表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/14

第1話 「おつかれー、離婚しよう」

第1話 「おつかれー、離婚しよう」


 葬儀から戻ったのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。八月の夕方はまだ明るく、玄関を開けると、締め切った家の中に線香と白い菊の匂いが残っていた。葵は黒い喪服の上着を脱ぎ、汗で張りついたブラウスの襟元を指で少し緩めてから、玄関脇に置いた黒いバッグを見つめた。そのバッグには、義母の診察券やお薬手帳、介護保険証のコピーまで入っている。もう必要ないのだと思うと、肩に食い込んでいた重さが急に消えたような気がした。


 十年前、葵がこの家へ嫁いできた頃、義母の節子はまだ六十歳だった。背筋を伸ばして台所に立ち、朝食には焼き魚と味噌汁を用意し、近所の人と立ち話をするような元気な女性だった。義父の重雄も七十歳を過ぎてはいたが、まだ自分で車を運転して買い物へ行っていた。葵は、まさかこの家で十年もの間、介護をすることになるとは思っていなかった。


 最初に変わったのは節子だった。脳梗塞で倒れてから右半身に麻痺が残り、以前のように包丁を握れなくなった。その後、少しずつ認知症も進み、同じ質問を何度も繰り返すようになった。最後の数年には、自分で食事をすることも難しくなり、葵がスプーンで一口ずつ口元まで運び、夜中に何度も起きて着替えを手伝った。重雄も認知症を患い、夜中に家を出ようとしたことがある。葵が真冬の午前二時に近所を走り回って夫を探した日もあった。


 そのたびに圭介へ電話をした。


「圭介、お父さんがいないの。探すのを手伝って」


「今、仕事が忙しいんだよ。近所を見てくればいいだろ」


「でも、外は寒いし……」


「葵ならできるだろ。頼むよ」


 電話はいつもそこで終わった。圭介が手伝ってくれた記憶は、葵の中では数えるほどしかない。それでも葵は、夫にも仕事があるのだから仕方がないと思っていた。自分は家にいるのだから、できることをするしかない。そう考えて、翌朝になれば何事もなかったように朝食を作り、圭介のワイシャツにアイロンをかけた。


 洗面所へ入り、葵は顔を洗った。冷たい水が頬を流れ、首筋へ落ちていく。鏡を見ると、三十八歳の自分の顔には目の下に濃い影ができていた。喪服の襟には汗が染み、髪も朝から何度も結び直したせいで乱れている。葵はタオルで顔を押さえながら、ようやく今日という日が終わったのだと実感した。


「お母さん、終わったんだね」


 小さく呟いてから、葵は台所へ向かった。朝、葬儀へ出る前に冷蔵庫へ入れておいた味噌汁を鍋から取り出し、火にかける。冷蔵庫には昨夜の煮物と、節子が最後まで好きだった梅干しが残っていた。冷蔵庫の扉には、以前なら病院の予定や介護サービスの訪問日を書いた紙が何枚も貼ってあったが、今はもう必要な予定がない。


 葵はそのことに気づいて、手を止めた。


「そうか……明日は病院じゃないんだ」


 それだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなった。明日の朝は五時に起きなくてもいい。義母の体温を測る必要もない。薬を一錠ずつ小さなケースに並べる必要もない。夜中に物音がしたとき、急いで廊下へ飛び出す必要もない。


 葵は冷蔵庫から鮭の切り身を取り出し、電子レンジへ入れた。炊飯器には朝炊いたご飯が二人分残っている。味噌汁が温まるにつれて、だしと味噌の匂いが台所に広がった。朝から何も食べていなかった葵のお腹が、ぐう、と小さく鳴る。


「そういえば、朝から何も食べてなかった」


 葵は自分で言って、少し笑った。十年間、家族の食事を優先することが当たり前になっていた。義母が食べやすい柔らかいものを作り、義父には塩分を控え、圭介には普通の味付けをする。自分の食事は、みんなが食べ終わった後に残り物を温める。それが葵の生活だった。


 電子レンジが鳴った。鮭を皿に乗せ、炊飯器からご飯をよそう。葵はベージュ色のブラウスと紺色のロングスカートに着替え、髪を一つに束ねた。久しぶりに自分の好きな服を着た気がした。


