第3話 十年間、私は記録していた
第3話 十年間、私は記録していた
真鶴から戻った翌日の午後、葵は自分の部屋の窓を開けた。八月の熱気が一気に入り込み、カーテンがふわりと膨らんだ。机の上には昨日買った小さな土産の干物が置かれ、潮の匂いがまだ袋の中に残っている。葵は白いTシャツに薄いベージュのパンツという動きやすい服に着替え、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスへ注いだ。氷がからんと鳴る音を聞きながら、昨日までなら絶対に触ろうとしなかった古い収納箱へ目を向ける。
箱は押し入れの奥にしまわれていた。表面には長年の埃が薄く積もり、角には掃除機のホースがぶつかった跡が残っている。葵はしゃがみ込み、両手で箱を引き出した。腰を伸ばすと、十年間使い続けた腰の痛みが少し走ったが、そのまま机の横まで運んだ。箱を開ける前に麦茶を一口飲み、冷たい液体を喉へ流し込む。これから見るものが、自分の人生そのものだということを、葵はもう分かっていた。
「……開けよう」
蓋を外すと、紙と古いインクの匂いがした。中には何冊もの大学ノートが並んでいる。表紙には年月日が書かれ、端が少し丸まっていた。葵は一番上のノートを取り出し、最初のページを開いた。そこには十年前の日付と、節子が脳梗塞で倒れた日のことが細かく書かれていた。
「午前七時二十分、義母が起床。右手に力が入らず、箸を落とす。午前八時、救急車を要請」
葵は指先で文字をなぞった。あの日のことは今でも覚えている。朝食に出した味噌汁を節子が飲もうとしたとき、椀を持つ手が震えた。葵が「お母さん、大丈夫?」と声をかけても返事がなく、異変に気づいて救急車を呼んだ。その後の病院の匂い、白い廊下、冷たい待合室の椅子まで、今でも身体が覚えている。
ページをめくると、日付が続いていく。最初は週に数回だった記録が、やがて毎日のものになっていた。葵はペンを持ったまま、当時の自分の字を眺めた。几帳面に書かれた文字の横には、赤い丸や小さなチェックがいくつもある。誰かに見せるためではなく、自分が混乱しないように始めた記録だった。
「午前二時、義母のトイレ介助。三時二十分、着替え。午前四時、義父が起床し、玄関から外へ出ようとする」
葵はページをめくる手を止めた。深夜の冷たい廊下を思い出す。冬の午前四時、裸足のまま玄関へ走り、重雄の腕をつかんだことがあった。義父は「会社へ行かなきゃならん」と繰り返していた。葵が何度説明しても聞いてくれず、ようやく布団へ戻した頃には外が白み始めていた。
その日の記録の下には、別の文章がある。
「午前六時、圭介に電話。夜中の徘徊について相談。『仕事があるから無理。葵が見てくれ』と言われる」
葵はその一行を見つめた。鉛筆の跡が少し濃くなっている。書いたとき、ペンを強く握っていたのだろう。ノートの端には小さな穴まで開いていた。
「私、こんなに強く書いてたんだ……」
独り言を言って、葵は苦笑した。自分では忘れていた。いや、忘れようとしていたのかもしれない。毎日を終わらせることだけを考えていたから、その日に何があったかを記録して、次の日へ進むしかなかった。
葵は次のノートを開いた。そこには介護用品の購入記録が並んでいた。紙おむつ、尿取りパッド、介護用ベッドのレンタル費、薬局で買った消毒液、滑り止めマット。レシートを貼り付けたページもあり、古くなった紙からは少し黄ばんだ匂いがした。
「紙おむつ、三千八百八十円。介護用パッド、二千四百六十円。通院交通費、一万二千円」
葵は電卓を取り出し、一つずつ数字を入力していった。画面に数字が増えていく。何度も入力し直しながら、葵は眉を寄せた。十年分ともなると、簡単に計算できる金額ではない。
さらに別の封筒から、銀行の通帳コピーが出てきた。葵は通帳の明細を確認した。生活費として自分の貯金から支払ったもの、義父母のために立て替えたもの、圭介から「後で返す」と言われたまま戻ってこなかったものがある。記録には、それぞれ日付と金額が書かれていた。
「これも……残ってる」
