第5話 「早く出ていけ」と言った夫
第5話 「早く出ていけ」と言った夫
その日の夕方、葵は台所で鯖の味噌煮を温めていた。白い湯気が鍋から立ち上がり、生姜の香りが狭い台所に広がっている。淡い黄色のブラウスの袖を肘までまくり、味噌汁を椀によそうと、玄関の鍵が乱暴に回った。帰宅した圭介の足音が廊下を進んでくる。葵は菜箸を置き、火を弱めた。
圭介はネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた。手には白い封筒があり、いつもの帰宅時より足取りが速い。葵が「おかえり」と声をかけても返事をせず、封筒をテーブルの上へ置いた。封筒の角が木の天板に当たり、乾いた音がした。
「これにサインしてくれ」
葵は鍋の火を止めてから、ゆっくりテーブルへ向かった。封筒から出された紙を見た瞬間、何の書類なのか分かった。離婚届だった。圭介は椅子に座り、腕を組んで葵を見上げている。まるで会社で部下に書類を渡して、処理を急かしているような顔だった。
「嫌です」
「は?」
「サインしません」
圭介の眉が跳ね上がった。葵は離婚届に触れず、その横に置かれたボールペンだけを見た。十年前なら、圭介の声が大きくなっただけで自分の言葉を引っ込めていた。だが、今は違う。テーブルの端に置いたスマートフォンが録音状態になっていることを、葵は確認していた。
「なんでだよ。もう話しただろ。俺たちは離婚するんだよ」
「あなたが決めただけです」
「俺たちの問題だろ」
「だから、弁護士を通してください」
圭介は数秒黙ったあと、鼻で笑った。冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。プルタブを開ける音がして、炭酸の抜ける小さな音が続いた。葵は黙って鍋の蓋を閉めた。鯖の味噌煮はまだ温かい。けれど、もう圭介の分まで盛りつける気にはならなかった。
「お前に弁護士なんて雇えるわけないだろ」
「相談するだけならできます」
「金はどうするんだよ」
「それも相談します」
「十年間専業主婦だったんだぞ。世間知らずのお前が何をできるっていうんだ」
葵は圭介の顔を見た。言葉だけなら、以前にも何度も聞いたものだった。専業主婦だから、家にいるから、時間があるから。介護を頼まれれば「それくらい」と言われ、夜中に起こされても「親なんだから」と言われた。今度は十年間働いていなかったことを理由に、離婚まで自分の思い通りに進めようとしている。
「私に何ができるかは、弁護士さんに聞きます」
「強がるなよ」
「強がっていません」
「じゃあ、いつまでここにいるつもりだ?」
「離婚が成立するまでです」
圭介の顔から笑みが消えた。葵はそれ以上何も言わず、台所へ戻った。鯖の味噌煮を一切れ自分の皿へ取り、炊飯器からご飯をよそう。味噌の甘辛い香りが鼻をくすぐった。圭介はまだテーブルに座ったままだったが、葵はもう彼の夕食を準備しなかった。
「俺の飯は?」
「冷蔵庫にあります」
「は?」
「自分で温めてください」
圭介は舌打ちした。葵は味噌汁を一口飲んだ。少し濃かった。以前なら「ごめんね、味噌を入れすぎた」と言っていたかもしれない。しかし今日は、その味の濃ささえどうでもよかった。自分で作った食事を、自分のために食べる。それだけで十分だった。
翌日から、圭介の態度は露骨に変わった。朝、洗面所へ行けば「いつ出ていくんだ」と言われ、夜になれば「弁護士なんて意味がない」と繰り返された。葵はそのたびに録音を確認し、日時を介護日誌とは別のノートへ書き込んだ。黒いボールペンで日付を書き、その横に「離婚届を要求」「弁護士を通せと伝達」と短く記録する。冷蔵庫の横には、洗濯物を入れるための籠があり、その中で圭介のワイシャツが二枚丸まっていた。葵はそれを見ても、以前のようにすぐ洗濯機へ入れなかった。
数日後、葵は佐伯蓮の法律事務所を訪れた。ベージュのブラウスに黒いスカートを合わせ、十年使った黒いバッグに資料を詰めている。バッグは重く、肩に食い込んだが、その重さが今まで積み上げてきた十年間そのもののように感じられた。受付を済ませると、温かいほうじ茶が出された。葵は湯気の向こうで、佐伯が資料を一枚ずつ確認するのを見ていた。
