第11話 「私はあなたの老後の世話をするために付き合ったんじゃない」
第11話 「私はあなたの老後の世話をするために付き合ったんじゃない」
圭介の生活は、少しずつではなく、目に見える形で崩れていた。課長職を外されてから給料は下がり、会社では以前のように部下が頭を下げることもなくなった。朝、目を覚ましても葵の姿はなく、台所には昨夜食べたコンビニ弁当の空き容器がそのまま置かれている。冷蔵庫を開けても、卵が二個と賞味期限の近い牛乳、それから葵が買い置きしていた味噌しかない。圭介はため息をつきながら、牛乳をコップに注いだ。
「……俺は、こんな生活をするために離婚したかったんじゃない」
自分で口にしてから、圭介は冷蔵庫の扉を閉めた。以前なら、朝食の時間には焼いた魚の匂いや味噌汁の湯気が台所に漂っていたし、ワイシャツも洗濯され、ハンカチまできちんとアイロンがかかっていた。葵がやっていたことを一つずつ思い出すと、それは「専業主婦だから当然」の一言で片づけられる量ではなかった。だが、今さらそのことを考えても、葵は戻ってこない。
その日の夕方、圭介は美香と駅前の喫茶店で待ち合わせた。以前なら美香は笑顔で手を振り、圭介の隣に座ると楽しそうに仕事の愚痴を話していたが、この日はテーブルを一つ挟んで座った。美香はベージュのコートを脱ぎ、細い指でカップの縁をなぞっている。運ばれてきたカフェラテにはきれいな泡が浮かんでいたが、美香は一口も飲もうとしなかった。
「圭介さん、私、もう無理」
「何が?」
「何がって、全部だよ」
圭介は眉を寄せた。まだ自分たちは付き合っているのだから、少しくらい揉めることはあると思っていた。しかし美香の顔には、以前のように圭介を頼る様子がない。むしろ、これから面倒な荷物を置いて帰ろうとしている人のような表情をしていた。
「離婚が成立したら、一緒に暮らすんじゃなかったのか?」
「そう聞いてたよ」
「だったら、もう少し待てばいいだろ」
「待つ?」
美香はそこで初めてカフェラテに口をつけた。ぬるくなった泡をスプーンでかき混ぜながら、しばらく黙っている。店内には食器の触れ合う音とコーヒー豆の香りが漂っていたが、二人のテーブルだけは妙に空気が重かった。
「私、そんな生活したくない」
「どんな生活だよ」
「お金が減って、課長じゃなくなって、慰謝料を払って、それであなたと二人で生活するんでしょ?」
「俺が働けば何とかなる」
「前は課長だったから何とかなるって言ってたよね」
圭介の手が止まった。美香はバッグからスマートフォンを取り出し、画面を見ながら話を続けた。
「それに、あなたと結婚したら、次は私があなたの面倒を見ることになるんでしょ?」
「そんなことになるわけないだろ」
「どうして?」
「俺はまだ四十だぞ」
「今はね」
美香は淡々と答えた。圭介は言葉を失った。美香は二十六歳で、これから結婚や仕事、旅行や趣味など、自分のために使いたい時間がいくらでもある。そんな彼女からすれば、四十歳の圭介との結婚は、これから先の人生を考えれば簡単な話ではない。
「奥さんには十年間、親の介護をさせたんでしょう?」
「それは……葵が専業主婦だったから」
「だったら、次は私の番じゃない」
その一言が、テーブルの上に落ちた。圭介は何か言い返そうとしたが、声にならなかった。美香は財布を取り出し、自分が飲んだカフェラテの代金だけをテーブルに置いた。
「待てよ、美香」
「もう待たない」
「俺はお前のために離婚するんだぞ」
「違うよ」
美香はコートを羽織りながら、静かに首を振った。
「あなたは、自分が自由になりたかっただけでしょ」
圭介は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、近くの客がちらりとこちらを見る。しかし美香は振り返らなかった。ガラス扉が閉まり、冷たい外気が一瞬だけ店内へ入り込む。圭介はその場に立ったまま、テーブルに残された自分のコーヒーを見つめていた。