 リビングへ行くと、圭介はすでに帰っていた。白いワイシャツの袖を肘までまくり、ネクタイを外してソファに座っている。テーブルにはコンビニで買った唐揚げとポテトサラダ、それから缶ビールが三本並んでいた。テレビでは野球中継が流れていて、実況アナウンサーの大きな声が静かな部屋に響いていた。


「おかえり」


 葵が声をかけると、圭介はテレビから目を離さずに片手を上げた。


「おう。今日は疲れたな」


「うん」


「親戚、結構来てたな」


「そうだね」


 葵は自分の茶碗をテーブルへ置いた。圭介の前には唐揚げが四個残っている。葵が箸を伸ばしかけると、圭介がパックを自分のほうへ引き寄せた。


「それ、俺のだから」


「……ごめん」


 葵は箸を戻し、鮭を一口食べた。少し冷めていたが、塩気がちょうどよかった。圭介は唐揚げを頬張りながら、ビールを飲んでいる。


「お前、今日は何時に寝るの?」


「うーん。できれば早く寝たいかな」


「まだ片づけとかあるだろ」


「香典返しの整理は明日にする。今日はもう無理」


「そう」


 圭介は興味がなさそうに答えた。


 それでも葵の頭の中には、小さな期待があった。介護が終わった。これからは、夫婦二人の生活になる。今までできなかったことを少しずつ取り戻せるかもしれない。朝寝坊をして、近所の喫茶店でモーニングを食べる。圭介と二人で温泉旅行へ行く。結婚したばかりの頃に行った箱根へ、もう一度行ってみる。


「ねえ、圭介」


「ん?」


「介護も終わったし、少し落ち着いたら旅行に行かない?」


 圭介は缶ビールを持ったまま、葵を見た。


「旅行?」


「うん。箱根とか。昔、一緒に行ったでしょう?」


「……ああ」


「私、あの旅館好きだったな。朝ご飯がおいしくて」


 葵が笑うと、圭介も口元を緩めた。


「そうだな」


 その返事に、葵の胸に久しぶりの明るいものが灯った。もしかしたら、これから夫婦としてやり直せるのかもしれない。介護で疲れていた十年間を取り戻すことはできなくても、これから先の時間なら二人で作り直せる。


 圭介はビールを一口飲み、缶をテーブルへ置いた。それから妙に機嫌のいい顔で、葵へ向かって缶を掲げた。


「葵」


「なに?」


「おつかれー」


「……うん」


「十年間、よくやってくれたよな。親父もお袋も、お前がいて助かったと思うよ」


 葵は箸を止めた。圭介からそんな言葉を聞いたのは久しぶりだった。今日まで何度も「私ばかり」と思ったことはあった。それでも、最後に夫から労ってもらえるのなら、十年間の苦労も少しは報われるような気がした。


「ありがとう」


 葵が答えると、圭介は唐揚げを一つ取った。


「だからさ」


「うん?」


「もう離婚しよう」


 唐揚げの衣が、圭介の指先からテーブルへ落ちた。葵はその小さな欠片を見つめたまま、しばらく動けなかった。テレビでは野球の歓声が上がっている。エアコンの風でカーテンが揺れ、窓際に置いた葬儀の返礼品の紙袋が、かさりと音を立てた。


