第10話 夫の「理想の人生」が崩れていく
第10話 夫の「理想の人生」が崩れていく
月曜日の朝、圭介はいつものように濃紺のスーツに袖を通した。白いワイシャツの襟を整え、鏡の前でネクタイを結びながら、今日は重要な営業会議があることを思い出したが、胸の奥には先週から消えない重たいものが残っていた。テーブルの上にはコンビニで買ったサンドイッチが置かれているものの、袋を開ける気になれず、コーヒーだけを飲んで家を出た。玄関の鍵を閉めるとき、以前なら葵が「いってらっしゃい」と声をかけていたことに気づいたが、今は返事をする相手もいない。
会社へ着くと、営業部の空気がいつもと違っていた。自分がフロアへ入った瞬間、近くにいた部下たちの会話が途切れ、何人かがパソコンの画面へ視線を落とした。圭介は気にしないふりをして自分の席へ向かったが、机の上には人事部からの呼び出し通知が置かれていた。封筒を開ける指先が固くなり、紙を取り出した瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。
「人事部……?」
圭介は椅子に座り、通知を読み返した。午後二時、人事部応接室。理由について詳しい記載はない。けれど圭介には分かっていた。葵との離婚協議だけなら、会社には関係のない家庭の問題で終わるはずだった。しかし美香は自分の直属の部下だ。しかも、二人が勤務時間中に私的なメッセージを何度も交わしていたことまで、会社側に把握されている可能性があった。
「課長、これ、午後の会議なんですけど……」
部下の一人が資料を差し出した。圭介は受け取ったものの、文字が頭に入らない。
「ああ、分かった。あとで見る」
「……はい」
部下はそれだけ言って離れていった。以前なら、課長として周囲から一目置かれていることが心地よかった。会議では部下が自分の指示を待ち、取引先では名刺を差し出すだけで相手の態度が変わった。その立場を、圭介は自分自身の実力だと思っていた。だが今、誰も目を合わせないという事実だけが、妙に鮮明だった。
昼休みになっても、圭介は食堂へ行かなかった。机の引き出しから朝のサンドイッチを取り出し、包装を開ける。卵サンドのマヨネーズの匂いが鼻につき、一口食べたところで喉につかえた。以前なら葵が作った弁当を持ってきていた。卵焼きには少し甘みがあり、野菜も必ず入っていたが、その弁当を「専業主婦なら当然」と考えていた自分を思い出して、圭介は残ったサンドイッチを包み直した。
「何で、こんなことになったんだ……」
午後二時、人事部の応接室には人事部長と担当者が待っていた。机の上には数枚の書類が並べられている。圭介が椅子に座ると、人事部長は淡々と説明を始めた。水野美香との私的な交際について、社内規定に照らして事実確認を行ったこと、直属の部下との関係であること、さらに勤務時間中の私的な連絡が多数確認されたことなどが、一つずつ読み上げられていく。
「立花さん。会社としては、今回の件を看過できません」
「待ってください。これは夫婦の問題ですよ」
「奥様との離婚についてだけなら、会社が介入する話ではありません」
人事部長は書類を一枚めくった。
「しかし、お相手が直属の部下であること、勤務時間中に業務と関係のない連絡を繰り返していたことについては、社内規定上の問題があります」
「でも、仕事の成績は落としていません!」
「それは別の問題です」
「俺は会社に損害を出していない!」
圭介の声が大きくなる。人事部長は表情を変えなかった。
「管理職には、一般社員以上の責任が求められます。今回の件を踏まえ、管理職としての職務を継続させることは適切ではないと判断しました」
「……どういう意味ですか?」
「課長職を解きます」
その言葉を聞いた瞬間、圭介は椅子の背にもたれた。耳の奥で空調の音だけが大きく聞こえる。人事部長は続けて、配置転換について説明したが、圭介には細かな内容が頭に入らなかった。ただ「課長ではなくなる」という一言だけが残った。
「俺は何も悪いことをしていない!」
圭介は立ち上がった。
「立花さん、落ち着いてください」
「仕事はちゃんとやってきた! 営業成績だって――」
「仕事の成績だけで判断しているわけではありません」
圭介は拳を握った。何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。応接室を出ると、廊下を歩く社員たちが一瞬こちらを見る。誰も声をかけなかった。圭介は自分の机へ戻ったが、そこに置かれた「課長」のネームプレートが、急に他人の物のように見えた。
夕方、美香から電話が入った。圭介は人の少ない階段の踊り場へ移動してから電話に出る。美香は会社で何か聞いたらしく、いつものような甘えた声ではなかった。
