第23話 五年先の約束
「在学中の学費と寮費、食費。必要な教本と装備も、当家で負担いたします」
マシュウは、差し出された紙から顔を上げた。
向かいの男は、返事を急がずに茶を飲んだ。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、上着の胸に小さな銀の飾りを留めている。ハーゼン伯爵家から来た使者だと、ダリウスに紹介されていた。
事件から十日が過ぎていた。三人とも実技へ戻る許可が出て、今日からまた、放課後の実習に参加するはずだった。
その前に教員から呼ばれた先が、この応接室だった。
「俺は、何をすればいい?」
「卒業後、五年間。伯爵家の領兵として勤めていただきたいのです。もちろん、勤め始めてからは別に給金をお支払いします」
使者は紙の一か所を指した。隣に座るダリウスは何も言わず、マシュウが読み終えるのを待っている。
「今すぐ、何かやれとは言わないのか」
「在学中は学業に専念していただきます。そのための支援ですから」
学園の支援で減らしてもらった学費の、残りまで消える。厨房へ薪を運ぶ時間を、鍛錬に使える。靴底が薄くなっても、次の実習の報酬を待たずに済む。教本を買う金と、明日の食費を同じ革袋の中で数えなくてもよくなる。
マシュウは紙の上へ指を置いた。
「ずいぶん出すんだな。Eクラスだぞ、俺」
「護送演習で、AとBの班に勝ったと伺っています。先日の事件でも、襲撃者を退けた。教室の席だけで判断するには、惜しい働きです」
「演習で道を見つけたのも、川で二人を倒したのも、俺の仲間だ」
「ええ。お三方の報告を読ませていただきました。とりわけ、剣を持った相手へ近づいて戦える人材を、当家は求めています」
使者は言い直すことも、二人の働きを小さく扱うこともなかった。伯爵領を通る街道では商隊の護衛が必要で、魔物の討伐へ出す兵も足りていないのだという。
マシュウは、五年間、と書かれた行へ目を戻した。
「その兵を率いてるのは、どんな奴だ?」
使者が少しだけ姿勢を変えた。
「現在は、伯爵家に長く仕える騎士が隊長を務めています。ご希望でしたら、休暇中に隊を見学できるよう取り計らいましょう」
「卒業したあとも、そいつが命令するのか」
「配属先も含め、その時点での決定になります。五年後の人事まで、今ここでお約束はできません」
無理なことを請け合わない答えだった。
それでも、紙を押さえていた指に力が入った。こちらの声を聞こうともしなかった、昔の指揮官の顔が浮かぶ。退くべきだと訴えた仲間は、あの戦いから戻らなかった。
この男が、その貴族と同じだという証拠はない。
マシュウは指を離した。
「その場で返事をしなきゃ、駄目か?」
「いいえ。写しをお持ちください。ご家族や先生にご相談なさっても構いません」
使者はもう一枚の紙を差し出した。連絡先が書かれていた。
「学期末までは、この条件でお待ちします」
*
応接室を出たところで、ダリウスが足を止めた。
「私は入学後の実技と、今回の事件で見たことを伝えた。あの条件を受けるかは、君が決めろ。読んでわからない箇所があれば、持ってきなさい」
「先生なら、受けるか?」
「卒業後に何をしたいかによる。君はどうだ?」
マシュウはすぐに答えようとして、紙を見た。
目の前の授業や演習のことで頭がいっぱいになっていた。上のクラスへ行けば、その先も自然に開けるような気でいたのかもしれない。
「……卒業したら、冒険者で食っていきたい」
「なら、その暮らしと比べて考えればいい」
ダリウスはそれ以上勧めず、教務室へ戻っていった。
実技場へ着くと、奥の区画で水が弧を描いていた。
「蒼鞭!」
レティシアの杖から延びた細い水が、木の的を横から打った。吊るされた的が跳ね上がる。彼女が手首を返すと、水は隣の的へ回り、その縁を叩いて地面へ崩れた。
三つ目には届かなかった。
レティシアは唇を結び、足元へ落ちた水を見た。それから、入口に立つマシュウに気づいて杖を下ろす。
