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黒龍の死んだ日

「伏せろッ!」


 怒鳴り声に反応して身を投げたマシュウの頭上を、黒い炎が薙ぎ払った。つい先ほどまで背を預けていた石壁が内側から弾け、吹き飛んだ屋根が通りの向こうへ降り注ぐ。地面に頬を押しつけても熱は逃れられず、息を吸おうと開いた口へ、焼けた土と血の味が入り込んだ。


 炎が過ぎ去るのを待って顔を上げると、倒壊した鐘楼の向こうで黒龍が首をもたげていた。重なり合う黒い鱗には幾本もの裂傷が走り、片側の目は血に潰れている。それでも巨体が動くたびに石畳が砕け、踏み荒らされた地面から立ち上る瘴気が、足元に転がる死者たちを覆い隠した。


「……あれだけ食らって、まだ足りねえのかよ」


 マシュウ・ファルニールは血の混じった唾を吐き、崩れた壁に左手をついて身体を起こした。右の拳は腫れ上がり、指を握ろうとするだけで肘まで痛む。黒龍の鱗を殴ったときの感触が、まだ骨の奥に残っていた。


 武器を買う金がなく、魔力も最下位のEランク。それでも生き延びようと磨いてきた拳は、人より頑丈な魔物を何度も地面に沈めてきたが、あの巨体にはろくな傷さえ残せなかった。近づくまでに何人も死に、ようやく届いた一撃で砕けかけたのは、自分の手のほうだった。


 通りの向こうから幾つもの魔法が撃ち込まれ、黒龍の胸で光が弾けた。その隙に剣士たちが足元へ走り込むのを見て、マシュウも壁から背を離したが、一歩踏み出した途端に膝が折れた。石畳に手をついて呻いたところで、すぐ脇から、掠れた息が聞こえてきた。


 冒険者が一人、腰から下を瓦礫に埋めて倒れていた。額から流れた血で顔の半分が汚れ、こちらを見ているのかさえわからない。それでも唇が動いたため、マシュウは痛む脚を引きずって近寄り、相手の足に載った石へ手をかけた。


「待ってろ。今、どかすからな」


 両腕に力を込めると、右手の中で嫌なものが擦れた。歯を食いしばり、持ち上げるのを諦めて石の端へ肩を押しつける。足裏が血と砂で滑ったが、何度も踏ん張り直しているうちに石が傾き、下から引き出した冒険者の脚が、力なく地面へ落ちた。


「……おいて、いけ」

「嫌だね。せっかくどかしたのに、無駄働きにさせるなよ」


 言い返した声が震えていたので、マシュウは笑った顔を作り、相手の腕を自分の首へ回した。立ち上がれそうにはなかった。脇を抱えたまま少しずつ後退すると、靴の踵が石畳を擦り、二人分の血が細い筋になって残った。


 前方で悲鳴が上がり、黒龍の尾が横殴りに振り抜かれた。群がっていた人影が吹き飛び、折れた槍が回転しながらマシュウの足元へ突き刺さる。続いて巨体がこちらを向いたとき、その足の間に、剣を握る冒険者の姿が見えた。


 討伐隊に加わったSランク冒険者だった。押し潰すように落ちてきた前脚を身をひねってかわし、すれ違いざまに鱗の裂け目へ剣を滑らせる。血が噴き上がるより早く、その姿は黒龍の懐を抜け、脇に崩れた鐘楼の残骸を駆け上がっていた。


 黒龍が首を巡らせ、逃がすまいと顎を開いた。喉の奥に黒い火が膨らむのを見た瞬間、マシュウは抱えていた冒険者を壁の陰へ押し込み、自分もその隣へ転がり込んだ。


 轟音が街を貫き、視界の端で石の塔が削り取られていった。黒炎に洗われた壁は赤く焼け、逃げ場を失った熱風が路地から噴き出す。その炎が通り抜ける直前、鐘楼の上から跳び出した人影を、マシュウは見失わずにいた。


