第22話 広がる名前
ネラの匙が、皿の縁を小さく叩いた。
すくった汁がこぼれ、手の甲へ落ちる。熱かったはずなのに、彼女はしばらく、その手を見ていた。
「……あれ。さっきまで、普通に持てたんだけど」
学園の医務室には、薬を煮た匂いが残っていた。窓の外はもう薄暗い。傷の手当てを終えた三人の前に、エリオが厨房から運んできた食事が並んでいる。
マシュウは自分の椀を置いた。ネラはもう一度匙を握ろうとしたが、指が細かく震え、思った位置へ動かなかった。
「置いとけ。冷めたって食える」
「お腹は空いてるんだけどね」
いつものように笑おうとして、口元だけが動いた。
フェリクスが、丸めた布を彼女へ差し出した。ネラが手についた汁を拭う間、誰も次の一口を急がなかった。
「あの人、助かったんだよね」
「うん。治療を受けてるって、先生が言ってた」
エリオが答える。ネラは頷き、布を握った。
「それは、よかった」
その声を聞き、マシュウも窓へ目を向けた。帰りの馬車で見た、担架を運ぶ衛兵の背中が浮かぶ。女性は治療所へ、捕らえられた男たちはそれぞれ監視をつけられて別の建物へ連れていかれた。
土に汚れた制服は、三人分まとめて籠へ入れられている。借りた上着の袖から覗く自分の包帯が、妙に白かった。
「マシュウ、薪の当番は交代してもらえたよ」
エリオの声に振り向いた。
「頼んでくれたのか」
「厨房の人に会ったから。今日は来なくていいって。あと、その皿は明日でいいってさ」
「助かった。すっかり忘れてた」
礼を言うと、エリオはようやく自分のパンを取った。三人の食事だけを用意したのかと思っていたが、盆の隅に、もう一つ椀があった。
「お前も食ってなかったのか?」
「門のところで待ってたら、食堂が閉まりかけてて」
マシュウはパンを置き直した。エリオは気まずそうに目を伏せたが、すぐに、今度は四人で食べられるから、と椅子を寄せた。
*
食事を終える頃、ダリウスが医務室へ入ってきた。エリオが盆を重ね、返しに行くと告げて席を立つ。
教員は三人の顔を見てから、空いた椅子へ腰を下ろした。
「彼女は命に別状ないそうだ。しばらく治療所で休ませる。衛兵もついている」
ネラの肩が落ちた。隣でフェリクスも、組んでいた指をほどいている。
「追ってきた連中は、何者だったんですか」
フェリクスが尋ねると、ダリウスは持ってきた書類を膝へ置いた。
「捕らえた中に、以前から手配されていた男がいた。灰鴉の一員だ」
「灰鴉?」
「金で殺しを請け負う連中だ。今日の追跡にも、その組織が関わっていると見られている」
マシュウは椀の底へ視線を落とした。逃げる女性へ撃たれた矢も、小屋の中へ放たれた雷も、当たればどうなるかを承知した攻撃だった。
「あの人は、どうして狙われたんだ?」
「まだわかっていない。誰の依頼なのかもな。捕らえた者から話を聞き、調べる」
ネラが顔を上げた。
「私が倒した男も……生きてますか」
「ああ。傷の手当てを受けている。四人とも生きて捕らえた」
ネラは膝の上の手を見て、短く息を吐いた。
ダリウスは書類を開いた。衛兵から聞いた内容を確かめながら、退路を変えたところと、小屋に着いてからのことを三人へ尋ねる。途中でネラの声が詰まると、急かさずに待った。
マシュウが話し終える頃には、窓の外へ最初の灯りがついていた。
「ネラ。近くで動く相手へ、狙って風を当てられたんだな」
「はい。杖が届くくらいの距離なら、狙いを外さずに撃てました」
「フェリクスは射手を足元から崩し、捕らえた。盾を保つだけでは済まないと、自分で判断した」
フェリクスが背を伸ばした。
「二人にも、放課後の強化実習へ参加してもらう。治療担当の許可が出てからだが、時間を空けられるか」
