある。本当にすまん」


 神妙に頭を下げたが、笑って済ませられる失敗ではなかった。女が鍋を持ってくる間、マシュウは掌を見つめた。普段なら、今くらい魔力を込めても指先に小さな火が揺れるだけだった。同じ加減で、あんな勢いの炎が出るはずがなかった。


 若返ったせいなのか、あのネックレスのせいなのか。胸元へ触れかけ、煤のついた手を止めた。理由を考えるより、まず、どれだけ力を抑えればいいのか確かめなければならない。人の家で試すわけにはいかなかった。


「おばちゃん。この辺りに、火を使っても危なくない場所はないか?」

「何するつもりだい」

「練習。今のを、二度とやらかさないための」


 女はしばらくマシュウを見ていたが、やがて「明日、村長に聞いておくよ」と言って、かまどへ鍋をかけた。


 食事を待つ間に、懐から学園の案内を取り出した。建物の絵より、昼間は読み流していた魔法の講義についての説明が気になった。灯りに近づけてその行を読み直したマシュウは、紙の端を汚さないよう、もう片方の手も服で拭った。

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