第1話 英雄像のある村
マシュウは右手を裏返し、指の付け根を左の親指で擦った。潰れて歪んだはずの節がなめらかになり、手の甲に残っていた古傷も消えている。袖を肘までたくし上げると、腕まで細くなっていたため、今度は慌てて胸元を引き開けた。
「治ってる……いや、治りすぎだろ」
脇腹に傷はなく、血のこびりついた服だけが、さっきまでそこで戦っていたことを示していた。立ち上がると腰の位置が妙に落ち着かず、ずり下がったズボンを引き上げながら周囲を見回す。斜面の下に水面が光っているのを見つけ、草を踏み分けて駆け下りた。
小川へ膝をつき、流れの緩い岸辺を覗き込んだマシュウは、映った顔に息を呑んだ。頬も顎も、記憶にある自分よりずっと幼い。片手で頬を引っ張ると、水の中の少年も同じように間抜けな顔になった。
「……十五くらい、か?」
声まで若くなっていた。喉を押さえて咳払いをしてみたが、聞き慣れた声には戻らず、川底を泳ぐ小魚が影に驚いて逃げていく。傷が癒えただけなら喜べたものの、身体ごと昔へ戻っているとなれば、礼を言う相手より先に説明する相手が欲しかった。
服の下からネックレスを引き出し、掌へ載せた。飾りの傷も、縁にこびりついた汚れも変わっていない。さっきはあれほど熱かったくせに、今は指で包んでも冷たいままだった。
「お前、何をしたんだよ。あいつ、まだ動けなかったんだぞ」
助け出した冒険者の、力なく伸びた脚が頭に浮かんだ。治療師は間に合っただろうか。自分がいなくなったあとも、あの場所に取り残されていなかっただろうか。顔を上げても川向こうに街の姿はなく、鳥の声だけがやけにはっきり聞こえた。
マシュウは顔の血を洗い落とし、緩んだ腰紐を結び直した。人を見つけて、場所を聞くしかない。小川に沿って歩き始めると、ほどなく畑へ通じる道に出て、その先に家々の屋根が見えてきた。
村の入り口では、荷車を引く男と、籠を抱えた女が道を塞いで話し込んでいた。マシュウが近づくと二人は脇へ寄ったが、血に汚れた服を見るなり、女のほうが籠を持ち直して眉をひそめた。
「あんた、大丈夫? その服、どうしたの」
「ちょっと、ひどい目に遭ってな。俺はもう平気なんだが、この近くに街はないか? 石造りの、大きな鐘楼があった街だ」
「鐘楼? ここから見えるようなところにはないわよ。誰かと一緒じゃなかったの?」
答えに詰まったマシュウを見て、男が荷車から水袋を外しかけた。礼を言って断り、先へ進むと、背中へ「困ったら村長のところへ行きなさいよ」と声がかかった。
建物の向こうから、パンの焼ける匂いが流れてきた。軒先に干された布が風に膨らみ、その下で犬が腹を出して眠っている。走ってきた子どもが犬を飛び越え、危うく転びかけて仲間に笑われると、マシュウの身体からようやく余計な力が抜けた。
ここには戦いの気配がなかった。頭上を鳥の影が横切っても、誰も空を確かめようとしない。つられて顔を上げていた自分に気づき、マシュウは首の後ろを掻いた。
「どけどけー! 黒龍のお通りだぞ!」
広場から聞こえた叫びに、反射的に腰を落とした。パン屋の脇を抜けると、黒い布を肩にかけた子どもが両腕を広げ、木の棒を握った三人を追い回していた。一人が大げさに倒れ、踏まれる前に目を開けて、草の上を転がって逃げていく。
「今だ! 首を狙え!」
「まだ炎を吐いてない! 今のなし!」
勝手な抗議に棒を持った子どもたちが口々に文句を言い、戦いはすぐ言い争いに変わった。握りかけた拳を解きながら、その奥へ目を向けたマシュウは、広場の中央に立つ像に気づいた。