「……え?」


「だから、離婚。もう親の介護も終わっただろ」


 圭介は唐揚げを口へ入れ、ビールで流し込んだ。葵の反応を待っているというより、すでに話が決まっているような顔だった。


「どうして……今なの?」


「今だからだよ。俺も自由になりたいんだ」


「自由って……」


「お互い自由になればいいじゃん」


「私たち、これから二人で暮らすんじゃないの?」


「なんで?」


 その一言に、葵の指が茶碗の縁で止まった。


「だって……お父さんもお母さんも亡くなって、介護も終わったから」


「だからだよ」


 圭介はソファの背もたれに体を預けた。


「俺はもう、自分の人生を生きたいんだよ」


「自分の人生って……」


「お前も好きに生きればいいだろ」


「私は……今まで好きに生きてきたつもりはないよ」


 葵の声は小さかった。圭介は聞こえなかったふりをして、テレビのリモコンを手に取った。


「それに、この家は俺の親の家だからな。お前には関係ない」


「私も十年間ここで暮らしてきたよ」


「だから何?」


 圭介は眉をひそめた。


「慰謝料とか財産分与とか、変なこと言うなよ。俺は一円も払うつもりないから」


 葵は圭介の顔を見つめた。夫の言葉が一つずつ、頭の中へ沈んでいく。家事をしてきたことも、介護をしてきたことも、夜中に何度も起きたことも、病院へ付き添ったことも、圭介には最初から「妻がやるもの」として処理されていた。


「……誰かいるの?」


 葵が尋ねると、圭介の手が止まった。


「は?」


「離婚したい理由。ほかに女性がいるの?」


「何言ってんだよ」


「最近、帰りが遅かったでしょう」


「仕事だよ」


「休日にも会社から電話が来てた」


「営業なんだから仕方ないだろ」


「女の人と食事してたって話も聞いた」


 圭介は舌打ちをした。


「会社の付き合いだよ。いちいち疑うなよ」


「……そう」


 葵はそれ以上聞かなかった。けれど、圭介の右手が無意識にビール缶を何度も回していることに気づいた。結婚して十年、葵は夫の癖をいくつも知っている。嘘をついているとき、圭介は決まって指先で何かをいじる。


 圭介は立ち上がり、キッチンへ向かう葵の背中へ声を投げた。


「とにかく、早く離婚届にサインしてくれよ」


「……」


「俺だって新しい生活を始めたいんだ」


 葵の足が止まった。


「新しい生活?」


「そうだよ」


「誰と?」


「お前には関係ないだろ」


「私には、関係ないんだ」


「もう夫婦じゃなくなるんだからな」


 圭介は冷蔵庫から新しいビールを取り出した。プルタブを開ける音が、妙に大きく聞こえた。


「お前、もう必要ないから」


 葵は振り返った。


 十年間、毎日見てきた夫の顔だった。朝、ワイシャツの襟を直したこともある。熱を出したときには薬を買いに走った。仕事で帰りが遅い日は、夕食を温め直して待っていた。義父母の介護で眠れない夜にも、圭介の弁当だけは作った。


 なのに今、圭介はその十年間を「必要だったか、必要でなかったか」という一言で片づけようとしている。


 葵は目を伏せた。頬を一筋の涙が伝ったが、手の甲で拭った。泣いているところを圭介に見られたくなかった。葵は流しへ茶碗を運び、水を出して洗い始めた。蛇口から流れる水の音に紛れて、呼吸を整える。


「……わかりました」


 圭介が振り返った。


「じゃあ、サインしてくれるんだな?」


「離婚すること自体は、話し合います」


「なんだよ、それ」


「でも、条件はこれから決めます」


「条件?」


「はい」


 葵は濡れた手を布巾で拭いた。それからリビングの隅に置かれた古い収納箱へ目を向ける。


 その箱の中には、十年間書き続けた介護日誌が入っている。


 義母が脳梗塞で倒れた日。


 義父が夜中に徘徊した日。


 病院へ付き添った日。


 介護用品を買った日。


 圭介へ手伝いを頼んだ日。


 そして、圭介から「お前がやればいい」と言われた日。


 領収書も、通院記録も、夫とのメッセージも残してある。


 葵は収納箱を見つめたまま、静かに口を開いた。


「離婚については、弁護士さんを通してください」


 圭介の顔から笑みが消えた。


「……弁護士?」


「はい」


「お前、弁護士なんか雇うのか?」


「これから相談します」


「何をするつもりだよ」


 葵は答えなかった。


 ただ、収納箱の中にある十年間の記録を思い浮かべていた。


 夫は、自分が何も持っていないと思っている。


 十年間、何も残してこなかったと思っている。


 けれど葵には、忘れたくても忘れられなかった毎日がある。


 そして、その毎日を書き留めた記録がある。


 圭介が「おつかれー」と笑った夜。


 葵はまだ、自分の人生を終わらせるつもりなどなかった。


 むしろこの日から、十年間止まっていた人生を取り戻すための準備が始まった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