第9話 「こんなはずじゃなかった」
第9話 「こんなはずじゃなかった」
圭介は、葵が本当に自分と離婚するとは思っていなかった。家に帰れば妻がいて、食事が用意され、洗濯したワイシャツがクローゼットに並んでいる生活が、これからも当然のように続くと思っていたからだ。ところが、弁護士から届く書類には、財産分与や婚姻費用、不倫に関する慰謝料について具体的な数字が並び始めた。会社から帰った圭介は、ネクタイを外すことも忘れたまま、テーブルの上に置かれた書類を何度も読み返していた。
「……こんなはずじゃなかった」
声に出してから、圭介自身がその言葉に引っかかった。こんなはずではなかったのなら、どんなはずだったのか。葵が離婚届に素直に署名し、家を出ていき、何も請求せずに終わるつもりだったのか。圭介は冷蔵庫を開けたが、葵がいなくなってから食材はほとんど補充されていない。奥に残っていたハムを取り出し、フライパンで焼いてみたものの、油が跳ねてシャツに小さな染みができた。
「くそっ……」
以前なら、そんなとき葵が台所へ来て、布巾を渡してくれた。圭介は染みを指でこすりながら、そのことに初めて気づいた。ワイシャツをクリーニングに出すことも、冷蔵庫の中身を確認することも、トイレットペーパーが残り少ないことに気づくことも、全部葵がやっていたのだ。圭介は電子レンジで冷凍チャーハンを温めたが、味が濃く、油っぽくて半分も食べられなかった。
スマートフォンが震えた。画面には美香の名前が表示されている。圭介は少し迷ってから通話ボタンを押したが、開口一番に聞こえてきた声は、以前のような甘さを含んでいなかった。
「圭介さん、離婚の話、どうなってるの?」
「進んでるよ」
「いつ離婚するの?」
「だから、今、弁護士同士で話してるんだ」
「それ、いつ終わるの?」
圭介は椅子に深く座り直した。窓の外では、隣家のベランダから洗濯物を取り込む音が聞こえている。美香には「親の介護が終われば妻とは別れる」と何度も言ってきた。その言葉を信じていた美香からすれば、葵が弁護士を立てたことなど関係ないのだろう。
「離婚したら一緒に暮らすんじゃなかったの?」
「もちろんそうする」
「じゃあ、何でこんなに時間がかかってるの?」
「葵が弁護士を入れたからだよ」
「それって、慰謝料とか払うってこと?」
圭介は黙った。美香の声から、少しずつ温度が下がっていくのが分かる。圭介は自分が何とかするつもりだったが、財産分与に婚姻費用、さらに不倫についての慰謝料まで請求されれば、自由に使える金は大きく減る。美香との新生活に使うはずだった貯金にも手をつけなければならないかもしれない。
「大丈夫だよ。俺が何とかするから」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、いつ?」
「……まだ分からない」
通話が切れた。圭介はしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。画面には美香との過去のメッセージが残っている。「離婚したら一緒に旅行しよう」「新しいマンションを探そう」「奥さんがいなくなったら、毎日会えるね」。その文章を見ていると、自分が描いていた未来が、急に遠い場所へ逃げていくように感じられた。
一方、葵は新しい部屋を探していた。佐伯弁護士から紹介された不動産会社を訪れ、担当者と一緒にいくつかの物件を見て回る。今までなら、駅からの距離よりも義父母の通院に便利か、介護ベッドを置けるか、段差が少ないかを最初に確認していた。しかし今日は違う。葵は小さな部屋の窓から差し込む午後の光を見て、初めて自分の基準で部屋を選ぼうとしていた。
「こちらなら、一人暮らしには十分な広さですよ」
「キッチンは……」
「二口コンロです。魚焼きグリルもありますよ」
「じゃあ、アジを焼けますね」
葵がそう言うと、不動産会社の女性が笑った。
「アジ、お好きなんですか?」
「はい。介護をしていると、魚を焼く時間もなかなか取れなくて」
口にしてから、葵は少し笑った。義父母が魚を食べる日は、骨を全部取ってから皿へ盛りつけていた。義母には細かくほぐし、義父には塩分を気にして味を調整した。自分の分は、二人が食べ終わった後に冷めたものを食べることが多かった。
「ここに住んだら、焼きたてを食べよう」
