その来訪者は菫を添えて
あれから数日が経った。
あんなことがあっても、日は登って沈み、仕事は積み上がる。いつもと変わらぬ日常がそこにある。
でもこの一ヶ月かそこらで、仕事の量は確実に増していた。セリナのお付きとして、三人で分散していた仕事だ。
ナナが部屋に引き篭もってから、リリと二人で分けていたというのに。この頃は三人分を一人で処理している。
だが今のカイには、その現実がかえって都合が良かった。仕事に打ち込んでいる方が気が紛れるのだ。
カイは書類を抱えて、セリナの元へ急ぐ。
ふと窓の外を見る。雲の隙間から青空が垣間見えた。
――青い……やっぱり青は嫌いで、好きだ。
カイは反転して歩き出し、立ち止まった。
侍女が目を白黒させながら、カイの行手に立っていた。
「……何か?」カイは首を傾げる。
侍女は困った顔でカイの書類に目をやり「いや、あの。お嬢様の元に向かわれるのだと思っていたもので。」呟いた。
カイはハッとして笑う。
「ありがとうございます。そうだ。お嬢様だ。お嬢様。」
言い聞かせるように、カイはまた方向転換して歩き出した。
カイは階段を登る。途中庭園が見下ろせる窓の前で立ち止まった。
セリナの私兵だ。蔵の警備が交代する時間らしい。行き交う私兵の髪を見つめる。
――違う。ここにあの赤はない。
また階段を登り出した。
階段を登り切るところで脚がもつれ倒れかけた。瞬時に足を前に出し踏ん張る。
倒れはしてない。書類も落ちてない。問題ない。
でもその様子をセリナが見ていた。
セリナに気づいたカイは何事もなかったかのように体勢を直す。
「決済が必要な書類をまとめました。お嬢様、執務室へ。」
カイは平然とセリナに告げる。
「うふふ。ほんと可愛いんだから。」いつもの調子で揶揄われ、カイはため息をこぼした。
「最近何もないところでこけるわよね?つらい?あっ違うわね。いつもギリギリなのは変わらないわね。でもそろそろ限界なのでしょう?」
セリナは笑う。
「強がっちゃって。可愛い人。」
だんだんと高揚する頬を見て、カイは目を背けた。
「黒曜くん。私あなたより、あなたの闇の真相に触れてるわ。知りたくない?」
そう言ってセリナは執務室に向かって歩き出した。
カイは訝しみながらもその背に続いた。
執務室まで行くと思われたセリナは、その隣にある商談部屋に入っていった。
「……お嬢様。決済は?」とカイは責めるように声を上げた。
セリナは気にせず長椅子に腰掛ける。すでに机には膨大な書類が無造作に置かれていた。カイはそれを見て、眉を顰めた。
「決済なんて後でどうとでもできるわ。」
そう言って、セリナは手招きをする。
「座って。」
カイはゆっくりと向かいの長椅子に腰掛け、手に抱えていた書類を横に置いた。
「……オパールちゃんまでトン、と顔を見せなくなったのに。何も思わないの?」
セリナの視線は観察するようにカイを見つめる。
カイは「ああ、そういえば最近見ませんね。」と嘯いた。
「気づいていた癖に……まあ良いわ。」
セリナは書類の山の中から一枚の便箋を手に取りつまんで見せた。
「伯爵がお怒りみたい。」
それは予想していた展開だった。
カイは冷ややかに告げる。
「お嬢様、それは2人で。事前に話し合ったでしょう。……何を今更。」最後の言葉は苛立ちが滲む。
――こっちはミナを差し出した。その後何が起きても、こちらに落ち度はない。突っぱねろ。予定通りだ。
「そうね。……でも、ごめんなさいね?黒曜くん。やっぱり無視できないわ。コレ。」
セリナは便箋を軽く揺らして見せてから、パッと離した。
「コレを利用するのよ。」
カサッと机の上に落ちた便箋を見るセリナの目は鋭い。
「何をするおつもりで?」カイが問う。
「伯爵に一矢報いたくはない?」
――無謀だ。
カイがセリナを見る。セリナはいつものシャツにズボンを履いている。上から羽織ったジャケットがその大きな胸を抑えていた。装飾は少ないが生地は上等。
セリナは貴族であり、商人であり、女だ。
――やっぱりあんたのどこをとっても、伯爵に敵うわけがない。
カイの視線に気づいたセリナが笑う。
「まあ、こわいわ。そんな睨まないで、ちゃんと考えがあるのよ。」
カイは黙ったまま。
「……私が最初に調べさせたのは、軽い身辺調査だけ。だからオパールちゃんに再調査を頼んだの。」
――だから居ないのか。でも作戦の日はいた筈だ。
作戦の概要を思い出す。伯爵邸の塀の周りを、セリナの工作員が四方に点在し警戒する。そして門の近くに、金で雇った何の関係もない貧民を用意した。カイが合図すると工作員たちは三つの命令を遂行する。
一つ目。貧民を使い門で揉め事を起こす。
二つ目。リクにカイの位置を知らせる。
三つ目。巡回兵を門に集める。
単純な作戦だ。セリナが伯爵を引き留め、カイがミナを連れ出しリクが逃す。でもこの作戦には状況を俯瞰し、予期せぬ事態に対処する役が必要だった。リリだ。そのために引き込んだ。
――でもその前から徐々に、リリの仕事も回されていたはずだ。作戦を立てる前からリリを使っていたのか?いつからだ?
