お兄ちゃんの、終幕
重たいベールをしたミナは、セリナと共に馬車に揺られていた。
ミナが少しベールを上げて、窓の外を見る。リクが馬車に並走する様に馬で駆けていた。リクを見つめるミナの唇が微かに震えた。
その姿を目に焼き付けるように見ていたミナだが、暫くして目を逸らし俯いた。
馬車が緩やかに止まると、御者台の方から話し声が聞こえた。どうやら伯爵の別荘宅門前についたようだ。
門が開いたのか馬車がゆっくり動きだす。
ミナの鼓動が少し早くなる。
馬車が止まった。
御者台からカイの声がする。私兵だろうか。誰かと短く会話をしている。馬車の手綱を預けたようだ。
馬車の扉の前にカイが立つ。窓越しに俯いた顔から、表情は読み取れない。
「つきました。」
馬車の扉が開く。カイが手を差し出す。セリナが立ち上がり、迷いなくその手を取って降りた。そのあとカイはミナにも、手を差し出そうと伸ばす。
その手をセリナが掴んだ。カイがセリナを見る。
笑顔で「任せてくれないかしら?」というセリナに、カイは手を引っ込め傍に下がった。
セリナがミナに向かって手を差し出す。
ミナは震える手をその手に添える。セリナは力強くその手を握り返した。ミナは少し体を強張らせたが、ゆっくり息を吸い馬車を降りた。
軽く辺りを見回したが、どこにもリクの姿はなかった。
セリナはそんなミナの気も知らず、屋敷に向かって歩き出す。握られた手を振り払うこともできず、ミナはその後をついていく。
屋敷へ向かって歩くほど、ミナに視線が集まった。白いドレスは装飾が少ないが、白手袋やベールと揃いのレースが美しい。全体的にゆったりとしたデザインだが、腰をリボンで絞っていてバランスもいい。ベールで顔は隠れているが、歩くたびにその金の髪が宙を舞う。
背後から「それで良い。」とカイの声が微かに聞こえた。
ミナは振り返ることもなく進む。屋敷の入り口の前に来ると、掌を打つ音が響いた。セリナの足が止まる。
「素晴らしい。」クロウ伯爵だ。
音が止む。伯爵は興奮しながら、セリナに笑いかける。
「さすがは、ルミエールのお嬢さんだ。センスが良い。」
伯爵が近寄り、ミナの前に立った。
ミナは俯く。
鼓動がだんだんと早くなる。
ベールの隙間から伯爵の手がミナに伸びる。
耳の傍で鳴るように鼓動がうるさい。
ベールを軽く摘み持ち上げ、伯爵がその顔を覗き込む。目と目が合った。ミナは息を止めた。
――助けて。
「いやぁ、本当に美しい。」伯爵は感嘆の声を上げ、ベールから手を離す。
ミナは息を吸った。背中を冷たい雫が伝って気持ちが悪い。
「無理を言ったから断られるのではないかと、ヒヤヒヤしていたのだ。年甲斐もなくお恥ずかしい。だが一目惚れだ。どうしても、あの夜会の日から忘れられなくてね。……菫の君には及ばないが。」最後の言葉は小さく掠れていた。
セリナは「……菫の君?」と聞き返す。
「いや、気にしないでくれたまえ。それより……」伯爵が馬車を見る。
乗ってきた馬車とは別の後続馬車から、リリとカイが指示をして私兵たちが荷を下ろしている。
「あれは?」
「私が準備をさせたのです。」
セリナの笑顔に、伯爵は眉を吊り上げる。
「クロウ伯爵様。一目惚れの君の衣装は、なるべく装飾がないものに致しました。それは伯爵様の手で、美しく飾られるべきだと思ったのです。私は宝石商ですわ。」
セリナがドレスの裾を軽く摘み、淑女の礼をとる。
「どうか最初の贈り物のお手伝いをさせてくださいませ。」
目くじらを立てたように見えたが、気のせいだったのか。伯爵は穏やかな顔で「では其方の自信の品を確認しよう。」と言い、二人を屋敷の中へ招き入れた。
屋敷に入ってすぐ、待ち構えていた侍女に「分かっているな?」と伯爵が告げる。
