第20話 土の冠
岩の上で膨らんだ火が、男の手を離れた。
「土盾!」
フェリクスの前へ、斜めの土の面が立ち上がった。火球がぶつかり、熱い風が頭上を抜ける。頬に貼りついていた濡れた髪が乾き、焦げた匂いが鼻へ入った。
盾の脇から顔を出しかけたところへ、矢が刺さった。
男はもう弩を構え直していた。岩へ肘を置き、こちらが出てくるのを待っている。
フェリクスは頭を引いた。頬の傷から垂れた血が、襟へ染み込んでいく。
このまま盾を作り続けても、相手は射る場所を変えるだけだ。ネラも、あの女性も、外へ出せない。
「ネラ、石壁の方へ寄っていてくれ」
「わかった。こっちは見てるから」
返事を聞いてから、フェリクスは杖を下ろした。川岸に転がる石を浮かせ、盾の横へ送る。
「礫雨!」
飛んだ石が岩肌を叩いた。男は上体を引いてやり過ごし、最後の一つが落ちると、すぐ弩を戻してきた。矢が土盾を削り、割れた土がフェリクスの膝へ降る。
こちらが撃つたび、相手は肩を隠すだけで済んでいる。
フェリクスは岩を見た。川へ張り出した平たい部分に男が乗り、その奥にある高い岩肌を盾にしている。正面から石を飛ばしても、身体へ届くところはわずかだった。
男が弩を下げ、空いた手を岸へ向けた。
「焔蛇」
細長い炎が地面を走った。土盾の前で曲がり、その脇を抜けて小屋へ向かう。
ネラの杖が動いた。だが、戸口には倒れた男もいる。風で散らせば、どこへ火が飛ぶかわからない。
フェリクスは盾を崩した。
落ちた土が炎の途中へかぶさり、赤い筋が途切れる。残った先端がなおも進もうとしたが、杖を返して寄せた土に埋もれ、黒い煙を細く吐いた。
同時に、矢が飛んだ。
フェリクスは肩から地面へ倒れ込んだ。靴のすぐ横へ矢が刺さり、立ち上がろうとついた掌に、小石が食い込む。
男は小屋を狙っていた。フェリクスに盾を捨てさせるために。
「フェリクス!」
「大丈夫だ。出てくるな!」
土を吐き、膝をついたまま杖を上げる。次の矢が来る前に、もう一度低い盾を作った。
小屋へ戻れば、石壁がある。けれど、あの火を放っておけば、木の戸も水車も燃やされる。中ではまだマシュウが戦っているのだ。
フェリクスは袖で掌を拭った。泥が広がっただけだったが、今は滑らず握れればよかった。
岩の下を水が洗っていた。薄く張り出した部分には割れ目があり、その下へ川岸の土が入り込んでいる。男が膝を置くたび、小さな欠片が落ちた。
フェリクスは盾の陰から、杖先をそちらへ向けた。
「尖塔!」
土が岩の手前で持ち上がり、尖った柱になった。男の足へ届く前に先が崩れ、川へ落ちる。遠い。狙った場所より、手前にできてしまった。
男の口元が動いた。笑ったのか、何か言ったのか、ここからはわからない。弩を持ち上げる手だけは、よく見えた。
フェリクスは盾の下へ身体を伏せた。
高い壁を長く保つことは苦手だった。動く相手へ石を当てる練習も、まだ足りない。それでも、どこに土を盛るかまで相手に決められてたまるか。
杖を握る指へ力を込め、小屋から斜めに離れた場所へ新しい盾を作る。低い土の面へ矢が当たった瞬間、フェリクスは走った。
次の矢が、後ろに残した盾を叩く。
滑り込んだ先で、フェリクスは息を吐いた。さっきより岩が近い。男は弩を傾け、次の矢を溝へ置いていた。
「礫雨!」
今度は石を高く放った。男の顔を狙った一つが岩を跳ね、少し遅れて残りが上から落ちてくる。男は弩を胸へ抱え、岩肌へ背を押しつけた。
フェリクスは、その足元へ杖を下ろした。
「尖塔!」
割れ目の下へ押し込まれた土が、細い柱になって突き上がった。
岩が短く鳴った。張り出していた端が割れ、男の膝の下から崩れ落ちる。男は身体をひねり、岸へ跳んだ。