「圭介さん、課長を外されるって本当?」
「……誰から聞いた?」
「みんな知ってるよ」
「まだ正式には何も決まってない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どうして人事に呼ばれたの?」
圭介は答えられなかった。階段の窓から夕日が差し込み、床に長い影が伸びている。美香との関係が会社に知られたことで、これまで自分が守られていたものが一気に崩れ始めていた。
「私、どうすればいいの?」
「どうするって……」
「離婚したら一緒に暮らすって言ったよね?」
「ああ」
「でも課長じゃなくなったら、給料も変わるんでしょ?」
「……多少は」
「多少って、どれくらい?」
圭介は黙った。
「圭介さん。私たち、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「俺が何とかする」
「その『何とかする』って、何?」
電話の向こうで美香が息を吐いた。
「私、ちゃんとした生活がしたいの。将来のことを考えて付き合ってたんだから」
「分かってるよ」
「本当に分かってる?」
通話が終わった。圭介はスマートフォンを耳から離し、階段の手すりへ手を置いた。冷たい金属の感触が掌に伝わってくる。これまでなら、妻と別れれば美香と新しい生活を始められると思っていた。ところが今は、離婚すれば終わりではなく、その先の生活費や慰謝料、財産分与まで考えなければならない。
その夜、圭介は一人で帰宅した。冷蔵庫を開けると、葵がいた頃に買い置きされていた調味料が並んでいる。醤油、みりん、味噌、だしの袋。どれも葵がいつも同じ場所へ置いていたものだった。圭介はインスタントの味噌汁を作り、冷凍ご飯を温めた。味噌汁を一口飲んで、眉をしかめる。以前は味が薄いだの濃いだの文句を言っていたが、葵は黙って自分の好みに合わせていた。
「……俺、何をしてたんだ」
返事はない。テレビをつけても内容が頭に入らず、圭介はリモコンをテーブルへ置いた。ふと壁を見ると、介護用ベッドが置かれていた場所だけ、床の色が少し違っている。義母が亡くなったあと、葵は何度もその部屋を掃除していた。圭介はその作業を見ても、何も手伝わなかった。
葵がいなくなってから、家の中には細かな不便が増えた。洗濯物を干す場所が分からず、ゴミの日を間違え、トイレットペーパーを切らしてから買いに行く。朝食を作る時間もなくなり、シャツのアイロンも自分でかけるしかない。そんなことは大した問題ではないと思っていたはずなのに、一つ一つ積み重なると、以前の生活がどれほど葵に支えられていたのかが見えてきた。
その頃、葵は新しい部屋の窓辺でコーヒーを飲んでいた。小さなテーブルには新しく買ったマグカップが一つだけ置かれている。薄桃色のブラウスを着た葵は、家具店でもらったカタログを眺めながら、次に買う小さな本棚の置き場所を考えていた。スマートフォンには佐伯弁護士からの連絡が入っていたが、葵は慌てず、コーヒーを飲み終えてから返信した。
「少しずつでいい。私の暮らしを作っていこう」
十年間、葵が選んできたものは、義父母が使いやすいか、圭介が困らないかという基準で決まっていた。今は違う。カーテンの色も、椅子の高さも、布団の硬さも、自分が気に入るかどうかで決めていい。窓から入る夜風にカーテンが揺れ、洗いたてのシーツから柔らかな洗剤の匂いがした。
葵は明日の予定を書き込むため、新しい手帳を開いた。そこには「家具の配送」「弁護士打ち合わせ」「銀行」と書かれている。最後に小さく、「好きなケーキを買う」と書き足した。ペンを置いたあと、葵は自分で書いたその予定を見て、少しだけ口元を緩めた。
一方、圭介は誰もいないリビングで、課長時代にもらった表彰状を眺めていた。営業成績優秀者として名前が入った額縁だった。以前はそれを見るたび、自分は努力してここまで来たのだと思っていた。しかし今になって、その裏側にあったものを考えるようになった。仕事から帰れば食事があり、シャツは洗われ、親の介護を任せられる人がいて、自分は翌日の仕事だけを考えればよかった。
「俺が頑張ったからだろ……」
そう呟いたものの、声には以前の勢いがなかった。圭介は額縁を棚へ戻した。自分の実力だけで築いたと思っていた生活の土台には、葵が十年間積み重ねてきた時間があった。その事実に気づいたときには、もう葵はその家にはいなかった。
スマートフォンがまた震えた。美香からだった。
『明日、会える?』
圭介は画面を見つめたまま、しばらく返信できなかった。これまでなら「もちろん」と即答していた。けれど今は、美香との未来を想像するだけで、家賃や慰謝料や減った給料の数字が頭に浮かぶ。
圭介はスマートフォンを伏せた。
そして初めて、自分が失ったものの大きさを考え始めた。




