第7話 夫が隠していたもう一つの家庭
第7話 夫が隠していたもう一つの家庭
八月の夕方、窓の外では蝉が途切れ途切れに鳴いていた。葵は薄い水色のブラウスに紺色のスカートを合わせ、台所で冷やし中華を作っていたが、麺を茹でる湯気の向こうから聞こえてくる圭介の声に、箸を止めた。最近の圭介は帰宅するとすぐに不機嫌な顔をし、玄関に靴を脱ぎ散らかしたままリビングへ入ってくる。以前なら「疲れているんだろう」と考えて温かい食事を出していた葵も、今では何も言わず、自分の分だけ皿に盛るようになっていた。
「葵、まだいるのかよ」
圭介がリビングから怒鳴った。葵はきゅうりを細く切りながら、包丁の刃をまな板へ一定の間隔で当てた。トントンという音が続き、卵焼きの甘い匂いと、ごま油の香りが台所に残っている。圭介がいら立っていることは分かっていたが、もう声の大きさだけで自分の行動を変えるつもりはなかった。
「いますけど、何か?」
「何かじゃないだろ。いつまでここにいるんだよ」
「離婚が成立するまでです」
「だから、早く出ていけって言ってるだろ」
圭介は冷蔵庫を乱暴に開けた。中には葵が買っておいた豆腐や卵、麦茶のボトルが並んでいる。圭介は麦茶を取り出してコップに注ぎ、一口飲んだあと、テーブルへ強く置いた。氷が入っていないせいか、暑い室内では少しぬるくなっている。葵はその音を聞きながら、切ったきゅうりを皿へ移した。
「生活費もこれ以上出さないからな」
「婚姻費用については、弁護士さんにお願いしています」
「またそれかよ!」
「はい」
「俺の親の家を占領して、俺から金まで取るつもりか?」
葵はそこで初めて包丁を置いた。十年前、この家へ来たとき、義母の節子は台所の棚を指差して「ここは好きに使っていいからね」と言った。その言葉を信じて、葵は十年間、家の中のものを一つずつ覚えてきた。薬の置き場所、義父の着替え、義母が好んだ柔らかいご飯の炊き方、冬になると結露する窓の拭き方まで覚えた。その家を今になって「占領」と呼ばれると、胸の奥に小さな棘が刺さったようだった。
けれど葵は、その棘を抜こうとはしなかった。圭介が何を言ったのかを正確に覚えておくことのほうが大切だったからだ。葵はエプロンのポケットに入れていたスマートフォンをそっと確認した。録音の赤い表示が動いている。圭介が気づかないように画面を伏せると、葵は冷やし中華の皿を一枚だけテーブルへ置いた。
「夕飯、冷蔵庫にあります」
「俺の分は?」
「自分で取ってください」
「お前、最近本当に生意気になったな」
「そうですか?」
葵はそれだけ言って、自分の部屋へ戻った。机の上には十年分の介護日誌と、弁護士へ渡す資料をまとめたファイルが置かれている。窓際には洗ったばかりのタオルが三枚、室内干しされていた。柔軟剤の甘い香りが鼻をくすぐり、葵はその匂いを感じながらノートを開いた。今日の日付を書き、その下に圭介の発言を一つずつ記録する。
午後八時十二分。「いつまでここにいるんだよ」。午後八時十四分。「生活費もこれ以上出さない」。午後八時十七分。「俺の親の家を占領するな」。葵は書き終えると、ページの端を軽く押さえた。昔は日誌を書くとき、「今日は義母が少し食べてくれた」「義父が夜中に起きなかった」など、介護の記録ばかりだった。今はそこに夫の言葉が並んでいる。十年間、家族を支えるために使ってきた記録する習慣が、今度は自分を守るために役立っている。
その日の夜、葵のスマートフォンが震えた。画面には佐伯の名前が表示されている。葵は一度深呼吸してから電話に出た。窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえ、冷房の室外機が低く唸っていた。
「もしもし、立花です」
「立花さん、少し確認したいことがあります」
「はい」
「ご主人の不倫についてですが、以前お話しされていた女性について、かなり具体的な情報が確認できました」
葵は椅子の背もたれから背を離した。机の上には飲みかけの麦茶があり、グラスの外側に水滴がついている。指先でその水滴をなぞりながら、葵は佐伯の次の言葉を待った。
「おそらく、水野美香さんという女性です」
「……水野、美香?」
「はい。ご主人の勤務先の部下として登録されている女性です」
その名前を聞いた瞬間、葵の記憶の中にいくつかの場面がつながった。圭介が以前からスマートフォンを伏せて置くようになったこと、休日でも急に出かけることが増えたこと、義母の介護で葵が夜中に起きている間に帰宅することが何度もあったこと。圭介はいつも「仕事だ」と言っていた。葵はそれ以上聞かなかった。聞けば家庭が壊れると思い、壊れないように自分の疑問を飲み込んでいた。
「証拠は、あるんですか?」
「いくつか確認できています。ご主人から女性へ送ったメッセージ、それから二人が親密に会っていることが分かる写真があります」
「写真……」
「はい。もちろん、証拠としての扱いについてはこちらで確認します。立花さんご自身で相手に連絡したり、問い詰めたりはしないでください」
「分かりました」
