第8話 弁護士から届いた一通の内容証明
第8話 弁護士から届いた一通の内容証明
その日の朝、圭介はいつもより早く会社へ向かった。白いワイシャツに紺色のネクタイを締め、寝癖を手で押さえながら玄関を出ると、八月の湿った空気がまとわりついた。駅へ向かう途中のコンビニでアイスコーヒーとおにぎりを買い、会社の自分の机で鮭のおにぎりをかじりながらメールを確認する。いつもなら営業部の数字や部下からの報告を眺めるところだが、その日は朝から美香とのメッセージが気になっていた。
『昨日の話、ちゃんと進んでる?』
圭介はスマートフォンを伏せた。美香からのメッセージは、このところ毎日のように届いている。以前なら「任せておけ」と簡単に返していたが、葵が弁護士を立ててからは、その言葉を打つ指が止まることが増えた。婚姻費用の請求も来ている。離婚届にサインさせればすべて終わると思っていたのに、話は思ったより大きくなっていた。
「立花課長、郵便です」
総務の女性が一通の封筒を持ってきた。白い封筒には弁護士事務所の名前が印刷されている。圭介は一瞬、それが何なのか分からないふりをした。しかし差出人を確認した瞬間、胃のあたりが重くなった。佐伯蓮法律事務所。葵が相談している弁護士の名前だった。
「俺宛てですか?」
「はい。内容証明郵便だそうです」
「……分かりました」
圭介は封筒を受け取った。紙一枚のように見えるのに、手に持つと妙に重い。周囲には部下が何人もいる。ここで封を切るわけにはいかない。圭介は封筒を引き出しへ入れ、鍵をかけた。机の上にはまだ食べかけのおにぎりが残っている。海苔が湿って指に貼りついたが、圭介はそれを拭うこともせず、引き出しの鍵を握ったまま立ち尽くした。
昼休みになってから、圭介は会議室へ入った。ブラインドを下ろし、誰もいないことを確認してから封筒を開ける。最初の数行を読んだだけで、顔から血の気が引いていった。離婚条件、財産分与、婚姻費用、不倫に関する慰謝料請求。葵側の主張が、項目ごとに整理されている。しかもそこには、圭介がすっかり忘れていた介護期間中の支出や、葵が立て替えた費用まで記載されていた。
「……なんだよ、これ」
紙をめくるたびに、見覚えのある日付が出てくる。介護用品代、通院交通費、薬代、生活費の立て替え。さらに、圭介が葵へ送ったメッセージの一部まで記載されている。圭介は椅子から立ち上がり、窓際まで歩いた。外では営業車が何台も走っている。いつもなら昼食を食べに出る時間なのに、今日は喉を通るものが何も思いつかなかった。
「……あいつ、全部残してたのか」
その言葉が口から漏れた。十年前からの記録があるとは思っていなかった。葵はいつも黙っていた。何を頼んでも「分かった」と答え、義父母のことを優先し、圭介の仕事にも文句を言わなかった。だから圭介は、葵には何もできないと思っていた。ところが、その沈黙の中で葵は毎日の出来事を記録していた。
さらにページをめくると、不倫についての記載が目に入った。女性の名前までは書かれていないが、圭介には誰のことなのかすぐに分かった。水野美香。会社の部下であり、自分が「妻とはもうすぐ離婚する」と言って付き合っていた女性だ。圭介は額に手を当てた。会議室の冷房は効いているのに、背中には汗が流れていた。
「まずい……」
午後の仕事はほとんど頭に入らなかった。部下から営業先について確認されても、返事が一拍遅れる。パソコンの画面を見ているふりをしながら、何度も内容証明の文面を思い出した。葵は本気だ。しかも、自分が考えていた「妻が感情的になっているだけ」という話ではない。弁護士が入り、証拠を整理し、正式な請求として動き始めている。
定時を少し過ぎると、圭介は鞄を掴んで会社を出た。駅前のラーメン店から豚骨の濃い匂いが漂ってきたが、食欲はなかった。自宅へ向かう電車の中でも、スマートフォンを何度も確認する。美香からのメッセージが一件届いていた。
『どうなった?』
圭介はしばらく考えてから、「帰ってから話す」とだけ返信した。
自宅の玄関を開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。葵はソファに座っていた。薄いベージュのカットソーに濃紺のパンツという服装で、膝の上には小さなノートが置かれている。テーブルには麦茶と、スーパーで買った小さなプリンが一つあった。圭介は靴を脱ぐなり、鞄を床へ置いた。
「葵!」
葵は顔を上げた。
「どうしました?」
「どういうつもりだ!」
「何のことでしょう?」
「とぼけるな! これだよ!」
圭介は内容証明をテーブルへ叩きつけた。紙がプリンの横に滑り、カップが少し揺れる。葵はプリンが倒れないように手で押さえてから、書類へ目を移した。その動作が妙に落ち着いていて、圭介は余計に腹が立った。
