第12話 譲れない一歩
「水壁!」
レティシアの杖から膨れ上がった水が、踏み込むマシュウの胸へ押し寄せた。拳の前に集めた炎を消し、両腕を重ねて受けた瞬間、足裏が濡れた砂を削る。厚い扉に押されるような重さに逆らわず、マシュウは片足を引きながら身体をひねり、水を腕の外へ流した。
三歩下がってようやく止まると、レティシアも杖を構え直していた。自分の魔法に押し返された踵の跡が、足元へ二本残っている。
「……そいつは、きついな」
「あなたが離れないからでしょう」
濡れた髪が頬へ張りついているのに、彼女は直そうとしなかった。杖を持つ両手が、こちらの肩の動きを追っている。
マシュウは息を吸い、左腕の痛みを確かめた。水を正面から何度も受けていれば、先に腕が上がらなくなる。それでも、さっきまで自由に場所を選んでいた彼女を、防ぐために止まらせることはできた。
マシュウは左手から火炎矢を放ち、その横を走った。レティシアが火を水で払う間に距離を詰めると、杖の下端が胸へ迫る。左の手首で横へ流し、短い右を重ねたが、今度は彼女のほうが先に柄を返していた。
右を防いだ柄が、そのまま左の進路まで塞ぐ。さっきの連打を見て、拳を引く順番まで読まれている。マシュウは左を出さずに膝を沈め、待ち受けていた杖の下へ右拳を落とした。
「天穿!」
踏みしめた足から腰へ力をつなぎ、下から炎を突き上げる。拳が横向きの杖を打ち、火花が彼女の腕の間を抜けた。レティシアが柄を押し下げようとするより早く、持ち上がった肘の下へ、待たせていた左拳が滑り込んだ。
胴当てを打つ鈍い音に、彼女の呼吸が詰まった。それでも後ろへ倒れず、右手で杖を引き寄せ、離した左手から水を低く放ってくる。マシュウは踏み込みかけた脚を止めきれず、右の腿を打たれて片膝が沈んだ。
すぐ目の前へ、杖の柄が横から迫った。マシュウは両腕で受け、水を含んだ砂へ靴を深く食い込ませる。彼女も片手で水を放ったぶん、杖を押す両腕が揃っていない。身体を横へ開き、空いた右足の裏を胴当てへ当てて押し出すと、レティシアは靴で砂を削りながら距離を取った。
マシュウも脚を戻したが、立ち直るより先に水壁が広がった。両腕を重ねて身をひねると、重い流れが肩を叩き、また二人の間を押し広げる。息を吸った胸が痛んだ。拳を通せても、そこで止まれば、彼女の杖がすぐに返ってくる。
「あの人、レティシア様と打ち合ってるぞ」
「さっきまで、射撃じゃ全然……」
話す声の近くで、ロルフは黙っていた。剣で正面を守った自分は横から蹴られ、連打を防いだレティシアは下から構えを崩された。視線がマシュウの両手と足を追い、気づくと、自分でも構える位置を探していた。
「残り十秒!」
ダリウスの声が響くと、レティシアの足が止まった。マシュウも構えを低くし、杖の先と、そこへ集まり始めた水を見た。彼女の呼吸は荒かったが、狙いは最後まで逸れていなかった。
「水穿槍!」
正面から来る一本を、マシュウは右へ身を沈めて外した。続く二本目が足元を削り、横へ逃げる場所を消す。レティシアは三本目をすぐには撃たず、こちらが踏み切る瞬間まで杖を引きつけていた。
マシュウは左手から火炎弾を放った。彼女が水を広げ、火がその表面で弾ける。白い飛沫が上がった横を抜け、マシュウは痛む脚を引きずらぬよう歩幅を縮め、踏み荒らされていない砂を蹴った。
杖先がこちらへ戻るのを左腕で押し上げ、右拳の前へ炎を集める。レティシアは逃げず、押し上げられた杖の下端を胸元へ引いた。
「赫牙!」
胴当てへ拳と炎が沈むのと、短く返された杖先から水が噴き出すのが重なった。腹を打った手応えが肘へ返り、次の瞬間には、自分の胸も重い水に押されていた。
