第4話 女として終わってる
第4話 女として終わってる
翌朝、葵は薄いグレーのカーディガンに白いブラウスを合わせ、十年間使ってきた黒いバッグを肩にかけた。バッグの中には介護日誌を三冊、通帳のコピー、領収書を入れた封筒、そしてスマートフォンが入っている。朝食は昨夜の冷やしうどんの残りと卵焼きにしたが、卵焼きを一口食べたところで箸を置いた。今日は弁護士へ相談する日だった。家を出る前に、もう一度だけ記録を確認しておこうと、葵はテーブルの上に介護日誌を広げた。
そこには、十年前からの生活がびっしり書かれている。義母の発熱、義父の徘徊、病院の予約、薬の受け取り、介護用品の購入、夜中の着替え。ページの端には、当時使っていたボールペンのインクがにじんでいる箇所もあった。葵はその文字を指でなぞりながら、あの頃は一日が終わることだけを考えていたと思い出した。朝食を作り、洗濯機を回し、義父母の世話をし、夕食を作り、夜中に起きる。自分の顔を鏡で見る時間さえ惜しかった。
そこへ圭介がリビングへ入ってきた。白いシャツの襟は少し曲がっていて、寝起きの髪を手で乱暴になでている。葵は何も言わず、日誌を閉じた。圭介はテーブルの上を見て、眉をひそめる。
「まだそんなもの見てるのか?」
「うん。今日は弁護士さんに相談するから」
「本気なのかよ」
「本気だよ」
圭介は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出した。キャップをひねって一口飲むと、そのまま葵を見た。以前なら、葵は夫の機嫌が悪くならないように言葉を選んでいた。しかし今は、何を言われても記録を残すという意識のほうが強かった。
「俺は別に揉めたいわけじゃないんだよ。普通に離婚すればいいだろ」
「普通って、どういう意味?」
「だから、離婚届を書いて、家を出ていけばいい」
「十年間介護してきた私が?」
「それはお前が勝手にやったことだろ」
その言葉を聞いた瞬間、葵の手が止まった。昨日までなら、胸の中で何かが大きく揺れていたかもしれない。けれど今日は、目の前の男が何を言ったのかを覚えておこうと思った。葵はテーブルの下に置いたスマートフォンを確認し、録音中の表示が動いていることを確かめた。
「勝手にやった?」
「そうだよ。俺が頼んだわけじゃない」
「お母さんの夜中のトイレも?」
「……それは仕方ないだろ」
「お父さんが徘徊したときも?」
「だから、親のことなんだからお前が見ればいいだろ」
葵は黙って圭介を見た。義母の部屋には、まだ介護用の手すりが残っている。廊下には車椅子を壁に寄せた跡があり、床にはベッドを動かしたときについた小さな傷がある。洗面所の棚には、使いかけの介護用クリームが一本残っていた。十年間の生活は、まだ家のあちこちに残っている。
「私、この十年で何をしてたんだろうね」
「だから、もう終わったんだろ。介護は」
「うん。終わったよ」
「だったら、これからはお互い自由になればいい」
圭介はそう言って、スマートフォンを操作し始めた。葵はその姿を見ながら、昨夜の録音を思い出した。十年前、結婚したばかりの頃は、圭介の帰宅に合わせて夕食を作っていた。仕事から帰った夫が喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、煮物を温め直し、味噌汁を作り直した。髪型を変えた日には「どう?」と聞き、休日には少しきれいな服を選んだ。
けれど介護が始まってから、そんな生活は少しずつ消えていった。義母が夜中に起きれば葵も起きる。朝になれば洗濯物を回し、昼には病院へ行き、帰宅すれば夕食を作る。美容院へ行く時間が取れず、髪は肩につかない長さで自分で切るようになった。鏡台には以前買った香水が一本残っていたが、何年も蓋を開けていない。