葵は自分の声を聞いて、椅子の背もたれに体を預けた。十年間の記録は、思っていた以上に多かった。ノートだけではない。領収書、通帳のコピー、病院の書類、介護サービスの利用票、圭介とのメッセージのスクリーンショットまで保存してある。
スマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。画面には古い画像が並んでいる。節子が車椅子に座っている写真、重雄が病院のベッドで眠っている写真、介護用品を並べた棚の写真。さらに、圭介とのメッセージも残っていた。
葵は指で画面をゆっくりスクロールした。
「お父さんの病院、今日付き添ってくれる?」
そのメッセージに対する圭介の返事は短かった。
『無理。仕事』
別の日には、
『今日はお母さんのデイサービス迎えお願いできる?』
『専業主婦なんだから、それくらいやってよ』
葵は画面を見つめたまま、スマートフォンを机へ置いた。昨日までなら、これを見ても「仕方なかった」と考えたかもしれない。圭介には仕事がある。自分は家にいる。そうやって何度も自分を納得させてきた。
しかし今は、別のことが気になった。
「私、何回頼んだんだろう」
葵はノートを開き、圭介へ助けを求めた日を数え始めた。三回、五回、十回ではない。何十回もあった。電話をした記録も残っている。けれど、そのたびに圭介は仕事を理由に断った。
葵はさらにスマートフォンの録音フォルダを開いた。そこには、介護中に録音していた音声がいくつも残っていた。録音を始めた理由は、当時の自分でもはっきり覚えていない。家族の会話を忘れないためだったのか、介護サービスの担当者へ正確に伝えるためだったのか。それとも、何を言われたのか自分自身が分からなくなっていたからか。
イヤホンを耳につけ、最初の音声を再生する。
『親のことなんだから、お前がやればいいだろ』
圭介の声だった。少し苛立っていて、テレビの音も後ろから聞こえている。
葵は次の録音を再生した。
『俺は仕事で忙しいんだよ。何回電話してくるんだよ』
さらに別の音声。
『専業主婦なんだから、それくらいやれよ』
葵はイヤホンを外した。部屋の中が急に静かになった。窓の外では蝉が鳴き、ベランダに干したタオルが風で揺れている。机の上には飲みかけの麦茶があり、グラスの表面には水滴がいくつもついていた。
葵はそのグラスを手に取った。冷たさが掌に伝わる。昨日、真鶴の海を見ながら自分に言った言葉を思い出した。
「私は、私を見捨てない」
葵はもう一度、ノートを開いた。
そこには十年間の生活がある。義父母の介護だけではない。誰が何を言ったのか、何にいくら使ったのか、いつ誰へ助けを求めたのか。その記録は、葵自身が忘れてしまいそうになった事実を、きちんと残してくれていた。
夕方になり、葵は簡単に冷やしうどんを作った。きゅうりを細く切り、錦糸卵を乗せ、冷たいつゆをかける。台所に立ちながらも、頭の中ではこれからやることが決まっていた。離婚届にすぐ署名する必要はない。圭介の言い分をそのまま受け入れる必要もない。まず、専門家に自分の記録を見てもらう。
食卓に一人分のうどんを置き、葵は箸を持った。
「明日、弁護士に相談しよう」
声に出すと、迷いが少し消えた。食事を終えたら、ノートを年代順に並べる。領収書も整理する。録音データも保存する。圭介とのメッセージも消さない。
葵は冷たいうどんを一口食べた。酢の効いたつゆが舌に広がり、きゅうりの歯ごたえが小気味よかった。昨日の伊勢海老とは違う、簡単な夕食だった。それでも、自分で作って自分で食べる食事には、今までとは違う味がした。
十年間、葵は記録していた。
それは復讐のためではなかった。
けれど今、その記録が葵自身を守るための力になる。
夫が「もう必要ない」と言ったなら、葵はその言葉を受け入れて終わるつもりはなかった。十年間の自分の働きも、我慢も、使ったお金も、眠れなかった夜も、なかったことにはさせない。
葵は食器を洗い、最後に机の上の介護日誌を一冊だけ閉じた。
「きっちり、確認してもらおう」
明日、葵は弁護士のもとへ向かう。十年間書き続けた記録を、初めて誰かに見せるために。