「見ていたの?」
「今来た。そんな打ち方もできるんだな」
「曲げると遅くなるの。二つ目からは、まだ思うように動かせない」
汗で額に貼りついた髪を払い、彼女は持っていた布で杖の柄を拭った。その目が、マシュウの手元へ向く。
「それ、ハーゼン家からの話?」
「知ってるのか」
「使者をお見かけしたわ。父の領地でも、学園の生徒へ声をかけることはあるから」
マシュウは二つに折った紙を開いた。
「読んでいいぞ」
レティシアは受け取り、土のついていない手で端を持った。一行ずつ目を動かし、最後まで読んでから返してくる。
「悪くないと思う。卒業まで面倒を見るなら、向こうも随分と先の働きを買っているわ」
「ああ。受ければ、かなり楽になる」
「迷っているのは、勤める期間?」
「誰の下で戦うか、まだ決まってないところだ」
レティシアが黙った。
マシュウは紙を畳み直した。断る理由を探しているようにも聞こえる。長い先のことを全て決めておけるわけがないと、使者の返事を聞いたときからわかっていた。
「知らない奴の命令で戦う約束を、今はしたくない。金を出すって話が嫌なわけじゃねえんだ」
「その人を見てから、決めたいのね」
「ああ」
返事をすると、レティシアは杖を持つ手へ目を落とした。
「私は、いずれ領内の討伐隊を率いたいと思っているの。一緒に戦ったことのない人にも、命を預けてくれと言うことになるのね」
的から落ちる水が、砂へ小さな穴を作っていた。
「こないだの演習、お前も仲間の荷車を見てただろ」
「見ていたわ。あなたを止めて、その間に二人を先へ行かせるつもりだった」
「そういうのを見てから決めたいんだよ。肩書だけじゃ、わからねえから」
レティシアは少し考え、それからマシュウの顔を見た。
「では、私のことは引き続き見ておいて」
「お前まで誘うつもりか?」
「今、約束しろとは言っていないでしょう」
マシュウが笑うと、彼女も口元を緩めた。だが、すぐに的の方へ視線を戻し、杖を握り直す。
「まずは、昇星戦で勝たせてもらうわ」
「そいつは、俺も譲れねえな」
*
その晩、マシュウは寮の机へ二枚の紙を並べた。
片方には、学費から卒業後の給金まで、整った文字が並んでいる。もう片方は、書きかけの返事だった。
窓の外から、寮へ戻ってきた生徒たちの声がする。明日の放課後には、ネラがイルマと練習する約束をしている。フェリクスはグレンに見せるため、土の形を何度も描き直していた。
二人にも、それぞれ行きたい先ができるのだろう。
マシュウは新しい行へ筆を置いた。
自分は、卒業したらまず冒険者として各地を歩いてみたい。依頼を受け、街を知り、そのうえで長く腰を落ち着けたい場所ができたなら、自分から頼みに行けばいい。
百年前に知っていた場所が、今どうなっているのか。まだ見ていないものが、あまりにも多かった。
そこまでは手紙に書かなかった。
申し出への礼と、卒業後は冒険者として働きたいことを書き、今回は支援を辞退する旨を添えた。何度か書き直し、最後に名前を入れる。
読み返しているうちに、明日の薪運びを忘れそうになった。時間割を引き寄せ、仕事を終えてから実技場へ向かう時刻を確かめる。
教本を開き、手紙の横へ課題の用紙を置いた。明日の昼休みを空けておけば、仕事の前に、少し足の練習ができる。
翌朝、返事を預けた帰りに廊下でフェリクスと会った。
「決めたのか?」
「ああ。卒業したら、しばらく冒険者をやる」
話を聞いていたフェリクスは、一度だけ頷いた。それからマシュウの脇に挟まれた教本を見て、歩く速さを緩める。
「では、冒険者殿。今日の課題は終わっているんだろうな」
「終わらせた。最後の問だけ、合ってるか見てくれ」
「ほう。珍しく早いな」
マシュウは教本を開き、昨夜つけた印を見せた。フェリクスが覗き込む。
「そこは合っている。ほかも見せてみろ」
少し前の頁へ戻りながら、二人で教室へ向かった。