葵はその香水を思い出した。結婚した頃、圭介と一緒に百貨店へ行って選んだものだった。小さな瓶を手に取って香りを確かめたとき、圭介が「葵にはこれが似合う」と言った。あのときの声を思い出すと、胸の奥が少しだけ締まった。
しかし圭介は、そんな過去など知らないように言った。
「お前さ、もう女として終わってるだろ」
葵は顔を上げた。
「……何?」
「だってそうだろ。髪もボサボサだし、服だっていつも同じ。家にいて親の世話ばっかりで、自分を女として磨くこともしてこなかったじゃん」
「十年間、誰の親の世話をしてたと思ってるの?」
「だから、それはお前が勝手にやったんだって」
圭介は鼻で笑った。葵は反論しようとして、口を閉じた。リビングの時計が午前八時を告げる。窓の外では蝉が鳴き、ベランダに干したタオルが風に揺れている。台所には昨夜の味噌汁の鍋が置かれたままで、味噌の匂いがまだ少し残っていた。
葵は自分の手を見た。指先には細かなひびがあり、爪の周りには洗剤で荒れた跡がある。何度も手を洗ってきた手だった。義母の食事を用意し、身体を拭き、洗濯物を洗い、薬を仕分けした手だった。
「女として終わってるって言うけど」
葵はゆっくり立ち上がった。
「私がそうなった十年間、あなたは何をしてたの?」
「は?」
「私が美容院へ行けないとき、あなたは一度でも『行っておいで』って言った?」
「そんなの自分で行けばいいだろ」
「じゃあ、お母さんの夜中の介助をあなたが代わってくれたことは?」
「仕事があるって言ってるだろ」
「じゃあ、私が熱を出したときは?」
「……覚えてない」
葵は笑った。声を立てるような笑いではなかった。ただ、目の前の答えがあまりにも分かりやすくて、もう説明する必要がないと思った。
「そうだよね。あなたは覚えてないよね」
葵はバッグを肩にかけた。昨日までなら、圭介の言葉を何度も頭の中で繰り返していたかもしれない。自分が悪かったのではないか、もっと夫婦らしくすればよかったのではないか、介護を理由に夫を放っておいたのではないか。けれど、十年間の記録を読み返した今は違った。
葵は玄関へ向かい、靴を履いた。白いスニーカーの紐を結ぶ指は、昨日の真鶴へ出かけたときよりずっと落ち着いていた。ドアの横には、節子が使っていた杖がまだ立てかけられている。葵は一瞬だけそれを見て、そっと脇へ寄せた。
「どこ行くんだよ?」
「弁護士さんのところ」
「そんなことして、俺に何を請求するつもりだ?」
「まだ分からない」
「じゃあ、何しに行くんだよ」
「私の十年間が、どう扱われるのか聞きに行くの」
圭介は黙った。
葵はドアを開けた。外は真夏の暑さで、アスファルトから熱が上がっている。蝉の声が耳に響き、日差しが白いブラウスの肩を照らした。十年前なら、こんな時間に一人で家を出るときにも、義父母の昼食を気にしていただろう。今日は誰の食事も用意していない。それでいい。
駅へ向かいながら、葵はスマートフォンの録音データを確認した。圭介の「お前がやればいい」「専業主婦なんだから、それくらいやれ」という声が残っている。葵はイヤホンを外し、バッグの中へ戻した。
「終わってるのは、私じゃない」
そう呟いて、葵は前を向いた。
夫婦として何が壊れたのか、十年間の間に何が積み重なったのか、それをこれから一つずつ確認する。介護のために女としての時間を失ったのなら、その責任まで自分一人で背負う必要はない。
葵は駅前の小さなパン屋で、クリームパンを一つ買った。焼きたての甘い匂いが袋から漂ってくる。歩きながら一口かじると、温かいカスタードが舌に広がった。
「おいしい」
その一言を言ったあと、葵は少しだけ笑った。
十年間、誰かのために生きてきた。
今日からは、自分の人生を取り戻すために生きる。
その最初の相手は、昨日まで夫だった男だった。




