第26話 鍛錬の証
「始め!」
合図とともに、フェリクスの左腕へ土が集まった。
「岩装」
薄い石の板が前腕の外側を覆う。手首と指は出したまま、右手の杖を胸の前へ構えた。
向かいに立つDクラスの少年が、先に火を放った。
フェリクスは横へ動く。火炎矢が肩の脇を抜け、背後の土を焦がした。次の一発へ備えて足を開き直すと、少年は杖を下げず、前へ出てきた。
「詰めてくるね」
「ああ。撃ち合うつもりはないらしい」
マシュウは左腕の濡れ布を押さえ直した。ひやりとした感触の下で、さっき打たれた場所がまだ痛む。
少年の杖が横に振られた。
フェリクスは石で覆った腕を差し出し、当たる瞬間に身体を半歩ずらした。杖の先が石の表面を滑り、脇へ抜ける。返した右手の突きが、相手の胴当てへ入った。
少年が息を詰めた。
フェリクスの腕は下がらなかった。すぐに打ち返された杖をもう一度受け、今度は相手が握り直すより早く踏み込む。杖の先を胸元へ押し当てたまま、低く言った。
「まだ、続けるか」
少年の視線が自分の杖と、胸に当たる先端の間を動いた。
「……降参する」
「そこまで。勝者、フェリクス・ローデン!」
ネラが両手を叩いた。
フェリクスはこちらへ顔を向けかけ、先に対戦相手へ一礼した。それから歩いてくる途中で、ようやく口元が緩んだ。
「見たか」
「見てたよ。突いたあとも、腕が上がってた」
「君に何度も打たれたからな」
マシュウに答えながら、フェリクスは左腕の石を解いた。砕けた欠片が足元へ落ちる。下から現れた袖には、細かい砂が入り込んでいた。
「あんなに近づくとは思わなかった」
ネラが言うと、フェリクスは袖口を開いて砂を落とした。
「遠くにいれば、向こうも魔法を使える。私のほうが速く撃てるかは、わからなかったから」
「だから、近いままにしたのか」
「ああ。……二発目も打たれるとは思わなかったが」
左腕をさすり、もう一度試合場を振り返る。相手の少年は胴当ての位置を直していた。こちらを見つけると、少し悔しそうに手を上げた。
フェリクスも、右手を上げて返した。
*
次の呼び出しまで、フェリクスは試合場の脇を離れなかった。
同じ組のもう一つの試合では、髪を一本に編んだ少女が、二本の短棍を使っていた。右を受ければ左が伸びる。間を空けようとした相手には、風を使って追いつく。
最後は杖を左右から挟んで跳ね上げ、空いた胴へ一撃を入れた。膝をついた相手が、息を整えてから降参を告げた。
「リーナ・ハルト。Cクラスか」
掲示された名を読み、フェリクスが呟いた。
ネラが隣から試合場を覗く。
「あの風、私のより短いね。足を動かすときだけ使ってる」
「近づいたら、二本ある」
フェリクスは自分の左腕へ目を落とした。
マシュウが口を開く前に、彼はもう一度少女の足元を見た。道具を置きに戻る歩き方まで確かめるように、視線を追わせている。
「左で受けたら、すぐ突くとは限らないほうがいいな」
「そうだな」
マシュウが頷くと、フェリクスは杖を持ち替えた。左手で握ってみて、すぐ右へ戻す。
この組で残っているのは、もう二人だった。
水を飲み、休息の時間を挟んでから、両者の名が呼ばれた。ネラはフェリクスの背へ片手を当て、軽く押した。
「あと一つ。取ってきなよ」
「押さなくても行く」
言いながらも、フェリクスは振り返らずに進んだ。
白線の内側で、リーナが二本の棍を握り直していた。長さはどちらも肘から指先ほど。飾りのない木の柄には、滑り止めの布が何重にも巻かれている。
「さっきの試合、見たよ」
リーナはフェリクスの左腕を見た。
「それで一本止めても、もう一本あるから」
「承知している。私も見ていた」
