第6話 婚姻費用を請求します
第6話 婚姻費用を請求します
翌朝、葵はいつもより少し遅く起きた。カーテンの隙間から差し込む夏の光が畳の上に四角く落ちていて、窓を開けると蝉の声が一気に大きくなる。昨夜、圭介から届いた「話し合いたい。早く出ていけなんて言って悪かった」というメッセージは、まだスマートフォンの画面に残っていた。葵は白いTシャツに薄茶色のロングスカートを着替え、冷蔵庫から豆腐と卵を出して、簡単な朝食を作った。味噌汁を温めながら、圭介の言葉を何度も思い返していたが、今までとは違うことに気づいた。謝っているように見えて、圭介は一度も「十年間ありがとう」とは言っていない。
「……早く出ていけ、か」
葵は味噌汁を椀へ注ぎながら呟いた。夫から突然離婚を切り出され、家を追い出されそうになり、それでも自分で弁護士を探して相談した。佐伯からは、離婚届に署名する前に財産関係を整理し、今後の生活費についても検討したほうがいいと言われている。葵は卵焼きを一切れ口へ運び、少し甘すぎる味付けに眉を寄せた。砂糖を入れすぎたらしい。それでも箸を止めずに食べた。十年間、自分のために朝食を作ることなどほとんどなかったのだから、これくらいの失敗は許していいと思った。
その日の午前、葵は佐伯の事務所へ電話をかけた。受話器から聞こえる事務員の声は落ち着いていて、葵は必要な書類を手元に並べながら話した。圭介から生活費を渡されていないこと、家を出るよう要求されていること、離婚の話が進んでいることを順番に伝える。佐伯との面談になると、葵は前回と同じ黒いバッグを膝の上に置いた。バッグの中には介護日誌だけでなく、圭介とのメッセージを印刷したものまで入っている。
「圭介さんから、生活費は受け取っていますか?」
「今月は一円も受け取っていません」
「銀行口座はどうですか?」
「私名義の口座はあります。でも、結婚後はほとんど使っていませんでした」
「なるほど」
佐伯はメモを取りながら、葵の話を聞いていた。机の上には冷めかけたコーヒーが置かれていたが、佐伯は一度も口をつけない。葵はその様子を見て、弁護士という仕事も大変なのだろうと思った。自分も介護をしていた頃は、食事を作ったことを忘れて鍋を焦がしたり、電子レンジに入れたご飯をそのまま忘れたりした。忙しい人間には、生活の小さなことが後回しになる。けれど、圭介は十年間、その後回しを全部自分に押しつけてきた。
「立花さん。離婚が成立するまでは、夫婦であることに変わりありません」
「はい」
「現在の生活費について、婚姻費用の請求を検討しましょう」
「婚姻費用……?」
「簡単に言えば、離婚が成立するまでの夫婦の生活費です。収入の多い側から、少ない側へ支払われることがあります」
葵は目を丸くした。今まで「離婚したら慰謝料を請求する」という話しか頭になかった。離婚届に判を押さなければ、夫婦という関係が続いている。その間の生活費についても考える必要があると知り、葵は少し背筋を伸ばした。
「じゃあ、私が家を出ても?」
「条件によりますが、別居していても請求できる場合があります。具体的な金額は収入などを確認して算定します」
「……それなら」
葵は一度言葉を切った。頭の中に、圭介があの日ビールを飲みながら言った言葉が浮かんだ。「お前には一文もやらない」。あれほど自信満々だった夫の顔を思い出すと、葵は少しだけ口元を緩めた。
「請求してください」
「分かりました」
「離婚を急いでいるのは、夫のほうですから」
佐伯が顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「夫は、早く私を追い出して、若い女性と一緒になりたいんだと思います」
「なるほど」
「だったら、私が急いであげる必要はありませんよね」
葵はそう言って、自分でも少し驚いた。以前なら「夫が困らないように」と考えていただろう。圭介が仕事に遅れないように朝食を作り、義父母の介護で疲れていても夕食を用意し、夫が休日に出かけるときには「楽しんできてね」と笑った。ところが今は、圭介の都合で自分の人生を動かす理由が見つからない。
佐伯はほんの少しだけ笑った。
「立花さん、離婚を長引かせること自体を目的にする必要はありません。ただ、相手の都合だけで急ぐ必要もありません」
「はい」
「必要な手続きを、必要な順番で進めましょう」
「お願いします」