「弁護士なんか使いやがって!」
「あなたが離婚したいと言ったんでしょう?」
「だったら普通に離婚すればいいだろ!」
「普通に?」
葵はゆっくり立ち上がった。リビングの棚から一冊の古いノートを取り出す。表紙には、少し薄くなった文字で「介護日誌」と書かれていた。圭介はそれを見た瞬間、口を閉じた。
「これ、覚えていますか?」
「……何だよ、それ」
「十年間の記録です」
葵はテーブルの上にノートを置いた。角が擦れ、表紙には何度も手で触れた跡が残っている。ページの端には付箋が何枚も貼られていた。葵は一冊目を開き、日付の並んだページを見せた。
「午前二時、義母のトイレ介助。午前四時、義父が起きた。午前六時、朝食。午前九時、病院へ付き添い」
圭介は黙っていた。
「ここには、あなたに手伝ってほしいと頼んだことも書いてあります」
「そんな昔のこと……」
「昔だから何ですか?」
「俺だって仕事があったんだよ」
「知っています」
「じゃあ、仕方なかっただろ」
「そうですね」
葵はページをめくった。そこには圭介の発言も記録されている。「親のことなんだから、お前がやればいい」「専業主婦なんだから、それくらいやれ」。さらに録音データの保存場所を示す番号まで書いてあった。
「あなたにとっては、十年間も私が親御さんの介護をすることが普通だったんですよね」
圭介は答えなかった。冷房の風がカーテンを揺らし、窓際に置かれた観葉植物の葉が小さく擦れる。テレビでは明るいバラエティ番組が流れているのに、部屋の中だけ時間が止まったようだった。
「葵、俺は……」
「何ですか?」
「そんなつもりじゃなかった」
「どんなつもりだったんですか?」
「お前だって、家族だからやってくれてると思ってた」
「家族だから?」
葵は静かに笑った。笑ったというより、口元がわずかに動いただけだった。
「私が夜中に何度起きたか知っていますか?」
「……」
「義母が食事をこぼしたとき、誰が着替えさせたか知っていますか?」
「……」
「義父が徘徊した夜、誰が近所を探したか知っていますか?」
圭介は視線を逸らした。
「知らないですよね」
葵はノートを閉じた。もう責めるために話しているのではなかった。事実を確認しているだけだった。圭介が何を言おうと、十年間に起きたことは消えない。
「離婚については、佐伯先生を通してください」
「俺たち二人で話せばいいだろ!」
「もう二人では話せません」
「なんでだよ!」
「あなたが私を必要ないと言ったからです」
圭介の顔が固まった。
あの夜、ビールを掲げながら笑っていた自分の姿が、ようやく戻ってきたのだろう。葵はその顔を見て、それ以上何も言わなかった。
翌朝、葵はクローゼットを開けた。十年間使ってきた服の中から、必要なものを少しずつ選ぶ。白いブラウス、紺色のカーディガン、ベージュのパンツ、夏用のワンピース。タンスの奥から、まだ一度も着ていない薄桃色のブラウスが出てきた。買ったのは何年も前なのに、介護で汚すのが嫌で一度も袖を通していなかった。
「これも持っていこう」
小さなキャリーケースへ服を詰める。洗面所から歯ブラシを取り、化粧水と櫛を入れる。台所では冷蔵庫の中に残った牛乳を確認し、期限の近い卵を一つだけ使って目玉焼きを作った。フライパンに卵を落とすと、白身がジュッと音を立てる。葵はトーストを焼き、目玉焼きを皿に乗せた。
朝食を食べながら、葵は窓の外を見た。空はよく晴れていた。蝉の声が聞こえ、近所の家から洗濯機の回る音がする。ごく普通の朝だった。十年間、自分だけが時間の外に置かれていたような気がしたが、世界は何も変わらず動いている。
キャリーケースを玄関へ運ぶと、圭介がリビングから出てきた。
「本当に出ていくのか?」
「はい」
「どこへ行くんだよ」
「弁護士さんが用意してくれた部屋です」
「いつ戻る?」
葵は答えなかった。玄関の靴を履き、薄桃色のブラウスの袖を整える。ドアノブに手をかけてから、一度だけ家の中を振り返った。義母の介護用ベッドが置かれていた部屋、何度も薬を準備した台所、圭介のワイシャツを干したベランダ。十年間の生活が、家具や壁の傷にまで残っている。
「葵……」
圭介の声が背中から聞こえた。
葵は振り返った。涙を拭うこともなく、ただまっすぐ夫を見た。圭介は何か言おうとしたが、言葉が出てこない。葵は小さく息を吸ってから、静かに告げた。
「これからは、私の人生を私のために使います」
ドアを開けると、夏の熱気が頬に当たった。葵はキャリーケースを引いて歩き出した。車輪がアスファルトの小さな段差を越えるたび、カタ、カタ、と音がする。
その音を聞きながら、葵は一度も後ろを振り返らなかった。