審判が二人を離し、片手を上げた。
*
「礫雨!」
開始と同時に、フェリクスの足元から小石が跳ね上がった。
散らばって飛ぶ礫へ、リーナが左の棍を振る。巻き起こった風が石を横へ散らし、空いたところを身体が通った。
速い。
フェリクスが左腕を上げる頃には、右の棍が肩の高さへ届いていた。
石の板が鳴る。フェリクスは受けた腕を外へ流したが、右の杖を動かした途端、リーナの左手が伸びた。下から叩き上げられ、杖の先が逸れる。
引き戻された右の棍が、今度は脇腹へ入った。
「っ……!」
身体が折れかける。フェリクスは後ろへ足を運び、続けて来た左の一撃を杖で受けた。
木と木が鳴るたびに、二人の距離が縮まる。
「下がりっぱなしだ」
ネラの声が低くなった。
フェリクスが右へ逃れると、リーナも向きを変えた。踏み込む足の後ろで砂が噴き、身体がもう一歩ぶん滑るように進む。
フェリクスの踵が白線へ近づいた。
「尖塔!」
二人の間へ、先の尖った土の柱が立ち上がった。
リーナは足を止めず、左へ回る。その間にフェリクスが反対側へ抜け、試合場の中央へ戻った。
追ってくる足音を確かめ、杖を構え直す。
今度は正面から礫を放った。リーナが風を使うところへ、足元の土を隆起させる。だが、少女は膝を持ち上げ、固まりきる前に飛び越えた。
着地の直後に、また風が吹いた。
フェリクスの頬を棍の先がかすめた。次の打撃を受けた左腕から、石の一枚が割れて落ちる。
「追いつかない……」
ネラが柵に手を置いた。
フェリクスの土が形を作る前に、リーナの足が次の場所へ移っていた。一歩ごとに風を使っているわけではない。狙われたと気づいたところで踏み込みを変えるので、次の位置が読みにくい。
フェリクスは息を吐き、杖を地面へ向けた。
土が左腕へ集まり、欠けた場所を埋めた。ただし、肘に近い石は外したままだった。何度も打たれている前腕の中央だけが、少し厚くなる。
リーナが棍を構えて近づいてきた。
「そこ、痛いんでしょう」
視線は脇腹へ向いていた。
フェリクスは返事をせず、左足を少し前へ出した。
右の棍が来る。
石で受ける音が響いた。フェリクスは押し合わず、斜めに一歩動いた。空振りした左の棍が、制服の前を通り過ぎる。
杖で突く。
リーナは身体をひねって避けたが、フェリクスは追わず、先端を腹の前へ戻した。
次の右を受け、また足を動かす。
今度は肩へ棍が当たった。それでも、二本目が届く前に杖を間へ差し込んだ。リーナがそれを払う間に、半歩ぶんの隙間を作る。
マシュウの右手が、濡れ布を握り締めていた。
グレンの杖を受けていたときより、フェリクスの動きは小さい。痛む場所をかばうためか、踏み込む足も浅かった。それでも、打たれたあとに両足が揃うことはなかった。
「フェリクス!」
ネラの声が飛んだ。
彼はこちらを見なかった。相手の左手を見たまま、杖を握る位置を少し下げた。
「礫雨!」
近い距離から、小石がまとまって飛んだ。
リーナが左の棍を上げる。風が礫を弾いた。その右手はもう、次の一撃を振りかぶっている。
フェリクスの杖が前へ出た。
リーナが左の棍を下げ、払いにかかる。
だが、杖の先は彼女の腹へ届く手前で、地面へ向いた。
「縛冠!」
フェリクスのすぐ前で、土が輪になってせり上がった。
踏み込んできたリーナの右の靴を、足首のところまで包む。
右の棍は止まらなかった。
フェリクスが左腕を上げる。石の板が砕け、棍が腕へ食い込んだ。
それでも、杖を落とさなかった。
リーナの足元で砂が噴いた。いつものように風で身体を運ぼうとしたのだと、マシュウには見えた。
固定された右足を残して、上体だけが前へ出る。