事務所を出た葵は、駅前のスーパーへ寄った。昼食用に小さなサンドイッチと牛乳を買い、レジ袋を片手に歩く。店先には桃が並び、甘い香りが漂っていた。葵は少し迷ってから、白桃を二つ買った。十年間、果物を買うときは義父母が食べられるかどうかを考えていた。硬すぎないか、皮をむきやすいか、糖分は大丈夫か。今日は違う。
「これは私が食べる」
家へ戻ると、葵は桃を冷蔵庫へ入れた。冷えるまで少し時間がかかる。待っている間に洗濯物を畳み、古いタオルを雑巾にした。何気ない家事をしながら、葵はふと気づいた。家事をしていること自体が嫌だったわけではない。誰かのためにやるのが当然だと言われ、自分の時間も労力も価値がないように扱われることが嫌だったのだ。
その夜、圭介から電話がかかってきた。
「葵、昨日の話なんだけど」
「はい」
「もう一度、ちゃんと話そう」
「何をですか?」
「離婚のことだよ。俺も言い方が悪かった」
「弁護士さんに相談しています」
「また弁護士かよ」
「はい」
「そんなに金を使ってどうするんだ?」
「必要なことなので」
圭介は電話の向こうで大きく息を吐いた。
「俺たち、そんなに揉める必要ないだろ。家を出てくれれば、それで終わるんだから」
「私には終わりません」
「じゃあ、何がしたいんだよ」
「婚姻費用を請求します」
しばらく沈黙が続いた。圭介の声が聞こえなくなり、代わりに電話越しの小さな雑音だけが響く。
「……何、それ」
「弁護士さんから説明してもらってください」
「お前、そんなことまでして金を取るのか?」
「生活費です」
「俺は離婚したいんだぞ!」
「知っています」
「だったら早く離婚しろよ!」
「急いでいるのは、あなたですよね」
葵は電話を切った。心臓が少し速く動いていたが、手は震えていなかった。台所へ行くと、冷蔵庫の中で桃が冷えている。葵は一つ取り出し、包丁で切った。白い果肉から甘い汁が流れ、指先がべたついた。
「……甘い」
葵は笑った。自分のために買った桃は、思ったよりおいしかった。
一方、圭介は自宅のリビングでスマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた。テーブルには仕事帰りに買った弁当が置かれている。唐揚げ弁当だったが、蓋を開ける気にもならず、白いご飯が少しだけ乾いていく。圭介は葵から言われた「婚姻費用」という言葉を検索した。
「……なんだよ、これ」
画面を何度もスクロールする。離婚が成立するまでの生活費について請求できる場合があることを知り、圭介の眉間に皺が寄った。離婚届にサインさせれば終わると思っていた。家を出ていけば、葵との関係はそこで切れると思っていた。
スマートフォンが鳴った。美香からのメッセージだった。
『離婚、進んだ?』
圭介はすぐに返信した。
『今やってる』
すると、すぐに返事が来た。
『まだなの?』
圭介は画面を見つめた。
『弁護士まで入れたみたい』
『え?』
『でも大丈夫だから』
『本当に?』
その言葉に、圭介は返信できなかった。
美香には「もうすぐ離婚できる」と言った。会社では課長として部下に指示を出している。家に帰れば、妻が自分の言うことを聞くと思っていた。しかし現実には、妻は弁護士を立て、生活費まで請求しようとしている。
その夜、圭介はようやく弁当の蓋を開けた。冷えた唐揚げを一つ口へ入れたが、衣が湿っていて油の匂いだけが鼻についた。電子レンジで温めればいいのに、そんなことすら面倒だった。圭介は箸を置き、葵がこれまで毎晩作っていた夕食を思い出した。
「……あいつ、毎日これをやってたのか」
けれど、その気づきはほんの一瞬だった。
圭介はすぐに首を振った。
「いや、専業主婦なんだから当たり前だろ」
そう呟いたものの、声に以前の勢いはなかった。
数日後、佐伯弁護士から内容証明郵便が圭介のもとへ届く。
そこには離婚協議に関する通知だけではなく、婚姻費用についての請求も記されていた。
圭介は封筒を握りしめた。
離婚を急げば急ぐほど、自分の負担が増える可能性がある。
そして、離婚を急いでいる理由を知られれば、さらに話は変わってくる。
圭介は封筒を机の上へ置き、初めて自分が仕掛けた離婚という話が、自分の思い通りには進まなくなっていることを認めざるを得なかった。
「……葵のやつ、どこまで知ってるんだ?」
答えは、まだ圭介には分からなかった。