「はっ。」侍女が頭を下げる。
それを確認すると伯爵はセリナに「彼女は緊張しているようだから、先に部屋へ案内させる。セリナ嬢には応接室に来てもらおうか。」と告げる。
「いやぁ、セリナ嬢が用意した商品を見るのが楽しみだ。」
伯爵の声に感情が乗っていないことはすぐ分かった。でもセリナは気にしてないようだ。
「必ずご期待に応えて見せましょう。」と笑い、ミナの手を離した。
唐突に離された手に、ミナが縋るようにまた手を伸ばしかける。「こちらへ。」それを許す筈もなく侍女が低い声でミナの前に立った。
ミナは震える手を引っ込める。
侍女が歩き出す。その後ろをついて歩いた。
振り返るとセリナの後に続くように、私兵やリリたちが荷を運び込んでいた。
その中にカイの背中が見えた気がした。
――大丈夫。大丈夫だよ。
心の中で希望的観測を繰り返し、ミナは前を向いて歩き続けた。
廊下を歩けば歩くほど、その調度品の数々を目にしミナは息を呑んだ。
目に入る全てが、伯爵の権力の大きさを可視化するようで恐ろしい。
ある部屋に通された。部屋の中は、廊下とは打って変わって質素だった。
どうやら隣の部屋と行き来できるようになっているようだ。
「……隣の部屋は?」
侍女は「浴室です。」と淡々と答えた。
――気持ち悪い。
ミナはすぐ視線を移す。部屋には窓がある。格子はなく、容易に開きそうだ。
侍女は部屋に用意してあったボトルをグラスに注ぐ。透き通った紫色の液体がグラスにたまる。
ミナは唇を震わせる。
「伯爵様に見初められ、さぞ緊張されておいででしょう。これはぶどうの実を絞ったものです。」
侍女は「どうぞ」とミナに差し出した。
ミナは体の震えを抑えながらそれを受け取る。
「……ありがとうございます。でも今これを口にしても、うまく飲み込めなそうです。ひどく緊張していて。」
気をつけようとするほど声が震える。
「せっかく用意していただいたものです。後でしっかり飲みます。……なので今は。今は。どうか一人にしていただけませんか?ほんの少しで良いんです。」
ミナの言葉に侍女は顔を顰め少し悩んだ。
なかなか答えない侍女に、ミナは焦りを滲ませる。
だが「仕方ありませんね。」と言って部屋を後にした。
離れる足音を確認するまで、身動きできずにいた。
ミナはグラスを置いた。
――急がないと……
ミナは腰を絞めるリボンをシュルッと解き、ドレスに手をかけ捲し上げた。脱ぐと胸元からズルリ、と髪の毛の束が落ちた。
ミナはドレスの下に、セリナから支給された制服を着ていた。床の上の毛の束を拾う。黒に近い茶色のカツラだ。
髪の毛を先程腰に巻いていたリボンでまとめて上からカツラを被る。
――早く!早く!早く!
足早に部屋の窓に近寄る。
窓枠に手をかけギギィと音を立てて開いた。なんとか外に出れそうだ。
「……よかった。カイが考えてた通りだ。」
――孤児や貧民を舐めてるんだ。きっと逃げるなんて思ってない。――
カイの言葉を思い出した。
ミナは窓枠に足をかけ、滑り落ちるように外に出た。
地面にドサっと落ちると痛みに顔を顰めた。
でもこのままでいる訳にいかない。
すぐさま立ち上がり、サッと土を払い足早に歩き出した。
暫く歩いてみたが、一人でいると不安が込み上げてくる。
――こっちで合ってるのかな?もしかして間違えた?
答えは見えない。
「おい!そこのお前!何してる?」
ミナの肩が大きく跳ねた。横から私兵が顔を出す。庭園の草花で隠れて気づかなかった。
「……あっ、あの、私。」
――どうしよう?どうしよう?
私兵は眉間に皺を寄せて距離を詰める。
――逃げる?でもそんなことしたらすぐ捕まる。
私兵との距離が更に縮まる。
――助けて!リク!
