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第2話 戦闘開始前の有給休暇

第2話 戦闘開始前の有給休暇


 翌朝、葵は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。午前五時十二分、身体だけが十年間の習慣を覚えていて、いつもの時間に目が開いたのだ。以前なら、この時間には隣の部屋から義母・節子の声が聞こえていた。「葵さん、お水……」「トイレ、お願い」と呼ばれるたび、葵は眠い目をこすりながら布団から起き上がった。けれど今日は、何も聞こえない。介護用ベッドのリモコンを操作する音も、廊下を歩く足音もない。葵は布団の中で天井を見つめ、ようやく節子がもういないことを思い出した。


「……終わったんだ」


 口に出してから、葵は枕元のスマートフォンを手に取った。昨夜、圭介から「離婚しよう」と告げられた直後は、頭の中が真っ白になって何も考えられなかった。それなのに朝になって最初に浮かんだのは、弁護士でも財産でも離婚届でもなかった。なぜか、伊勢海老だった。葵は自分でも不思議に思いながら、スマートフォンの検索画面を開いた。


「……伊勢海老、食べたい」


 声に出した途端、葵は布団の中で少し笑った。十年間、何を食べるか決めるときは、いつも家族が基準だった。義父には塩分を控えた食事、義母には柔らかくて飲み込みやすいもの、圭介には仕事から帰ってきてもすぐ食べられる料理を用意する。自分は最後に残ったものを温めればよかった。伊勢海老なんて、食卓に上ったことすらない。


 葵は布団から出て、カーテンを開けた。八月の朝はすでに明るく、窓ガラスには昨夜の雨粒が細く残っていた。蝉の声が住宅街の向こうから聞こえ、隣の家では洗濯機が回っているらしく、低いモーター音が響いている。葵は窓を少し開け、湿った朝の空気を吸い込んだ。潮の匂いはしない。それでも、海へ行きたいという気持ちは消えなかった。


 洗面所で顔を洗うと、冷たい水が頬を伝った。鏡の中には、目の下に濃い影を作った自分がいる。昨日の葬儀で着た黒い喪服は椅子の背にかけたままで、肩のあたりには白い菊の花粉が少しついていた。葵はタオルで顔を押さえ、髪を整えながら、鏡の中の自分へ話しかけるように呟いた。


「今日くらい、好きなことしてもいいよね」


 台所へ行くと、昨日の夕飯の食器が水切りかごに伏せてあった。鍋には少しだけ味噌汁が残っていて、冷蔵庫には昨夜の煮物、卵二個、納豆、梅干しが入っている。葵は炊飯器を開け、残っていたご飯を茶碗によそった。納豆を混ぜ、醤油をほんの少し垂らす。以前なら、まず圭介の朝食を作り、弁当を詰め、それから自分の食事を取っていた。今日は自分の茶碗だけを食卓へ運んだ。


「いただきます」


 納豆をご飯に乗せて一口食べる。特別な朝食ではない。それでも、妙においしかった。温かいご飯の湯気が鼻に届き、納豆の香りが口に広がる。誰かの食べる時間に合わせる必要もない。誰かが「薬はまだ?」と呼ぶこともない。葵はゆっくり箸を動かしながら、ふと時計を見た。


「五時半……」


 いつもなら、ここから義母の着替え、朝食、薬の確認が始まる時間だった。葵は時計を見つめたあと、箸を置いた。十年間、朝五時半から始まっていた一日が、今日は自分のために使える。そう考えると、胸の奥に小さな空間ができたようだった。


 食事を終えると、葵は自分の部屋へ戻った。クローゼットを開けると、洋服がぎっしり並んでいるのに、どれも介護生活に合わせて選んだものばかりだった。汚れても洗いやすい綿のシャツ、動きやすいパンツ、洗濯機で簡単に洗えるカーディガン。葵は奥のほうから、ほとんど着ていなかった白い麻のブラウスと淡い青色のスカートを取り出した。