電話を切ったあと、葵はしばらく椅子に座ったままだった。台所には夕食の片付けを終えていない皿が一枚残っている。冷やし中華のタレが皿の底に少しだけ残り、細切りのハムが一枚、箸の横に落ちていた。葵は立ち上がって皿を洗った。水道から流れる水は冷たく、指先に当たる感触が妙に鮮明だった。
翌日、佐伯の事務所を訪れると、葵は応接室の机の上に並べられた資料を見た。封筒の中には写真が何枚か入っている。葵は黒いカーディガンを羽織り、膝の上で両手を重ねていた。写真を見る前から、胸の奥が速く動いているのが分かった。十年間、一緒に暮らしてきた男の知らない顔を見ることになる。それでも、ここまで来た以上、目をそらすつもりはなかった。
「こちらです」
佐伯が写真を一枚、葵の前へ置いた。ホテルの写真ではなかった。駅前のレストランから出てくる圭介と美香が写っている。圭介は笑っていて、美香の肩には圭介の手が置かれていた。二人の距離は、ただの上司と部下と呼ぶには近すぎた。別の写真には、休日の昼間に二人が並んで歩いている姿が写っている。圭介が着ているシャツを、葵は見覚えていた。
「……このシャツ」
「ご存じですか?」
「私が買ったものです」
葵は写真から目を離せなかった。紺色の細いストライプが入ったシャツだった。三年前、圭介の誕生日に葵がデパートで選んだものだ。店員に「営業職なら、これが似合いますよ」と勧められ、少し高かったが買った。圭介はそのとき「ありがとう」と一言だけ言った。そのシャツを着て、圭介は別の女性と歩いていた。
「他にもあります」
佐伯が別の資料を示した。そこにはメッセージのやり取りが並んでいる。「次はいつ会える?」「妻にはまだ何も言ってない」「介護が終われば、あとは離婚するだけ」。葵は最後の一文を読んだところで、指先に力が入った。
「介護が終われば……」
その言葉を声に出した瞬間、十年間の出来事が一本の線につながった。義母の容体が悪くなった時期、圭介が急に「もう少し頑張ってくれ」と言ったこと、葵が疲れて寝込んだ日に「今は親のことが先だろ」と言われたこと。そして義母の葬儀が終わった夜に、ビールを掲げて「おつかれー、離婚しよう」と笑った夫の顔。葵は写真を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「だから……待っていたんですね」
佐伯は何も言わずに葵を見ていた。
「私の介護が終わるのを」
葵は写真を一枚ずつ確認した。自分が毎晩、義母のオムツを替えていた頃、圭介はこの女性と連絡を取っていた。義母の食事を作り、通院に付き添い、洗濯物を干していた頃、圭介は別の人生を準備していた。自分が家族を守っているつもりだった十年間を、夫は次の女性へ向かうための待ち時間として扱っていたのだ。
「立花さん……」
「大丈夫です」
葵はそう言ったが、声が少しだけかすれていた。手元の写真がわずかに震えている。佐伯が封筒を差し出すと、葵は写真を一枚ずつ戻した。指先が震えるたびに、紙が小さく擦れる音がした。それでも一枚も落とさなかった。
「これ、全部保管しておいてください」
「もちろんです」
「夫には、まだ何も言わないでください」
「分かりました」
「私からも言いません」
葵は封筒を閉じた。封をする前に、もう一度だけ中身を確認する。写真、メッセージ、記録。これまで「自分には何もない」と思わされてきた十年間の中に、実際には数え切れないほどの事実が残っていた。
事務所を出ると、外は夕暮れだった。駅前のパン屋から焼きたてのバターの香りが漂ってきて、葵は足を止めた。ショーケースには小さなクロワッサンが並んでいる。葵は一つ買い、紙袋を手に歩き出した。帰宅してから食べようと思ったが、袋から漂う香りに負けて、駅のベンチで少しだけちぎって口に入れた。外側は香ばしく、中はまだ温かかった。
「……ちゃんと、お腹は空くんだ」
葵は自分でもおかしくなって、小さく笑った。
家へ戻ると、玄関には圭介の革靴が揃っていた。リビングからテレビの音が聞こえる。葵は靴を脱ぎ、封筒をバッグの内ポケットへしまった。圭介には何も言わない。今日、佐伯から何を聞いたのかも、どんな写真を見たのかも話さない。
圭介はテレビを見たまま声をかけてきた。
「葵、まだ弁護士と何かやってるのか?」
「はい」
「余計なことするなよ」
「分かっています」
「俺は穏便に済ませたいんだからな」
葵は返事をせず、台所へ向かった。冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスへ注ぐ。氷を二つ入れると、カランと涼しい音がした。グラスを持ったまま、葵は一瞬だけリビングの圭介を振り返った。
夫はまだ何も知らない。
自分が隠していた女性の名前も、写真の存在も、メッセージの内容も。
そして、葵がそのすべてを知ったことも。
葵は自分の部屋へ戻り、机の引き出しを開けた。十年分の介護日誌の横に、今日受け取った封筒をそっと置く。封筒を閉じた手で、葵は表面を一度だけ撫でた。
「これで、全部そろいました」
もう、何を言われても記録できる。
何を隠されても、確認できる。
そして次に夫が「離婚しよう」と言うときには、今度こそ葵の側にも、切り札がある。