リーナは慌てて左足を踏み出した。フェリクスはその横へ回り、立て直そうとする肩を左腕で押した。
少女の膝が地面についた。
まだ左の棍が動いていた。フェリクスは振り上げられるより先に、喉元へ杖の先を突きつけた。
「止まれ!」
審判の声ではなかった。
フェリクスが、歯を食いしばっていた。砕けた石の下から現れた左腕は、もう上がりきっていない。
リーナの棍が途中で止まった。
彼女は顔を上げ、顎のすぐ下にある杖を見た。自由な左足を少し動かしたが、片足を縛られたままでは、身体を引くこともできなかった。
「……降参」
声を聞いた審判が、二人の間へ腕を差し入れた。
「勝者、フェリクス・ローデン。本戦出場を認める!」
フェリクスは杖を引いた。
けれど、すぐには歩かなかった。荒い息のまま審判を見て、それから自分の杖を見下ろした。
ネラが先に叫んだ。
「やった! フェリクス、勝ったよ!」
ようやく彼の顔が上がった。
*
足元の土を解くと、リーナは座ったまま靴を引き抜いた。
「足が止まったのに、風を使っちゃった」
悔しそうに言い、棍の柄で地面を一度叩く。
「最後の土、ずいぶん近かったね」
「離れたところに作っても、君に追いつかなかったから」
フェリクスが答えると、リーナは彼の腕へ目を向けた。
「その一本、受けるつもりだった?」
「もう少し、軽く受けるつもりだった」
左腕を動かそうとして、フェリクスは顔をしかめた。
リーナが息を吐き、差し出しかけていた手を自分の膝へ戻した。一人で立ち上がり、二本の棍を腰へ挟む。
「負けた。次は、足を抜いてから風を使う」
フェリクスは頷き、頭を下げた。
試合場を出たところで、ネラが駆け寄った。肩を叩きかけて、慌てて手を止める。
「どこなら触っていい?」
「今は、どこにも触るな」
「じゃあ、おめでとうだけ」
フェリクスが笑った。息を吸ったところで脇腹が痛んだらしく、すぐ口を結んだが、目元の笑みは消えなかった。
救護係から新しい濡れ布をもらい、三人で長椅子へ腰を下ろした。マシュウが自分の左腕を見せると、フェリクスも同じように布を当てる。
「最後、よく前へ出たな」
「下がると、また追いつかれる。それに、遠くへ魔法を出す余裕もなかった」
「だから自分の前か」
「相手の足だけ見ていると遅れる。……あそこなら、私にも間に合うと思った」
言い終えると、フェリクスは右手の指を開いた。杖の柄を強く握った跡が、掌に赤く残っていた。
ネラが立ち上がり、掲示板のほうへ首を伸ばした。
「名前、上がってるよ」
係の生徒が、組の一番上へフェリクスの名札を移していた。その横に、本戦出場を示す印がつく。
フェリクスが腰を浮かせたので、マシュウは隣から声をかけた。
「見えてるだろ。少し休め」
「……わかっている」
座り直したあとも、顔は掲示板へ向いたままだった。
制服の襟は曲がり、片方の膝には土がべったりついている。空いている右手で払うこともできたが、フェリクスは濡れ布を押さえ直しただけだった。
「本戦でも、一つ勝ちたい」
小さな声だった。
マシュウが隣を見ると、フェリクスもこちらへ向いた。
「相手が決まったら、練習に付き合ってくれ」
「ああ。俺のほうも頼む」
「先に上がってこい。君の欄は、まだ空いているぞ」
ネラが声を立てて笑った。
次の呼び出しが会場へ響いた。今度はマシュウの名だった。
立ち上がろうとすると、フェリクスが右手を差し出した。マシュウは自分の腕に当てていた布を渡し、布を巻いた右の手首を一度回す。
「見ていてくれよ」
「さっきから、そのつもりだ」
フェリクスは二枚の布を持ったまま、試合場の見える側へ座り直した。