ネラがこちらを見た。マシュウは頷きかけ、それより早く彼女が教員へ向き直るのを見た。
「空けます。行きたいです」
「私も、参加します」
フェリクスの返事も早かった。膝へ置いていた手が、制服を着ているときと同じように、上着の裾を一度だけ整える。
「三人とも、まずは怪我を治せ。実習の日程は、それから決める」
「わかってる。今日はもう、拳も上がらねえよ」
試しに腕を動かしかけると、ネラとフェリクスが同時にこちらを見た。マシュウは途中でやめ、手を膝へ戻した。
*
翌朝、教室へ入った途端、ネラが足を止めた。
窓際にいた少女が駆け寄り、杖を持つ彼女の腕を見て、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「昨日のこと、聞いた。大丈夫?」
「うん。授業に出ていいって言われたから」
「あの、風で戦ったって……本当?」
ネラは少し困った顔をした。答える前に、今度は別の生徒がフェリクスへ声をかける。
「弩を持った相手を倒したの、君なんだって?」
フェリクスは鞄を机へ置きかけたまま、顔を上げた。
「誰から聞いた?」
「さっき、教務室から戻った先生が。三人とも帰ってきたから、騒がずに迎えろって」
「十分、騒いでいるぞ」
そう言いながらも、フェリクスの声は強くなかった。隣の席の少年が椅子を引くと、礼を言って腰を下ろす。
マシュウにもいくつか質問が飛んだが、やがて授業の鐘が鳴った。教本を開く音が戻り、黒板へ書かれた日付が、昨日から一日しか経っていないことを教えた。
最初の休み時間、三人が廊下へ出ると、向こうからロルフたちが歩いてきた。隣にいるのは、護送演習で一緒の班だったグレンとイルマだ。
ロルフがマシュウの包帯を見た。
「しばらく、実習には出られないそうだな」
「腕を振るのは止められた。見に行くくらいはいいらしいけど」
「なら、見ておくといい。こちらも練習は続けている」
そう言って脇へ寄ったロルフの横から、グレンがフェリクスへ顔を向けた。
「射手を、どうやって捕まえたんだ?」
「土で両足を挟んだ。着地したところを狙ってな」
「一度に盛ったのか?」
「靴の周りからだ。上から被せると、先に足を抜かれる」
「なるほど。動けるようになったら、実技場で見せてくれないか」
フェリクスは一瞬、答えを忘れたようだった。Bクラスの少年は返事を待っている。顔を覗き込まれ、ようやく小さく頷いた。
「構わない。その代わり、君の土壁の作り方も見たい」
「いいぞ。護送演習のあとから、あの道をどう作ったのか気になってたんだ」
横ではイルマが、ネラの杖についた傷を見ていた。
「ずいぶん近くで戦ったんだね」
「逃げたくても、戸口があったから」
「風を撃つときも、そのくらい近い方が得意?」
「うん。遠いと、狙ったところにまとまらなくなる」
「じゃあ今度、合わせてみない? 短い剣を相手にする練習なら、できるから」
ネラは杖を持ち直した。切り傷のついた腕を見てから、イルマの顔を見上げる。
「治ったら、お願い。今度は、痛かったら止めてね」
「練習なんだから、当然でしょ」
イルマが笑い、ネラもようやく口元を緩めた。
マシュウは少し離れて、そのやり取りを聞いていた。土を動かす手振りまで加わったフェリクスの説明を、グレンが真剣に見ている。ネラはイルマの立ち方を確かめ、自分の足を半歩引いたところで、腕を押さえて動きを止めた。
「今やるなよ」
マシュウが言うと、ネラがこちらを睨んだ。
「昨日の自分に言って」
フェリクスまで笑った。次の授業を知らせる鐘が鳴り、皆がそれぞれの教室へ戻っていく。
別れ際、グレンが呼んだのはフェリクスの名前だった。イルマはネラへ手を振っている。
マシュウは教室の扉を開け、二人が追いつくのを待った。




