第25話 昇星戦、開幕
「拳を握ってみろ」
フェリクスに言われ、マシュウは右手を閉じた。手首に巻いた布が、さっきよりもよく馴染んでいる。緩んでいた端を結び直してもらっただけで、指を動かしたときの引っかかりがなくなった。
「きつくないか?」
「平気だ。助かった」
「汗をかいたら、もう一度確かめておけ」
フェリクスが手を離すと、人垣の向こうからネラが戻ってきた。
「組み合わせ、見てきたよ。みんな別だった」
「エリオもか?」
「うん。向こうで、自分の名前を三回くらい確かめてた」
マシュウも掲示板へ近づいた。
大きな紙が十六枚、壁に並べられている。一年生の出場者を分けた予選の組み合わせだった。自分の名前は第六組にある。最初の相手へ視線を移すと、ダン・ベルク、その隣にCの文字が記されていた。
紙の下から上へ、勝者を進める線が引かれている。いちばん上の空欄は一つしかなかった。
「ここまで勝たなきゃ、本戦には出られねえのか」
「各組から一人。十六人だけだ」
隣でフェリクスも、自分の組の線を指で辿っていた。
競技場へ入るよう声がかかり、三人は人の流れについて歩いた。昨日は空だった客席に、もう大勢の生徒が座っている。手すりへ身を乗り出して知り合いを呼ぶ者もいれば、膝に紙を広げ、出場者の名前を調べている者もいた。
広い試合場は、予選用に四つへ区切られていた。係員が白線を踏まないように歩き、木の札を立てていく。マシュウは昨日より狭くなった地面を見て、足を運べる幅を確かめた。
正面の台へ教員が上がった。
「これより、昇星戦の予選を開始する。各組は一対一の勝ち抜き戦。最後まで勝ち残った者に、本戦への出場を認める。本戦の組み合わせは、予選終了後に改めて抽選する」
話の途中で、遅れてきた生徒が列へ駆け込んだ。肩で息をしながらも、続く言葉を聞くと顔を上げる。
「大会の戦績は、各自の昇級審査に加える。また、Aクラスの生徒が優勝した場合、Sクラスの一名への挑戦権を与える」
客席から声が上がった。
マシュウは、少し離れた列にいるレティシアを見た。彼女は周囲のざわめきへ顔を向けず、台の上を見つめていた。杖を持つ手が、握る位置をわずかに変える。
「Sと戦えるんだな」
「まずAに上がらなければ、その権利もないがな」
フェリクスに答えられ、マシュウは頷いた。今は、目の前の予選を勝ち上がることからだった。
教員が手元の紙を一枚めくった。
「続いて、審判の停止判断について、今朝の通達を伝える」
隣の列で話していた生徒たちが口を閉じた。
「Sクラスの決定により、審判は選手の限界を見極めるまで、試合を止めてはならない。死の間際に発現する力も、昇星戦の評価対象とする」
マシュウは顔を上げた。
紙を読む声は、そのまま集合場所の説明へ移っている。聞き間違えたかと思ってフェリクスを見ると、彼も眉を寄せていた。
「……今、死の間際って言った?」
ネラの小さな声に、返す言葉がなかった。
列が解けると、脇に立っていたダリウスのもとへ向かった。教員は何を尋ねられるか察したように、こちらを待っていた。
「先生たちが、危ないと思っても止められねえのか?」
「停止を判断する基準を、変えろということだ」
「Sクラスって、生徒だろ」
「この学園では、Sクラスの決定は教員の判断より上にある」
ダリウスは一度、正面の台へ目を向けた。まだ何人かの教員が残り、先ほどの紙を囲んで話している。
「降参や場外の規則まで変わったわけではない。続けられないと思ったら、降参をためらうな。昇級の機会は次にもある」
マシュウは右手を開いた。巻き直してもらった布の下で、指はいつもどおり動いた。
「わかった」
ダリウスは三人の顔を確かめてから、担当の試合場へ歩いていった。
*
「第二試合場、第六組。ダン・ベルク、マシュウ・ファルニール。前へ」
名前を呼ばれると、客席の音が近くなった。
向かいから入ってきた少年は、マシュウより肩幅が広かった。左腕に丸い木の盾を通し、右手に短い棍を持っている。盾の縁には打ち直した跡があり、握りの革も新しい色と古い色が混じっていた。
「拳で戦うって、おまえか」
ダンが、マシュウの両手を見た。
「見たことあるのか?」
「話だけ。盾の上からでも殴ってくるって聞いた」
「相手による」
「じゃあ、俺の場合も試してみろよ」
ダンは笑い、盾を前へ出した。
審判が胴当てと武器を確かめ、二人を離れた位置へ立たせる。マシュウは踵を一度浮かせた。踏み固められた土の上に、薄く砂が散っている。強く踏み切れば、靴が滑るかもしれなかった。
「両者、構え。――始め!」
「岩盾!」
ダンの足元から土が巻き上がった。盾の表面へ貼りつき、灰色の石へ固まっていく。その陰へ棍が引かれるのを見て、マシュウは左手を伸ばした。
「火炎矢!」
赤い矢が盾へ当たり、火の粉を散らした。
ダンは止まらなかった。焦げた石の表面をこちらへ向けたまま、低い姿勢で距離を詰めてくる。
