地獄の前に乾杯を
監査官は木でできた簡素な民家にいた。床に座りながら何かを待っている。
住人は戸惑いながら、木のコップを差し出す。
「あの、大した物はお出しできないのですが……」
監査官は差し出されたそれを受け取った。井戸水だろうか。コップの中の水面が揺らめいている。
それを見た憲兵の一人が声を荒げた。
「貴様!このお方を誰だと思っている!」
「ひっ。」その声に飛び上がる。
「そんなもの差し出すなんて!」
憲兵が怒鳴る。
監査官はスッと左手を掲げる。憲兵がグッと口を閉じた。監査官は住人を見る。
住人は「もっ申し訳ありません。」と肩を震わせた。
「いや、問題ない。心遣い感謝する。」
監査官の表情は変わらない。
「……頂こう。」と口をつけた。
憲兵は驚き、住人はホッと胸を撫で下ろした。
その時窓枠を抑えながら、外を監視していた他の憲兵が声を上げた。
「あっ!来ました!」
憲兵の声に監査官がコップから口を離した。
「ルミエールです。ルミエールの馬車が到着しました。」
憲兵はなおも窓の外を注視しながら続ける。
「問題なく別荘に入りました!」
報告を黙って聞いていた監査官に、先ほどの憲兵が「予定通りですね。」と声をかける。
「……ああ、ここまではな。問題は、ここからだ。」
監査官はまたコップに口をつけた。
伯爵の別荘にルミエールの馬車が停まる。
その二階の窓際に黒髪の侍女が立っていた。おかっぱの侍女は、長い前髪を耳に束ねて留めたいた。糸のように細い目が静かに階下の馬車を見つめていた。
馬車からセリナが降りた。黒っぽい紺のドレスを纏ったセリナが軽やかに降りる。
馬車を降りるとすぐ反転し、馬車の中へ手を差し出した。
長く黒い髪の白いドレスの女がその手をとった。
セリナの手を握りながら二人は移動した。屋敷の前で足を止める。
女が屋敷を見上げた。女の顔はよく見えない。
こちらに気づいているのだろうか。侍女はなおも階下を見下ろしその様子を観察していた。
女は屋敷を見上げていた。二階の窓に影が一つ。こちらを観察しているようだ。
女の手を握りながらセリナは囁いた。
「黒曜くん。準備はよろしくて?」
女は女装したカイだった。
「勿論。」その声は迷いがなくまっすぐに。
その淡々とした声に、セリナは唇を少し噛む。
ミナの手をとりこの屋敷前に立った時、その指先は冷たく微かに震えていた。カイにはそれが全くなかった。
その時屋敷の門が僅かに音を立て開き始めた。カイはセリナの手から離れ、淑女の礼をとり頭を下げる。どこで覚えたのか。ちゃんと見れる形となっていた。
セリナは一歩前に出た。
屋敷の門から男が出てきた。
伯爵だ。
セリナを見るや否やその目が吊り上がる。
セリナは穏やかに「ごきげんよう。」と淑女の礼をとり挨拶する。
顔を上げるのを待って、伯爵は苦言を呈した。
「よもや、事前に書簡を送ったというのに。休養中に乗り込んでくるとは……はあ、これだから商人上がりは。ほとほと嫌になる。」
わざとらしく頭を抱えて見せる。
「セリナ嬢。下手な女を連れてこられても困るのだ。あれを見つけて連れ戻してくれれば、今回の件は水に流そう。」
「まず、商人あがりではありません。」
セリナは胸を張って伯爵に向き合い立つ。
「伯爵様。私はあがりではなく、歴とした商人でございます。そして、私の商品は一級品。前回お送りした品も。……非売品を伯爵様のためならばとお贈りしたのに。何があれば逃げられる事態になるのか……」
セリナは頬に手を当て首を傾げる。
「ほとほと呆れますわ。あら……うふふ、失礼。今のは失言でしたね。」
セリナの笑顔に伯爵は奥歯を噛み締める。
「まず私のお贈りした品に不手際があったこと、誠に申し訳ございません。」
セリナは軽く頭を下げ、続ける。
「商品に問題があれば補償するのも商人の勤めでございます。こちらをどうかお受け取りください。」
セリナは半身になってカイを見やる。
セリナの視線に合わせて伯爵もカイを見る。カイは淑女の礼をやめて顔をあげた。