「これ、まだ着られる」


 ブラウスを身体に当てて鏡を見る。結婚したばかりの頃に買った服ではない。それでも、介護生活が始まる前に買ったお気に入りの服だった。葵は袖を通し、髪を一つに束ねる。最後に薄い口紅を塗った。鏡の中の自分を見ながら、葵は少しだけ背筋を伸ばした。


 スマートフォンを開くと、昨夜の「離婚しよう」という言葉が頭に浮かんだ。胸の奥がざわついたが、葵はその感覚をいったん脇へ置いた。今すぐ答えを出す必要はない。むしろ圭介が急いでいるのなら、自分まで急ぐ理由はなかった。検索画面に「真鶴 伊勢海老」と入力すると、海沿いの料理店や旅館の写真が次々に表示された。


「……おいしそう」


 大きな伊勢海老が一匹、皿の上に盛られている写真を見つけた。赤い殻、透き通るような白い身、味噌汁から立ち上る湯気。葵は画面を指で拡大した。そういえば、結婚してから伊勢海老を食べたことがない。圭介は魚介類より肉が好きで、外食するときは焼き肉やステーキを選んだ。葵が海鮮料理を食べたいと言ったときも、「家で魚を食べればいいだろ」と言われた。


 葵はスマートフォンを見ながら、今度ははっきり笑った。


「そうだ、真鶴に行こう」


 決めたら準備は早かった。小さな旅行バッグを取り出し、下着と着替え、カーディガン、日焼け止め、財布を入れる。化粧ポーチを入れようとして、十年前の旅館の歯ブラシが一本出てきた。葵はそれを見て、思わず吹き出した。物を捨てる暇もないほど忙しかったのだと、今になって気づいた。


 玄関へ向かう前に、葵は収納箱の前で足を止めた。箱の中には、十年間書き続けた介護日誌が入っている。節子が脳梗塞で倒れた日、重雄が夜中に家を出た日、病院へ付き添った日、介護用品を購入した日。そして、圭介へ手伝いを頼んだ日も書いてある。昨日、弁護士へ相談すると言ったことを思い出し、葵は箱の蓋に手を置いた。


「これは、帰ってからでいい」


 今日は戦う日ではない。戦うための準備をする前に、十年間頑張った自分に一日くらい休みを与えてもいい。葵は収納箱をそのままにして、玄関へ向かった。


 リビングを覗くと、圭介はソファに寝転がってスマートフォンを見ていた。昨夜のビール缶がテーブルに一本残っている。葵はいつもの癖で片づけようとしたが、手を伸ばしたところで止めた。十年間なら何も考えずに拾っていた。今日はそのままにしておく。


「私、出かけてくるね」


「どこへ?」


 圭介が顔を上げた。


「真鶴」


「真鶴?」


「うん」


「何しに?」


「伊勢海老を食べに」


 圭介は数秒黙ったあと、眉をひそめた。


「一人で?」


「一人で」


「昨日、あんな話をしたばかりなのに?」


「だからだよ」


「だからって、普通はそんな気分にならないだろ」


 葵は玄関で白いスニーカーの紐を結んだ。昔なら圭介の機嫌を気にして、外出をやめていたかもしれない。でも今日は、結び目をきゅっと締めてから立ち上がった。


「私は、伊勢海老が食べたいの」


「……何だよ、それ」


「昨日まで十年間、食べたいものも後回しにしてきたから」


 圭介は黙った。


「離婚の話は?」


「帰ってから考える」


「俺は早く決めたいんだけど」


「私は急がない」


 葵はドアノブに手をかけた。


「じゃあ、行ってきます」


「おい、葵!」


 呼び止める声が聞こえたが、葵は振り返らなかった。玄関のドアを開けると、八月の熱気が頬に当たった。蝉の声が大きく響き、近所の家から焼いたトーストの香ばしい匂いが流れてくる。葵はバッグを肩にかけ、駅へ向かって歩き出した。


 電車に乗ると、窓の外の景色が少しずつ変わっていった。住宅街が減り、緑が増え、やがて遠くに青い海が見えた。葵は窓へ顔を近づける。太陽を受けた海面がきらきらと光り、車内の冷房で冷えた腕に、なぜか潮風を想像した。