「これが介護日誌です」
「はい」
「こちらが通院費と介護用品の領収書です。こっちは生活費として私が立て替えたものです」
「分かりました」
佐伯は急がなかった。日誌のページをめくり、付箋のついた領収書を確認し、通帳のコピーへ目を移す。机の上には、葵が十年間かけて残したものが少しずつ並んでいった。やがて佐伯は録音データの一覧を見て、眼鏡を外した。
「かなり丁寧に記録されていますね」
「誰かに見せるつもりはありませんでした」
「それでも残していた」
「忘れたくなかったんだと思います。毎日何をしたのか分からなくなることがあったので」
佐伯は静かに頷いた。
「立花さん。これだけ記録が残っているなら、感情だけで戦う必要はありません」
葵は顔を上げた。胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけたような気がした。自分が泣きながら訴えなければ誰も分かってくれないと思っていた。しかし佐伯は、泣いたかどうかではなく、紙に残された日付と金額を見ている。
「私にも、請求できるものがあるんでしょうか」
「財産分与、慰謝料など、個別に整理しましょう。不倫についても事実と証拠を確認します」
その言葉を聞いて、葵は少し身を乗り出した。
「不倫の証拠もあります」
「どの程度のものですか?」
「まだ整理途中ですが、夫と女性が一緒にいる写真があります。それから、夫の発言を録音したものもあります」
「分かりました。消したり、相手に知らせたりせず、そのまま保存してください」
「はい」
「今後、圭介さんから書類を渡されたり、何か要求されたりした場合も、すぐに署名しないでください。私に見せてください」
「分かりました」
事務所を出ると、外はまだ暑かった。葵は駅前のベンチに座り、鞄から小さな水筒を取り出して水を飲んだ。喉を通る冷たい水が気持ちよく、空を見上げると入道雲が大きく膨らんでいる。帰り道、駅の売店で小さなシュークリームを一つ買った。家に帰るまで待ちきれず、歩きながら袋を開けると、甘いクリームが口の中に広がった。
「……おいしい」
葵は一人で呟いた。
同じ頃、圭介は会社近くのカフェで美香と会っていた。窓際の席には午後の日差しが差し込み、テーブルにはアイスコーヒーとサンドイッチが置かれている。美香はスマートフォンを何度も確認しながら、ストローを指で回していた。圭介は余裕のある男を演じようとしていたが、ネクタイを何度も直す癖が出ていた。
「もうすぐ離婚できる」
「いつ?」
「だから、もうすぐだって」
「それ、前にも聞いた」
「今度こそ本当だよ」
「まだ離婚届にサインしてないんでしょ?」
圭介は答えなかった。美香はサンドイッチを一口食べ、しばらく黙ったあと、スマートフォンをテーブルへ置いた。
「ねえ、まだなの?」
「……弁護士を入れるとか言い出した」
「弁護士?」
「大したことない。どうせ金もないし、すぐ終わる」
「本当に?」
「本当だよ」
圭介は強く言い切った。しかし、自分でもその声が少し上ずっていることに気づいた。葵は自分の言うことを聞く妻だった。離婚届を渡せば、それで終わるはずだった。ところが今は、葵の後ろに弁護士がいる。
美香はアイスコーヒーを飲み終えると、バッグを肩に掛けた。
「私、いつまでも待つつもりないから」
「分かってるって」
「来月までには決めてね」
「……分かった」
美香が店を出ていくと、圭介は一人残された。テーブルの上には氷の溶けたアイスコーヒーがあり、水滴がコースターを濡らしている。圭介はスマートフォンを取り出し、葵へ電話をかけようとして、指を止めた。
電話をすれば、何を言われるか分からない。
弁護士を通せと言われるかもしれない。
そのとき初めて圭介は、自分が葵を簡単に追い出せると思っていたことが間違いだったと気づき始めた。
「……あいつ、何をするつもりなんだ」
圭介は溶けた氷を見つめた。
そしてその夜、葵のもとへ一通のメッセージが届いた。
『話し合いたい。早く出ていけなんて言って悪かった』
葵は画面を見たあと、すぐには返信しなかった。
テーブルの横には、十年間の介護日誌が積まれている。
葵はスマートフォンを伏せ、明日の朝に返事をすることにした。