マシュウは息を吐きながら後退し、滑りかけた足を踏み直した。レティシアも杖を砂へついて身体を支え、すぐにその先端を持ち上げる。もう一度踏み込もうとしたところで、二人の間へダリウスの声が落ちた。
「二分経過。そこまで、引き分けだ!」
マシュウは拳を下ろしたが、呼吸はすぐには戻らなかった。目の前の相手も肩で息をし、杖を支える指を何度か動かしている。次の一歩でどちらが先に届くのか、まだ確かめたい気持ちが残っていた。
周囲から、すぐには声が上がらなかった。レティシアの胴当てについた焦げ跡と、マシュウの濡れた制服へ、視線が行き来していた。
「引き分け……? AとEだぞ」
誰かが口にすると、隣の生徒が顔を上げた。
「レティシア様が合わせてくださったんだろ。授業なんだから――」
「私は、勝つつもりで戦いました」
レティシアの返答は、まだ少し息が切れていた。言いかけた生徒のほうを見てから、胴当てへ添えていた手を離す。
「勝ち切れなかったのは、彼が防いで、攻め返したからです」
生徒が黙った。自分の結果を軽く扱う慰めを、彼女自身が受け取らなかったのだった。少し離れた場所で、ロルフがゆっくり息を吐いた。
「だから、僕にも勝ったんだ」
その声を聞き、マシュウはようやく、周りがずっとこちらを見ていたことを意識した。水を飲もうと白線へ向かうと、近くにいた生徒が道を空けた。身分を恐れて退くときとは違う、見知らぬものを目の前で見たあとの動きだった。
「君は、なぜEクラスにいるんだ?」
尋ねた生徒の声に、もう笑いは混じっていなかった。マシュウは濡れた袖を引き、少しだけ答えに詰まった。
「筆記が悪かったのと、対人試験が最後までできなかったからだ」
「それだけで……?」
「詳しい採点は知らねえよ。だから、昇星戦で上へ行く」
ダリウスは記録を書き終え、用紙を閉じた。
「今日の結果も残す。だが、見ていた者は所属だけを見直して終わるな。魔力の差がある相手に、なぜ拳を届かせられたのか。それを次の自分の実技に使え」
返る声は、実習が始まったときより真剣だった。マシュウが水場へ向かう背中へ、どうして連打の途中で下から打てたのか、と別の生徒が尋ねてきた。
*
腕の砂を落としていると、横から乾いた布を差し出された。レティシアが用具棚から持ってきたらしく、自分のぶんと二枚、手にしていた。
「使うでしょう」
「助かる。次は着替えを持ってくる」
布で顔を拭く間も、彼女は黙って隣にいた。髪を直す指が少し震えているのを見て、マシュウは胸の痛みを思い出した。
「お前の最後の水、まだここに残ってる感じがするぞ」
「私もです。下から来る拳を警戒したら、最後は正面からでした。次を見ているつもりで、前の技を追っていたのね」
レティシアは自分の腹を見たあと、顔を上げた。
「次は勝ちます。引き分けのままでは、帰って練習する理由が増えて困るわ」
「じゃあ、お互い忙しくなるな」
マシュウが笑うと、彼女も一度だけ息を漏らした。整った笑顔を作ろうとして、うまく収まらなかったような顔だった。
外へ出ると、渡り廊下でエリオたちが待っていた。湿った制服を見たネラが口を開くより早く、後ろから来た実習の生徒が、友人へ大きな声で告げた。
「本当だって。あのEの一年、ヴェルナー家のAと引き分けたんだ!」
フェリクスの手から、持っていた教本が滑り落ちた。拾おうとしたマシュウの腕を、ネラが掴む。
「待って。今日は何を教わってくる日だったの?」
「水を使う奴には、近づいてからも気をつけろって話だ」
「そういうところからじゃなくて! 最初から話して!」
エリオまで身を乗り出してきたので、マシュウは教本をフェリクスへ返し、食堂へ歩く速度を落とした。話の途中で何度も聞き返され、そのたびに、三人の顔へ驚きと笑みが広がっていった。