剣を掲げた冒険者の像だった。台座は人の背より高く、足元には新しい花が供えられている。石に刻まれた顔を見上げても確信は持てなかったが、その剣の掲げ方には覚えがあった。土煙の向こうで見た姿を重ねながら、台座の正面へ回り込んだ。
刻まれた碑文には、黒龍を討ったSランク冒険者の功績が記されていた。大地を焼く災厄に立ち向かい、その首を落とした英雄を、後世まで讃えるための像だという。
マシュウは読み終えてから、もう一度、最初の行へ目を戻した。文字の溝には黒ずんだ汚れがたまり、台座の角は長い年月に削られて丸くなっていた。指を這わせた石の冷たさが、胸の奥まで染みてくるようだった。
「立派だろう。祭りの前には、皆で磨くんだよ」
振り返ると、パン屋の戸口に年配の女が立っていた。前掛けで手を拭きながらこちらを見ていたが、マシュウが黙っていると、像のほうへ顎を上げた。
「今年は百年目だからね。花も、いつもより奮発してるのさ」
「百年目って、何がだ?」
「黒龍が倒されてからだよ。あんた、知らないのかい?」
マシュウは台座についた手を離せなかった。子どもたちは次に誰が英雄役をやるかで揉めていて、店の奥では食器が触れ合う音がした。聞き間違えたのだと思い、唾を飲んでから、もう一度尋ねた。
「黒龍が死んだのは、百年前なのか」
「そうだよ。私の祖母が、子どもの頃に聞いた知らせだって話してたからね」
女の顔に、からかうような笑みはなかった。マシュウはもう一度像を見上げたが、剣を掲げる冒険者は、磨かれた石の目で村の屋根を見渡していた。
黒龍の首が落ちたのは、ついさっきだった。瓦礫を押したときの痛みも、仲間の血で滑った靴底の感触も、まだ思い出せる。それなのに、目の前の女の祖母が聞いた話になっている。助けを呼んでいたあの通りへ戻る道を、もう誰に尋ねればいいのかわからなかった。
「……顔色が悪いよ。こっちへおいで」
女に肘を支えられ、店先の長椅子へ座らされた。何か答えようとして口を開いた途端、腹が大きな音を立てた。女は一瞬目を丸くしてから店へ引っ込み、割ったパンと水の入った木の杯を持って戻ってきた。
「まずはお食べ。話は、それからでもできるだろう」
「金、持ってないぞ」
「一つくらいで店は潰れないよ」
掌に置かれたパンは熱く、割れ目から湯気が立っていた。マシュウはそれを見つめたまま、額へ布を押し当てていた冒険者の顔を思い出した。あいつも、何か食えただろうか。誰かに運んでもらって、目を覚まして、腹が減ったと文句を言うくらいには元気になっただろうか。自分が手を離したあとのことを知りたくても、相手の名前さえ聞いていなかった。
パンを口へ押し込むと、焼けた皮が歯の間で砕けた。空っぽの腹が次を欲しがるのに、喉が詰まってうまく飲み込めず、水を流し込んだ拍子に咳き込んだ。
「ほら、慌てない。誰も取りゃしないんだから」
女の手が背中をさする間も、マシュウはパンを離さなかった。広場では役割が決まったらしく、新しい黒龍が布を引きずりながら走り出していた。剣の代わりの棒を受け取った子どもが、仲間を呼んでそのあとを追っていく。
あんなふうに遊べるようになったのなら、殴っても傷一つつかなかった自分の拳も、あの場所にあってよかったのかもしれない。小さくなった手でパンを持ち直し、今度は少しずつ噛んで飲み込んだ。
「……うまいな、これ」
「そりゃ、毎朝焼いてるからね」
胸を張った女へ顔を向けると、目の縁にたまっていたものが頬を伝った。マシュウは慌てて袖で拭ったが、女は何も聞かず、空になった杯に水を足してくれた。