伯爵は生唾を飲み込んだ。
「……私の宝石箱の中でも秘蔵の品ですわ。」
今まで余裕のあったセリナから笑顔が消える。それを見てカイはセリナに微笑んだ。
その穏やかさにセリナの口角が引き攣った。
「コレは、コレは!さすがセリナ嬢だ!アレより遥かに良い!」
伯爵が両手を前に出して感嘆の声を上げた。
その声に反応してカイが伯爵に顔を向ける。その目は笑ってない。でも伯爵は気づいていないようだ。
「……ご満足いただけて何よりです。」セリナが俯きながら呟いた。
伯爵は片手で宙を払う。
「セリナ嬢。商売気が強いのは知ってるが、前回のように長居されては堪らん。今日はその補償品を受け取るゆえ、お帰り頂こう。」
「ええ、言われずとも。今日はこれでお暇しますわ。」
伯爵は満足気にカイに手招きをする。
「その顔をよく見せてくれ。」
カイがゆっくり伯爵に近寄る。
伯爵はその顎を乱暴に掴み引き寄せた。顔をじっくり見る。
「……ん?もしやどこかで会ったか?見覚えがある気が……」
伯爵が訝しむ姿にカイは、ふっと吹き出し裏声で返した。
「まあ。侍従風情が伯爵様と面識があるわけございませんわ。」
その言葉に伯爵が笑い出す。
「よく分かっているではないか!そうだ!私は高貴なのだ!本来お前のような者と会話することはない。喜べ。」
伯爵の言葉にカイは口角を吊り上げた。
「本当に光栄でございます。伯爵様。」
「人形のように綺麗に笑う。なんと愛らしい。」そう返す伯爵の目は飢えた獣のよう。
セリナは踵を返して馬車に向かう。
その背に向かって伯爵が告げる。
「セリナ嬢。次は君の宝石箱を見せてくれたまえ。センスが良いとは思っていたが、どうやら我々の好みは似ているようだ。」
セリナはとりわけ低い声で「ええ。いずれ。」と返して馬車に乗り込んだ。
備え付けの椅子に腰掛けたセリナは太ももをグッと握りしめる。
「ああ、ほんと苦痛だわ。……私のよ。私のなのよ。どうかしてるわ。私の宝石を取引材料にするだなんて――二度とごめんよ。」
苛立ちが増す。でもそうも言っていられない。セリナはふぅと一息ついて御者台側の壁を軽く叩く。
「…手筈通りにお願い。」
壁の向こうから微かに「畏まりました。」と声が返ってきた。
馬車が走り出す。
セリナは傍にあった布を広げ袖を通した。フード付きの外套だ。
窓から見える景色が移ろう。
急いでも仕方がないと分かっている。だが目的地に到着するまでセリナはその目を離せないでいた。
馬車が停まる。
フードを被り、セリナは馬車を降りた。小汚い平民が帽子を少し傾け、頭を下げた。
見た目とは裏腹に無駄のない動き。ただの平民でないことは明らかだ。
「セリナ様。監査官様がお待ちです。」
セリナは誘導されるまま、その背についていく。
空っぽの馬車が走り出した。
通りを循環する憲兵と平民が目配せをする様子を見ながらセリナは周囲を見渡す。子供たちが笑いながら駆け回り、仕事や買い物で行き交う平民達。
なんてことない日常の風景がそこにある。
セリナは拳を握りしめながら呟いた。
「……黒曜くん、きっとね。平凡な道もあったはずよ。」
人生というのは、その時々で大きな分岐が存在する。それを選択し行動して現在がある。
黒曜石は魔除けの石として贈られることがある。カイもきっと何かを守るために選択してきたのだろう。
「せめて自分の危険も守る努力をしてくれたら、こんな思いしなくて済んだのに。どこまでも困った人。」
「馬車の移動で疲れたことだろう。少し休むと良い。……後で可愛がってやろう。」
そう言って伯爵は屋敷に入っていった。
代わりにやってきた侍女によって、屋敷の奥へカイは足を踏み入れる。
調度品が並ぶ廊下を歩くカイは「なんで碌でもない奴に限って、金も力もあるんだろうな。」と呟いた。
無意識だった。
ハッとして前を歩く侍女を見る。侍女には聞こえなかったようだ。
カイは良かったと胸を撫で下ろした。連れられた先は件の部屋だ。
元使用人であった女から聞いていた秘密の部屋は、かなり質素だった。カイはふと伯爵のこれまでの発言を思い返した。