ミナは目を瞑った。
「ああ、よかった。探していたんだよ。」穏やかな声とともに、頭をポン、ポンと優しく叩かれた。
「……カイ。」
――泣きそう。
ミナは唇を噛む。
「お前たち、こんなところで何してる?」私兵が詰め寄る。
でもカイは慌てることなく、頭を下げた。
「ルミエール男爵家の者です。侍女が一人迷子になったようで探していたのです。見つかってよかった。」
カイはゆっくり顔をあげ微笑んだ。
私兵はカイの笑顔に軽く頬を染め怯む。
「ご迷惑をおかけして申し訳ない。そろそろ引き上げますので、どうかご容赦を。」
カイは私兵を見つめる。
私兵は慌てて立ち去る。「気をつけろよ!」と言い捨てる声もすでに遠い。
ミナが我慢できず、カイに抱きつこうと手を伸ばす。カイはミナの肩を掴み、それを許さない。
「……時間がない。急ごう。」
ミナの手を掴み、走り出す。
私兵や侍従、庭師に気をつけながら尚も進む。屋敷を囲う石造りの塀の前に立った。蔦が這う塀を前に二人は立った。
カイが徐に指を咥え、ピィ、ピィと鳥のように音を響かせる。そして小さく「……来い。」と呟いた。
暫く経って遠くが騒がしくなる。
「本当に大丈夫なの?」ミナはカイを不安気に見つめる。
「……大丈夫だ。予定通りお嬢様の手のものが門で騒ぎを起こしてる筈だ。」
カイはいつもの笑顔で「行こう。」と言ってミナの手を引く。
カイの背を踏み台にして、塀の蔦を掴む。ミナが掴んだことを確認すると、カイは体勢を変える。それに合わせてミナはカイの肩に足をかける。なんとか塀の上に手が届きそうだ。グッと足に力を込めてミナが塀をよじ登る。カイがミナの足の裏を掴み、押し上げてミナはやっと塀の上に立った。
塀の上に立つ。足場の悪さに、足がすくんだ。だが馬に乗ったリクがすぐ駆け寄ってきた。
「……リク。」
馬の蹄の音に気づいたカイと、ミナに駆け寄るリクが『……飛べ。』と同時に力強く告げた。
脚のすくみも忘れ、ミナは声に従い身を投げた。
リクがミナを抱き留め、そのまま馬で駆けていく。
離れる蹄の音を確認して、カイは踵を返した。
屋敷の中に戻ると侍女や私兵が騒がしい。応接室に入ると伯爵が顔を真っ赤にして憤っていた。
ミナが逃げたことがバレたのだろう。
伯爵がセリナに「申し訳ないが、少し急用ができたようだ。セリナ嬢には早々にお帰り願おう。」と告げた。
セリナは残念そうに眉を垂れながら「あら、タイミングが悪かったようですね。では私共はこれにて。」と一礼をして馬車へ戻る。
カイとリリは顔を見合わせてから、私兵たちに指示を出し部屋の荷物を馬車につめ屋敷を出た。
予定通り荷馬車はリリによって、セリナの屋敷に向かって走る。でもセリナを乗せた馬車は、僅かな私兵とともに別の場所へ向かっていた。
待ち合わせの場所だ。
待ち合わせ場所の森の中、リクとミナは身を隠していた。カイが手綱を握る馬車を確認すると、二人は道を阻むように出てきた。予定通りだ。
カイは馬車を止め、近くの私兵に手綱を任せる。カイは馬車の扉を軽く叩き、それに合わせてセリナが出てきた。
「準備はできてるわ。早く中へ。」
セリナの言葉に二人は中へ入った。時間もかからず二人は出てきた。私兵や侍女の制服だと、すぐセリナの使用人であることが分かる。二人は服を着替えていたのだ。
中から出た二人を確認してセリナは軽く頷いた。
「柘榴くんあとは大丈夫ね?」と言ってセリナが懐からあるものを出してリクに差し出す。
それを受け取ったリクは「もちろん。」と言って馬に跨った。
ミナに手を差し出す。
その手を取れば、二度とカイに会えないかもしれない。ミナは悩み、振り返った。
「カイ。あの、私。」
カイはこちらを見ない。御者台の方に向かって歩き出す。
「えっ、待ってよ!カイ!」
カイは見向きもしない。
ミナの戸惑いを無視して、リクがその腰を抱き上げる。
馬の上に乗せられ驚いた。
「待って!待って!リク!」
リクは前を向いて、馬の手綱を引く。ゆっくり馬が前に歩き出した。
「待ってってば!まだカイが!」
ミナの必死な姿を見ていられなくなったのか、セリナが俯いた。
カイは御者台の傍まで移動していた。
「カイ!カッ……お兄ちゃん。」
カイが固まった。背を向けたまま。
もう一度、今度は大きく「お兄ちゃん!」とミナは叫んだ。
カイが振り返った。
「……聞こえてる。」
リクがゆっくりカイに向かって馬を歩かせた。
「本当に最後まで手が掛かるな。……困った兄と妹だよ。」その声はどこか寂し気だ。
ミナの目から大粒の涙が溢れた。
カイの前に来ると「あとは頼むぞ。」とリクに念押しをした。
リクは「当たり前だろ。守るのは俺の役だ。」と力強く答え、右手を掲げた。
カイは戸惑いながら、右手を掲げる。その手をリクは力強く叩いた。
「じゃあな。」リクの短い別れの挨拶に、ミナが堪えきれず泣き叫んだ。
リクがミナを抱きしめる。
カイは瞳を潤ませながら「……愛してる。だから……生きろ。」と言って微笑んだ。
リクが馬の腹を蹴って駆ける。
あっという間にその背が遠のいていく。
カイの頬に一筋涙が落ちる。
いつの間に隣に来たのか、セリナがカイを抱きしめた。
カイはその背が消えるまで動けずにいた。