「そろそろ良いかしら?」
カイが考え込んでるのを察して待っていたようだ。
良くはないが、聞く他ないと分かっている。カイは頷いた。
「オパールちゃんには亡くなった夫人について。ほれと解雇になった使用人がいないか探ってもらったのよ。」
セリナが両手を合わせ微笑む。
「その結果、伯爵をこき下ろす可能性が出てきたわ。」
カイの眉間の皺が深くなる。
「……それは可能性止まりということではないですか、危険です。」
セリナは気にしない。
「だから現実的に、どの程度可能性があるのか。見てみるのよ。亡き夫人の親族と解雇された使用人両方にコンタクトをとるわ。そして、その結果に合わせて、餌を撒いて伯爵を……ね。どうかしら?」
セリナの言葉にカイは目を細めた。
「黒曜くん、このままで良いの?伯爵に手を打たない限り、あなたは一生二人と会えないわよ?」
カイの指が僅かに反応する。
「……今の状態だと答えようがないでしょう。結果と餌によります。」
セリナは「結果が出れば、ちゃんと餌は用意するわ。今は気にしなくても良いのに。」とぼやく。
――餌……計画にもよるが、誰かが伯爵のためにまた傷つくのは嫌だ。
その時セリナの後ろで空間が揺らめいた。
カイの呼吸が一拍止まった。
カイがその揺めきを凝視する。――ジャンだ。
久しぶりに見る幻影。カイは金縛りにあったように、体を強張らせた。
俯き気味のジャンは、その灰青髪の隙間から鋭い眼光をカイに向けていた。
息を吐く。
息を吸う。
意識しないとうまく呼吸ができない。
それでもカイはジャンから目を離せないでいた。
ジャンの腕がゆっくり上がる。そして静かにカイを指差した。
自分の呼吸や鼓動が煩わしいと思った、その時だった。
――本当に残念でならない。"女"であったなら合格点だったのだがな。――
耳に木霊する声はあの夜会で、カイに向けられたものだった。
あれだけ煩わしかった音が遠のく。代わりにその声が耳を蹂躙していく。
カイはサッと目を逸らし、首を摩りながら耳も軽く抑えた。
――落ち着け。
軽く深呼吸する。
一拍置いてセリナの背後を見る。いつの間にかジャンは消えていた。
――落ち着け?俺が?
もう一度息を軽く吸ったカイは、ふっと吹き出し笑い出した。
目を見開くセリナに、カイが笑いながら話し始める。
「餌は問題なさそうです。コンタクトはすでに取れているのではないですか?お嬢様のことだ。もう会う日も決まっているのでしょう。お供させてください。」
カイは笑っている。でもその目は焦点が合っていない。
セリナは戸惑いながらも「……ええ数日も経たずね。夫人の兄君は、貴族を取り締まる…つまり監査官になっておられるの。ダメ元でお父様に頼んで協力の申し立てをしてもらったのだけど。断るどころか、彼方から話を聞きたいと既にこちらに向かっているそうよ。使用人はそれに合わせてオパールちゃんが連れてくる手筈よ。」と告げた。
「……楽しみです。」カイは顔を両手で隠して俯いた。
指の隙間から見える口は大きく歪んでいた。
セリナの言った通り、監査官はやってきた。話をしてから四日目だ。王都からだというのに、随分早い。
カイは窓から馬車が屋敷の柵を超え、敷地に入ってくるのを眺めた。
馬車の紋様は菫の花を遇らっているようだ。
――花の家紋か。貴族監査局王室監査官だったか。大層な役職だ。……えっと、名前はなんだったっけ?忘れたな。
カイは首を傾げる。
馬車が緩やかに止まり、中から菫色の髪の男が降り立った。
それは珍しい髪色だ。
カイは「へぇ。」と呟く。かなり距離があって、顔はよく見えない。男がこちらを見ている気がした。
カイは窓からゆっくり離れ、振り返る。
セリナは長椅子に腰掛け、紅茶を楽しんでいた。
壁際に立つリリの横には件の使用人が立っている。
目をキョロキョロと動かし、口元を隠す忙しない女だ。
横目でチラッとその姿を見てから、セリナに向かって口を開いた。
「……お嬢様。」
カイの呼ぶ声に、セリナはティーカップから唇を離す。
カイを流し見て「なあに?黒曜くん。」と問う。
その問いにカイは穏やかな笑顔を向ける。
「どうやら、役者が揃ったようです。」
カイの言葉にセリナは机の上にティーカップを置いた。
「あらほんと?本当に早いお越しね。」