「海、久しぶりだな」


 介護生活の間にも、海へ行きたいと思ったことは何度もある。しかし、そのたびに「今は無理」と諦めてきた。義母の薬の時間、義父の通院、圭介の仕事、家の用事。何か一つでも予定があれば、自分の予定は後ろへ回した。そうしているうちに十年が過ぎた。


 真鶴駅に着くと、外は強い日差しだった。葵は日傘を開き、海へ向かって歩いた。潮の匂いが次第に濃くなり、港からは船のエンジン音が聞こえてくる。魚を焼く煙が風に乗って流れてきて、葵のお腹が小さく鳴った。


「これは早く食べないと」


 海沿いの料理店へ入ると、店員が笑顔で迎えてくれた。窓際の席へ案内され、葵はメニューを開く。そこには大きな文字で「伊勢海老のお造り・焼き物・味噌汁付き」と書かれていた。


「すみません。これをお願いします」


「伊勢海老ですね。少々お待ちください」


「はい。楽しみにしています」


 料理を待つ間、葵は窓の外を眺めた。海は青く、白い雲がゆっくり流れている。テーブルには冷たい麦茶が置かれ、氷がグラスの中で涼しげな音を立てた。葵はその音を聞きながら、昨夜の圭介の言葉を思い出した。


 お前、もう必要ないから。


 葵はグラスを両手で包み、しばらく海を見た。そして、ゆっくり息を吐いた。


「必要ない、か……」


 やがて料理が運ばれてきた。赤い殻の伊勢海老が皿の上に盛られ、透き通るような白い身が光っている。焼き物からは香ばしい匂いが立ち、味噌汁には濃厚な海老の旨味が溶け込んでいた。葵は箸で刺身を一切れ取り、醤油を少しだけつけて口へ運んだ。


「……おいしい」


 ぷりっとした食感のあとに、海の甘みが広がった。葵は急いで食べなかった。誰かの食事を手伝う必要もない。誰かの薬の時間を気にする必要もない。冷める前に食べていいし、自分が食べ終わるまで席を立たなくていい。


 焼き物を一口食べると、香ばしい殻の匂いと濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。葵は思わず目を閉じた。十年間、自分が何を食べたいのかさえ考えずに暮らしてきた。そのことに気づくと、胸の奥に何かが込み上げてきた。


 けれど、涙を拭う代わりに葵はもう一口食べた。


「十年間、よく頑張ったね、私」


 誰かに言ってもらうのを待つ必要はない。圭介が「おつかれー」と軽く言った十年間の終わりに、本当の意味で自分へ「おつかれー」と言ってやればいい。


 食事を終えた葵は、海岸まで歩いた。靴を脱いで砂浜に足を置くと、熱い砂が足の裏を包んだ。波が近づいてくると砂が冷たくなり、足首に触れた海水が気持ちよかった。葵はスカートの裾を少し持ち上げ、波から逃げるように一歩下がった。


「冷たっ」


 思わず笑った。


 その笑い声を聞いて、葵は自分が笑ったことに気づいた。昨日の夜から、初めて自然に出た笑いだった。海から吹いてくる風で髪が乱れ、頬に張りつく。葵はそれを手で払い、水平線を眺めた。


「夫が私を見捨てても……」


 言葉を続ける前に、一度海を見た。


「私は、私を見捨てない」


 スマートフォンを取り出し、帰りの電車を確認する。それから弁護士への相談予約について検索した。圭介が離婚を急いでいるなら、葵は急がない。十年間の介護日誌も、領収書も、通帳も、これから一つずつ確認する。


 ただし、今日はまだ休みだ。


 伊勢海老を食べて、海を見て、好きな服を着て、自分のために時間を使う。


 葵は日傘を開き、海沿いの道を歩き始めた。


「戦うのは、明日からでいい」


 十年間、誰かのために使ってきた時間を取り戻すための最初の一日。


 それが、葵にとっての本当の意味での「おつかれー」だった。


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