第19話 私の間合い
小屋の奥で、何かが壁へぶつかった。
ネラは振り向きかけ、杖を握り直した。目の前の男が、こちらの肩の動きを見ていた。焼けた革鎧の下で呼吸を整えながら、短剣を持つ腕を下げている。
あの刃を通せば、後ろにいる人へ届く。
ネラは小屋の戸口を背に、左足を少し前へ置いた。靴の中まで川の水が入り、足を動かすたびに嫌な音がする。背後ではフェリクスが石壁に身を寄せ、岩の上の弩使いへ杖を向けていた。
川側には、水車の軸を支える太い柱が立っていた。男がそちらへ寄ったので、ネラも足を動かす。小屋へ向かう道を塞ぐたび、男の視線が顔へ戻った。どこかへ追い払うつもりだったのが、今はネラを倒すことに集中している。
「風燕!」
放った風の刃を、男は身を沈めてかわした。斜め後ろの地面が細く裂ける。その跡を見る前に杖先を戻すと、もう男が踏み込んでいた。
ネラは右へ逃げた。外套の裾が頬をかすめ、続いて低い位置から短剣が伸びてくる。杖を横にして押し返そうとした瞬間、鋭い音とともに木肌が削れた。
刃が、見えた長さよりも先まで届いていた。
制服の脇に冷たいものが触れ、ネラは息を呑んだ。布が裂け、遅れて皮膚が熱くなる。
男が手首を返すと、短剣の先から水が垂れた。地面へ落ちる前に細く引き戻され、鋼の縁へ重なっていく。
「流刃」
透明な刃が、もう一度伸びた。
ネラは後ろへ跳び、着地した踵を石へぶつけた。足首がぐらつき、思わず杖の先を地面へつく。その横を、男が抜けようとした。
「行かせない!」
杖を引き上げ、男の胸へ風を叩きつけた。外套が膨らみ、足が一度止まる。けれど、それだけだった。男は顎を引いて耐え、短剣を構え直した。
鎧猪のときと同じだ。正面から押しても、止められない。
ネラは乱れた足を置き直した。逃げ続ければ、小屋の入口を空けてしまう。遠くへ撃った風燕も、男に届く頃には刃が広がっていた。
杖の傷へ指が触れた。あと少し深ければ、握っていた手まで切られていたかもしれない。
逃げたいのをこらえて、もう一度杖を握った。荷運びで硬くなった掌が、削れた木肌へ当たる。ネラは指を少しずらした。手放さずに済む場所を探して握り直すと、杖先もようやく落ち着いた。
男はその指を見て、今度は真っすぐネラへ向かってきた。
下がりたい。
喉の奥から出かけた声を飲み込み、ネラは左足を外へ滑らせた。足を揃えず、次に動ける位置へ右足を残す。中庭で何度もやり直した動きだった。
腹へ来る短剣を、杖で斜めに受けた。水の刃が木を削る。それでも、今度は身体まで届かなかった。
男が腕を引く。その手首へ、ネラは杖先を向けた。
「逆巻!」
引かれる腕の下から、短い風が巻き返した。剣先が外へ振れ、まとわりついていた水が男の頬へ散る。
ネラはすぐに風燕を撃った。男が肩をひねり、刃は腕の外側を裂いて後ろへ抜けた。短剣を握る指が緩み、男は傷ついた腕を胸へ寄せる。
当たった。
ネラは追おうとして、男の左手が上がったことに気づいた。
「水礫」
水の塊が顔へ飛んできた。腕でかばったが、拳で殴られたような痛みが走る。割れた水が目へ入り、視界が白く滲んだ。
その向こうで、革が擦れた。
ネラは横へ動いた。さっきまで首のあった場所を短剣が抜け、濡れた髪が数本、頬へ落ちる。男は剣を止めず、手首を返して追ってきた。
杖を両手で握り、間へ差し込む。削られた部分に刃が食い込み、木が軋んだ。
男の顔が近かった。歯を食いしばり、傷ついた腕でもこちらを押し切ろうとしている。ネラの靴が土を擦った。踏ん張る足へ力を込めても、少しずつ後ろへずらされる。
「ネラ!」
フェリクスの声がした。こちらへ杖を向けかけた彼の横で、石壁が矢を弾いた。