マシュウは盾を持つ側へ足を運んだ。回り込めば、向こうの右手は届きにくい。
「土隆!」
踏み込もうとした場所の土が盛り上がった。
足を止めたところへ、盾が迫る。マシュウは前腕を添え、身体を横へ逃がした。石の縁が袖を擦る。その向こうから伸びてきた棍を受けると、左腕へ鈍い痛みが走った。
すぐに肘を戻して顔を守り、二歩離れた。
「そっちは行かせねえよ」
ダンが盾を構え直した。さっき地面を盛り上げた場所へ、自分は足を置かない。平らな側から、また近づいてくる。
マシュウは腕を一度振った。痺れはあるが、指は握れた。
盾だけを見ていては、足を止められる。地面を見ていれば、あの棍が来る。
次は正面へ出た。
左の拳を盾へ当て、すぐに引く。石は硬かった。ダンが棍を振り下ろすと、マシュウは肩をずらし、空いた胴へ右拳を伸ばした。
盾が戻ってきた。
拳を引いてかわし、その下へ低く蹴りを入れる。ダンの前脚に当たったが、踏ん張った足は動かなかった。棍の先が胸元をかすめ、マシュウはまた距離を取った。
「殴ってる方が痛そうだぞ!」
どこかの席から声がした。
マシュウは答えず、盾の縁から見えているダンの膝を見た。蹴りを受けた足を、半歩後ろへ替えている。
効いていないわけではなかった。
もう一度、踏み込む。
ダンが盾を上げた。今度はその直前で、マシュウは足を止めた。
目の前の土が盛り上がる。
足首ほどの段差ができたところへ左足を乗せ、マシュウは身体を持ち上げた。さっきまで盾に隠れていた肩が見える。そこへ右の回し蹴りを放った。
「っ!」
ダンが盾を引き上げた。
靴底が石を叩き、乾いた音が響いた。マシュウは蹴った足をすぐに下ろした。前へ残さず、次の一歩を出せる位置へ戻す。
ダンの棍が横から来た。
左腕で、その握り手の近くを押さえる。盾はまだ高い。マシュウは膝を曲げ、下の空いたところへ右拳を打ち込んだ。
「赫牙!」
胴当てへ届く寸前、拳に炎が灯った。
短い赤光が弾け、ダンの身体が折れた。マシュウは拳を引くと同時に火を消し、棍を押さえた腕も離した。
ダンが咳き込みながら後退した。
客席の声が大きくなる。マシュウは追ったが、相手の右手からは目を離さなかった。
棍が下から跳ね上がってきた。
半歩止まると、先端が顎の前を通った。ダンはその間に盾を構え、もう一度土を集めようとしている。
マシュウは、盾の裏に隠れきっていない靴を見た。
後ろに白線がある。
左拳を顔の高さへ伸ばす。ダンが盾を立て、棍を引いた。マシュウは拳を戻しながら、右膝を胸元へ引きつけた。
「砕星!」
盾の中央へ、足裏を突き出した。
触れた瞬間に炎が弾け、石の表面が大きく割れた。木の盾ごと押されたダンが後ろへよろめく。踏みとどまろうとした靴が砂を掻き、もう片方の足も白線の外へ出た。
「場外! そこまで!」
マシュウは追いかけず、蹴った足を下ろした。
ダンは片膝をついた姿勢で振り返り、自分の前にある白線を見た。
「……くそ。そっちかよ」
盾の表面から、残った石が崩れ落ちた。
「勝者、マシュウ・ファルニール!」
審判の声に、客席から拍手が返った。
マシュウは息を吐き、両手を下ろした。左腕は痛む。けれど、胸の奥にはまだ魔力が残っていた。もう一試合を戦うために、全部を使い切らずに済んだ。
*
「途中から、盾を壊しに来てると思ってた」
白線の外で、ダンが立ち上がった。盾を外した左手を、何度か握り直している。
「真ん中じゃ、押し出せなかった」
「知ってたら、下がらなかったんだけどな」
ダンは腹の胴当てを確かめ、留め具を緩めた。
「……こっちが痛くて、それどころじゃなかった」
近づいてきた救護係に腕を見せ、彼は盾を抱え直した。去り際に、マシュウの手首へ目を向ける。
「おまえも診てもらえよ。棍、当たっただろ」
「ああ」
マシュウも救護係に左腕を見せた。腫れたところを確かめてもらい、冷たい布を受け取る。
ネラたちは、通路の端で待っていた。
「あの段差、踏むつもりだったの?」
「途中からな。あいつ、俺が回ろうとすると、そこに作るんだよ」
「よく足を乗せられるね。私なら引っかかって転ぶよ」
ネラから水筒を受け取り、マシュウは口をつけた。飲み終えて顔を上げると、フェリクスが自分の杖を見ていた。
「地面を変える位置も、考えなければいけないな」
「お前の土まで、同じ場所に出るとは思ってねえよ」
「当然だ」
すぐに答えが返り、マシュウは笑った。
掲示板では、係員が自分の名前を一つ上の枠へ書き写していた。その先の対戦相手は、まだ空欄になっている。
別の試合場で名前が呼ばれた。
フェリクス・ローデン。
隣にいた少年が顔を上げ、杖の握りを確かめた。マシュウは水筒をネラへ返し、通路を空ける。
「今度は、こっちが見てるからな」
「よく見ておけ。君に教わったところだけではないぞ」
フェリクスはそう言い、白線の方へ歩いていった。マシュウもその試合が見える場所へ移り、冷たい布を腕へ当てたまま、仲間の背中を追った。