伯爵は差別的な発言が多い。
もう一度部屋を見回してから、カイは微笑んだ。
侍女がグラスを片手に近寄る。
そのグラスには、赤紫の液体が怪しく揺らめいていた。
「どうぞ。」
カイは侍女を見た。
案内を申し出た時も、その道中も。そして今も。
この侍女はカイの顔を見ようとしない。
できるだけ視界に入れないようにしているようだ。それもあからさまにならないよう努めているのが目に見えた。
「……伯爵様のご厚意です。早くお飲みください。」
グラスを受け取らないことに、侍女は苛立ちを垣間見せる。
仕方なくそのグラスを手に取った。
侍女はそのまま動かない。
飲み切るのを待っているようだ。なんとも分かりやすい。
「毒入りジュースだ。召し上がれ。」
耳元でジャンの声がする。
一瞬指が反応したが、表情は変わらない。
カイはグラスをゆっくり傾けながら、その揺らぎを眺めた。
「どうした?怖いのか?そんなタマじゃないだろう。――さあ、地獄の前に乾杯しようぜ。」
ジャンの幻聴にカイは笑う。
まさか笑い出すと思わなかったのだろう。
初めて侍女がカイを見た。
もしかしたら声に違和感を覚えたかもしれない。だがここまで来たら、関係ない。
侍女が食い入るように見ているのを感じる。だがカイは気にせず、宙に向かってグラスを掲げた。
「……乾杯。」
カイは一気にグラスを飲み干す。
途端に視界が歪み、手からグラスが離れていく。
視界の端にジャンが見えた気がした。
「今度はお前の番だ。」
音が遠ざかるのを感じながら、カイは満足気に目を閉じる。そして抵抗することなく意識を放棄した。
リリは屋敷の二階にいた。今日は下手に変装をせず、前髪を束ねて止めていた。どうしても素顔でこの作戦に参加したかったのだ。
素の自分でなければ意味がない。
ふと窓の外に目をやると、女装姿のカイが運ばれていた。台車に乗せられた動かないカイを、侍女と執事長らしき人間が運んでいる。
菫の庭園の中。台車を押して向かう先には小屋が見える。
リリはそれを眺めながら「……まだ早いよね。」と溢した。
「何サボってる?」
リリが振り返る。そこには侍従が責めるようにリリを睨みつけて立っていた。
リリは深く頭を下げる。
「すみません。すぐ持ち場に戻ります。」
侍従は軽く舌打ちをする。
「ああ、新人か。すぐ病んで辞めてく奴が多いせいで、こうも使えない奴がどんどん入る。迷惑な話だ。」
リリの横を通り過ぎながら「次サボってるのを見かけたら、ただじゃおかないからな!」と悪態を吐いて去っていく。
リリは頭を下げたまま、足音が離れるまで動かずにいた。
「そろそろ準備しなきゃ。何かちょうど良いのないかなぁ。」
リリの囁きが小さく廊下に落ちた。
セリナは監査官のいる民家に到着した。
中に入ってすぐに「まだなの?」と尋ねた。
そこには苛立ちが滲む。
あまりにも唐突な問いだが、監査官は冷静だ。
「男爵令嬢。受け渡しからそんなに経っていない。落ち着きたまえ。」
セリナは中を見回す。奥に憲兵でも、民間人でもないロングガウンの男が居た。
医者だ。
セリナは医者に詰め寄る。
「指示したらすぐ来てもらうわ。怪我人の手当ては迅速にしてもらわないと。……下手な仕事をしたらどうなるか、分かっているわね?」
セリナの圧に医者は首を大きく縦に振る。
セリナの言葉に監査官が反応した。
「怪我をするのが前提なのだな。」
セリナの視線が監査官へ移る。
「監査官様は、あの人をよく知らないでしょう?」
その声は普段よりも低く重い。
「私の宝石箱の中で、一番特別で。一番歪んだ輝きを放ってる――私のお気に入りです。……無茶をさせたら右に出るものは居ないわ。だから嫌だったのよ。今すぐ取り戻したくて堪らないわ。」
セリナは俯いた。
「計画は順調に進んでいる。先に断っておくが、君の私情で邪魔をしないで貰いたい。……今は合図を待つんだ。」
監査官の声も表情も変化がなかった。
セリナは唇を噛んだ。