 身を縮めて炎の上を越えた冒険者が、伸びきった黒龍の首へ降り立つ。着地と同時に膝を沈め、剣を両手で握り直したところで黒龍が激しく頭を振ったが、その足は鱗を踏みしめ、すでに深く裂かれていた首筋へ踏み込んでいた。


 マシュウは瓦礫を掴んで立ち上がり、声にならない息を吐いた。振り抜かれた剣が傷口を横切り、血の線を引いて反対側へ抜ける。その軌跡を追っていた目の前で黒龍の顎が不自然にずれ、次の瞬間、切り離された首が石畳へ叩きつけられた。


 跳ね上がった地面に足を取られ、マシュウは壁へ肩を打ちつけた。首を失った胴体は二歩ほど踏み荒らしてから傾き、建物の残骸ごと大地へ沈み込んだ。押し寄せた土煙に顔を覆いながら、それでも目を逸らせなかったのは、まだあの身体が動く気がしたからだった。


 やがて煙の向こうで、剣が高く掲げられた。


「倒した……黒龍を、倒したぞ!」


 叫び声を聞いても、すぐには信じられなかった。誰かが武器を放り出して泣き崩れ、別の誰かが死骸へ駆け寄ろうとして仲間に止められている。その騒ぎを眺めているうちに、マシュウは、自分がようやく息を吸えていることに気づいた。


「終わったってよ。聞こえたか?」


 壁の陰へ膝をつき、助け出した冒険者の頬を軽く叩いた。瞼がわずかに震えたので、胸へ手を置いて呼吸を確かめる。弱いが、まだ動いていた。嬉しくて笑おうとしたのに、口元がひきつるばかりで、目の奥に熱がたまった。


「誰か、治療できる奴を呼んでくれ! ここに、まだ生きてるのがいる!」


 同じ叫びがあちこちから上がっていた。マシュウは袖を裂いて冒険者の額へ押し当て、せめて血を止めようと身をかがめた。帰ったら何がしたいかなど、ここへ来るまでは考える余裕もなかったが、今は腹いっぱい食って、柔らかい寝床で眠りたかった。隣のこいつも、その先に転がっている連中も、起きられる者は全員連れて帰りたかった。


 少し先では、魔族の冒険者が人間の剣士を背負い、瓦礫の間をよろめきながら進んでいた。ついこの間まで敵だった相手へ肩を貸し、名前も知らない者のために治療師を呼んでいる。黒龍に奪われたものは戻らないが、あいつらと同じ卓で飯を食うくらいなら、もうできるのかもしれなかった。


 そのとき、襟の隙間から光が漏れ、血に汚れた指を照らした。服の中を探ると、昔、遺跡で拾ったネックレスが熱を持っていた。傷だらけの古物で、形が気に入ったというだけで着けていた品だったが、今は飾りの奥から、目を開けていられないほどの光があふれていた。


「おい、何だよ、これ……!」


 外そうと首元へ指を差し入れたとき、周囲の声に紛れて、聞き覚えのない声がした。


「新たな、、から、、、見つけた」


 マシュウは顔を上げたが、相手を捜す前に景色が光へ溶けた。手の下にあった体温が遠ざかり、慌てて伸ばした指が空を掴む。


「待て、こいつがまだ――!」


 最後まで言い切れないまま、身体を支えていた地面の感触が消えた。


     *


 次に頬へ触れたのは、風に揺れる草の葉だった。


 マシュウは息を詰めて目を開き、鼻先の緑を見つめた。焼けた臭いがしない。恐る恐る息を吸うと、青い草の匂いと冷たい空気が胸の奥まで入り込み、さっきまでそこを締めつけていた痛みさえ、どこにも見つからなかった。


 肘をついて起き上がると、なだらかな草原の向こうに林が広がっていた。木々の上を鳥が飛び、雲の切れ間から射した日差しが、風になびく草を照らしている。瓦礫も、黒龍の死骸も、助けようとしていた冒険者も、そのどこにもいなかった。


「……どこだよ、ここ」


 返事を求めて顔を巡らせたマシュウは、草を掴んでいた自分の右手に目を留めた。腫れが引いているだけではなかった。握っては開いたその手は、長年使い続けてきた自分の拳よりも、明らかに小さくなっていた。

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