フェリクスは立ち上がった。着地した男が弩を上げるより早く、その足元を見据える。
授業では、地面へ打った杭を挟んで練習した。動く足を狙えば、形を整えている間に逃げられる。両足を踏みしめた今なら、間に合う。
「縛冠!」
濡れた土が、靴の周囲から幾本もせり上がった。内へ曲がった先端が足首へ重なり、冠のように両足を囲む。
男の身体が前へつんのめった。弩を地面へついて支え、片足を引き抜こうとする。土の一部が剥がれたが、踵を抱えた根元は崩れなかった。
フェリクスの腕が重くなった。
捕まえた。それだけでは、終わらない。
男が弩を横へ振った。フェリクスは杖を上げかけたが、狙われた先が自分ではないと気づいた。土の盾を避け、小屋の戸口へ弩が向いている。
「させるか!」
足元の石を二つ、続けて撃ち出した。
一つが弩を押さえる手へ当たり、矢が小屋の上を抜ける。二つ目は、火を作ろうとしていた反対の腕を打った。赤い光が散り、男が呻いて肩を丸めた。
フェリクスは次の石を持ち上げた。数を揃えようとはせず、拳ほどの一つを、男の胸へ向ける。
男は弩を手放した。上げた腕の間へ石が当たり、身体が後ろへ倒れる。捕まった足が引かれ、土が軋んだ。
フェリクスは杖を下ろさなかった。
男は横向きに咳き込み、何度も息を吸おうとしている。指が動くたびに見ていたが、火はもう生まれなかった。
川を流れる木片が、崩れた岩へぶつかった。
その音が聞こえるまで、フェリクスは、自分が息を止めていたことに気づかなかった。
「……ネラ。止めたぞ」
振り向かずに言うと、すぐに返事が来た。
「見てた! こっちへ矢も来てない!」
フェリクスは足元を確かめながら近づいた。落ちた弩を靴で遠ざけ、男の腰にある短刀も抜いて投げる。泥の中へ片膝をつき、鞄に入れていた実習用の縄を引き出した。
「手を後ろへ回せ」
男はフェリクスを睨んだ。こちらの頬に泥がついていることも、声が掠れていることも、見えているはずだった。
フェリクスは杖を向けたまま待った。やがて男が腕を動かし、その手を背中へ回した。
縄を締めたあとも、指が思うように動かなかった。結び直そうとしたところで、上流から靴音が近づいてくる。
「そのまま押さえていてくれ!」
槍を持った衛兵が走ってきた。フェリクスは立ち上がりかけ、脚が痺れてよろめいた。
「あの小屋に、怪我をした女性がいます! それと、この男は火を使います!」
衛兵は倒れた男と、土に捕まった足を見た。続いてフェリクスの杖へ目を向ける。
「君が止めたのか?」
「はい。戸口のもう一人は、ネラが」
衛兵の眉が上がった。だが、すぐに膝をつき、捕らえた男の両腕を押さえ直す。
フェリクスが縄を渡すと、衛兵は手首の結び目を確かめた。緩かったところだけを締め直し、逃げようと肩を動かした男を地面へ押し伏せる。
「よく止めた。ここは引き継ぐ。君は仲間のところへ」
フェリクスは頷き、立ち上がった。二人目の衛兵がネラのいる方へ走っていく。小屋の川側には、もう矢を射る者も、刃を持って立っている者もいなかった。
戸口へ戻ると、ネラが口元を少し緩めた。
「袖、すごいことになってる」
「君もな」
フェリクスは袖を見下ろし、破れていない方で額の汗を拭いた。それから土のついた手で杖を握り直し、小屋の中へ顔を向けた。
臼の向こうで、赤い炎が弾けた。マシュウが剣の男を裏口へ押し戻している。そのすぐ脇、石壁にもたれた女性が、包帯へ両手を重ねていた。
「マシュウ! 表は片づいた!」
マシュウは相手から目を離さず、短く頷いた。
「助かった。あの人を頼む!」
フェリクスは女性へ駆け寄った。背後を気にしていたマシュウの足が、今度は大きく前へ出た。