「いいですね」
その言葉だけで、胸の奥が少し軽くなった。
部屋を決めたあと、葵は家具店へ向かった。店内には木の匂いが漂い、磨かれた家具の表面に照明が反射している。葵はベッド売り場で何度もマットレスを押してみた。介護用ベッドではない、自分が眠るためだけの布団を選ぶのは初めてだった。
「硬めと柔らかめ、どちらがお好みですか?」
「分からないです」
「今お使いのものは?」
「……介護用ベッドなんです」
店員が少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔へ戻った。
「では、実際に寝てみてください。毎日使うものですから、遠慮しなくて大丈夫ですよ」
葵はマットレスへ横になった。背中がゆっくり沈み、肩の力が抜ける。十年間、夜中に呼ばれるかもしれないと思いながら眠っていた。布団に入っても、耳を澄ませる癖が抜けなかった。隣の部屋から物音がしないか、誰かが呼んでいないか、転倒する音がしないかを確認してから目を閉じていた。
「これにします」
「ありがとうございます。では配送日を――」
「できれば早めにお願いします」
葵は自分でも驚くほど、はっきりした声で答えた。
家具も一つずつ選んだ。大きな食器棚ではなく、小さな木製の棚。義父母の部屋を優先するために諦めていた一人掛けの椅子。カーテンは薄い黄色を選んだ。派手ではないが、朝の光が入ったときに部屋が明るくなる色だった。
「こんなに自分の好きなものを選んだの、初めてかもしれません」
店員が微笑む。
「新しい生活ですから、好きなものを選んでいいんですよ」
「そうですよね」
葵は小さく頷いた。
その夜、仮住まいの部屋へ戻ると、テーブルの上にコンビニで買った鮭のおにぎりと温かい豚汁を並べた。十年間なら、食事の前に薬を確認し、義母の食べやすい大きさに料理を刻み、義父の好物を皿へ取り分けていた。今日は自分のためだけに買った夕食だった。豚汁の湯気から味噌の匂いが立ち上り、葵は一口飲んでから、ふっと息を吐いた。
「おいしい……」
誰かのためではなく、自分が食べたいから買った食事だった。それだけのことなのに、箸を持つ手が少し震えた。食べ終わったら薬の時間を気にする必要もない。夜中に呼ばれるかもしれないと耳を澄ませる必要もない。そんな当たり前の時間を、葵は十年ぶりに自分のものとして過ごしていた。
食器を洗い終えると、葵は窓を少し開けた。夜風がカーテンを揺らし、遠くから車の走る音が聞こえる。ベッド脇に置いた小さな箱には、節子が最後に残した言葉を記した紙が入っていた。葵はそれを取り出し、何度も読み返した。
「あなたまで、私たちのせいで人生をなくしちゃ駄目よ」
あの言葉を聞いたとき、節子の手は葵の手を弱々しく握っていた。いつもなら命令ばかりしていた義母が、最後には葵の目を見て、何度も「ありがとう」と言った。その声を思い出すと、葵の目から涙がこぼれた。
「お義母さん……私、もう自分の人生を始めてもいいですよね」
返事はない。けれど葵は紙を丁寧に折り、箱へ戻した。そして洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗った。鏡を見ると、目元は赤くなっている。それでも、以前のように疲れ切った顔ではなかった。
翌朝、葵は薄桃色のブラウスを着た。まだ新しい布地には糊の匂いが少し残っている。髪を整え、鏡の前で口紅を一本だけ選んだ。十年間、介護のために動きやすい服ばかり着ていたから、ブラウスの袖を通すだけで妙に背筋が伸びた。
「さて、今日は何をしようかな」
葵は冷蔵庫を開けた。中には卵と牛乳、それから昨日買ったヨーグルトがある。朝食を作りながら、これからの予定を考えた。弁護士との打ち合わせ、部屋の契約、家具の配送、そして新しい生活に必要なものの買い物。やることはたくさんある。
けれど、その一つ一つが自分のための予定だった。
葵は焼き上がったトーストにバターを塗り、窓を開けた。朝の空気が部屋へ入り、どこかで雀が鳴いている。昨日までなら聞き流していた音が、今日は妙に近く感じられた。
「私、まだこれからなんだ」
葵はそう言って、温かいコーヒーを一口飲んだ。苦みのあとに残る香りをゆっくり味わいながら、十年間しまい込んでいた自分の時間を、一日ずつ取り戻していこうと思った。