「そっち、見てて!」
叫んだ自分の声が、耳の奥で震えていた。
ネラは男の顔を見たまま、押していた腕を緩めた。身体を横へずらすと、短剣が杖の溝を滑り、男の肩が前へ出た。
「逆巻!」
伸びきった肘へ風を当てる。腕が横へ流れ、ネラの脇を水の刃が通り過ぎた。彼女は引きつけていた杖の石突を、男の脇腹へ押し込んだ。
硬い革に阻まれたが、男の息が詰まった。マシュウに殴られて焦げた場所だった。
ネラは突き放して離れた。男は咳き込みながら、短剣を左手へ持ち替える。
こちらの風を警戒している。近づけば受け流されるとわかったのか、今度は間を空けたまま、水を手元へ集め始めた。
ネラも杖を上げた。
男は左の短剣を前へ出し、右手の水をその後ろに隠していた。杖先を右へ向けると、剣もそちらへ動く。ネラは少しだけ左へ戻した。男の足は動かず、手元の水ばかりが大きくなる。
遠くからもう一度撃ってくると思われている。
近ければ曲げられる。腕一本なら動かせる。
自分の風が届くところは、さっきまで逃げ出したかった場所だった。
男の右手から水礫が飛んだ。ネラはしゃがんでかわし、そのまま前へ足を出した。踵の後ろへ短い風を吹かせる。
「翔歩!」
地面を蹴る力に風が重なり、身体が前へ滑った。練習で速さを欲張って転んだことがある。ネラは後ろの足をすぐに引きつけ、腰を起こしすぎないようにした。
男が驚いた顔で短剣を突き出した。
ネラは止まらず、左手の外側へ回った。透明な刃が袖を裂く。男は腕を引き戻そうとしたが、その手元には、もう杖先が向いていた。
「風燕!」
男が短剣を立てて受けようとした。ネラは風の先をわずかに曲げた。練習場で、束の端を狙ったときよりも近い。薄く絞った刃が短剣の脇を抜け、握る手の甲を打った。
刃が落ち、水が形を失って地面へ広がる。ネラは杖先を下げ、もう一度風を放った。今度は踏み出しかけた腿へ、斜めに通す。
男が叫んで膝をついた。ネラも息を止めたが、杖を下ろさなかった。
男の右手が腰へ伸びる。外套の下から、もう一本の柄が覗いた。
ネラは両手で杖を振り下ろした。傷のある前腕へ石突が当たり、男の手が離れる。続けて肩へ風をぶつけると、踏ん張れなくなった身体が横へ倒れた。
男は起き上がろうとした。だが、地面についた手が崩れ、血の滲む脚も伸びなかった。落とした短剣へ向かう指先を見て、ネラは靴で刃を遠くへ払った。
「手を、そこから離して」
杖を顔の前へ向ける。声が掠れ、うまく息が続かなかった。
男の指が止まった。
ネラは腰のもう一本も抜き取り、同じ方へ投げた。手を伸ばす間、歯が鳴りそうだった。倒れた男は傷ついた腕を腹へ寄せ、浅く呼吸している。
もう、追ってこない。
そう思った途端、自分の膝まで折れそうになった。
ネラは杖へ体重を預けかけ、慌てて持ち上げた。まだ小屋の奥で戦う音がしている。フェリクスも壁際を離れていない。
「こっち、止めた……!」
声を張ると、フェリクスが一瞬だけ振り向いた。倒れた男を見て、ネラの顔へ視線を戻す。
「怪我は?」
「あとで見る。まだ動ける」
言ってから、脇の下がじくじく痛んでいることを思い出した。濡れた袖には、水だけでなく血も混じっていた。
朝、切った葦の束が倒れたとき、振り返って笑った。今は、切った相手がすぐ目の前で息をしている。
ネラは口元を袖で拭い、顔を上げた。
「戸口と、この男は私が見てる。そっちは?」
「任せてくれ。撃たれっぱなしでは終わらせない」
彼はそう答えながら、杖を構え直した。岩の上の男が弩を下ろし、空いた手へ赤い光を集めている。
ネラは倒れた男と小屋の間へ戻った。さっきまで震えていた足を、自分で決めた場所へ置いた。