リリがそこで初めて口を開いた。
「……セリナ様。約束守ってくださいね。」
セリナはリリを見る。
相変わらず黒くて重たい前髪で、表情が読めない。
その目は見えないが、圧を確かに感じる。
セリナは「ええ勿論よ。」と笑顔を見せる。
リリはそれを聞くと安堵したのか、口元を歪ませた。
セリナがカイを見て囁く。
「嬉しい。化け始めてるのね。遊色効果よ。オパールは見方によって、色が変化する不思議な石。」
セリナの顔から笑みが消えた。
「そして持ち主に不幸をもたらす石と呼ばれているわ。」
カイを見つめる瞳が陰る。
「今回はどう転ぶかしら?」
ミナはちゃんと逃げきれた。鉱石とリリは別物だ。きっと今回だって支障はないだろう。
でもセリナの人を見る目が確かなことをカイは知っている。その不安も分からなくもない。だがこれっぽちもカイはリリを疑ってなかった。
「……リリの持ち主によるのでは?」と告げる。
セリナは納得がいかないという顔だ。
そんな中、部屋の扉を叩く音が響いた。
「はい。」とセリナが答える。
扉の外から「貴族監査局王室監査官のレオン・ヴァレンティア様がお越しです。お通ししても宜しいでしょうか?」と侍女の声がする。
「ええ、お入りいただいて。」
セリナの指示で扉が開いた。
扉を開くと侍女は一礼をして傍に下がる。
その横を窓越しに見た男が通り過ぎた。
侍女は何も言わず扉の前で再び礼をして扉を開けて出て行った。
セリナは立ち上がり、男に向かって「どうぞコチラに。」と向かいの長椅子に座るよう促す。
男の年齢はセリナより上だろう。整った体つきだが、その目は落ち窪み不健康この上ない。
――寝てないのか?
カイは少し首を傾げる。
――この監査官は使えるかな?
その探るような視線が気に障ったのか、監査官と目が合う。柔らかい髪色とは違う。表情筋が死んでるのかと思うほど感情がない顔をしている。
監査官の視線は全く揺れがない。その切長の目を見つめ返して、カイは首を傾げ微笑んだ。
リリがゆっくり用意していたポットから紅茶を注ぐ。静まり返った部屋に音が響く。
監査官の前にティーカップを置いた。
リリはまた壁際に下がる。
その横にカイも並んでいた。
監査官が重たい口を開いた。
「妹の事故の真相が、分かるかもしれないとお聞きした。何を掴んだのか、説明していただこう。コチラも暇ではない。」
さすがは監査官と言ったところだろうか。その低い声は重く圧を感じる。
元使用人の女が仕切りに指を噛む。
――ほんと、落ち着きがないな。
女を横目にそう思ったが、カイは黙っていることにした。
セリナは軽く頭を下げる。
「しがない令嬢の話を聞くために、ここまでご足労いただけるとは思っておりませんでした。私は幸運でございます。」
セリナは顔をあげて微笑む。
監査官の表情は変わらない。
「これで最後だ。早く要件を話したまえ。二度、同じことを言わせるな。」
冷淡な物言いだ。
「うふふ、せっかちですね。……仕方ありませんわ。率直に申し上げましょう。」
セリナは笑顔のまま続ける。
「社交界でもその名を轟かせた、"菫の君"と讃えられた妹君。夫であるクロウ伯爵に、殺された可能性があります。」
妹が殺された……普通なら何か反応があってもいい話だ。だが監査官は微動だにしない。
カイと同じように、セリナも不思議に思ったのだろう。唇を軽く抑えながら、監査官を観察している。
「……なぜ。そう考えたのか、根拠を聞かせてもらおう。」
監査官はひどく冷静だ。
「私の雇った使用人が被害に遭いまして、詳しく調べさせると伯爵様はかなりの孤児を私欲のために殺めていることが分かりました。商会を作り孤児を仕入れ、死体を遺棄させて私欲を満たしているようです。ちなみに、商会を作ったのは"菫の君"が亡くなってから。」
セリナは監査官の瞳を見つめた。
「……私はこう考えております。伯爵の始まりの被害者は、貴方様の妹君だと。」
監査官の瞳は揺らがない。
「なるほど。ただ、可能性止まりだな。本当に妹が被害に遭っていれば問題だ。だが、孤児だけだと罪に問うことは難しい。」
冷たい現実を突きつけられ、リリがその小さな拳を強く握りしめた。
「失礼する。どうやら無駄足だったようだ。」