帰宅すると、部屋は昼間よりさらに広く感じられた。以前は義母の介護用品や薬、洗濯物、圭介の仕事道具などで物が多かったが、葵が出てからは妙にがらんとしている。リビングの隅には、葵が置いていった古い鉢植えが一つだけ残っていた。圭介は水をやろうとしたが、どれくらいの量をやればいいのか分からず、結局コップ半分の水を土に落とした。
「葵なら、知ってるんだろうな……」
その言葉が出た瞬間、圭介はスマートフォンを取り出した。葵の名前を画面に表示すると、これまで何度も電話をかけていたことに気づく。だが、葵から返事が来ることはほとんどなかった。圭介はしばらく迷ったあと、メッセージを打ち始めた。
『葵、話したい』
送信する。
既読はつかなかった。
圭介はソファに座り、テレビをつけた。画面では料理番組が流れていて、フライパンで焼かれたハンバーグから肉汁が溢れている。以前なら葵がテレビを見ながら「今度これ作ってみようかな」と言っていた。圭介はその声を思い出し、急に喉が乾いた。冷蔵庫から水を取り出して飲んだが、冷たい水は胃のあたりを通り過ぎるだけだった。
しばらくしてスマートフォンが震えた。葵から返信が来たのだ。圭介は慌てて画面を開いた。短い文章だった。
『何でしょうか』
それだけだった。
圭介はすぐに返信を打った。
『俺たち、やり直せないかな』
送信してから、何度も画面を確認した。五分、十分、二十分と時間が過ぎる。やがて返信が届いた。圭介は指先を震わせながら開いた。
『もう、あなたの人生を支える役目は終わりました』
「葵……」
圭介は画面を見つめたまま動かなかった。そこには怒りの言葉も、恨みの言葉もなかった。ただ、十年間続けてきた役割を、葵自身の手で終わらせたことだけが伝わってきた。圭介は「ごめん」と打ち込んだが、その文字を消した。今さら何を謝ればいいのか、自分でも分からなかった。
その夜、圭介は一人で夕食を作ろうとした。炊飯器を開けると、残っていたご飯は茶碗一杯分しかない。冷蔵庫の野菜を適当に切り、フライパンで炒めたが、味付けを間違えて塩辛くなった。箸を置いたまま、圭介は台所の椅子に座った。
「……葵は、毎日これをやってたのか」
食事を作るだけではない。義父母の薬を確認し、夜中に起き、洗濯をして、掃除をして、病院へ連れて行き、親戚から電話が来れば対応する。そのうえで圭介の仕事の話まで聞いていた。圭介はそれを十年間、「妻なら普通」と思っていた。
スマートフォンの画面には、葵との古いメッセージが残っていた。
『今日はお義母さんの病院だから、帰りに薬局へ寄ります』
『夕飯、何がいい?』
『明日は早いから、起こさなくて大丈夫だよ』
圭介は一つずつ読み返した。どれも特別な言葉ではない。しかし、その一つ一つが、葵が自分の生活を支えていた証拠だった。自分はその支えを当然のものとして受け取り、なくなって初めて、その重さを知った。
一方、葵は新しい部屋で夕食を終えていた。小さなテーブルには鮭のおにぎりと野菜スープ、それから昼間に買ったプリンが置かれている。葵はプリンの蓋を開け、スプーンを入れた。甘いカラメルの香りが鼻に届き、口の中に柔らかな甘さが広がる。
「おいしい……」
誰かのためではなく、自分が食べたいと思って買ったプリンだった。葵はゆっくり食べながら、明日の予定を考えた。午前中は佐伯弁護士との打ち合わせ、午後は家具店へ行く。新しい部屋にはまだ段ボールが三つ残っているが、急ぐ必要はない。
スマートフォンをテーブルの端へ置くと、圭介からのメッセージが目に入った。葵は一度だけ画面を確認し、それから電源を伏せた。もう返信する言葉はない。十年間、葵は圭介や義父母の予定を優先してきた。これからは、自分が何を食べたいのか、どこへ行きたいのか、何時に眠りたいのかを、自分で決めていい。
葵はプリンを最後の一口まで食べ、空になった容器を台所へ運んだ。蛇口から流れる水の音を聞きながら、明日はどんなカーテンにしようかと考える。窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえていた。
「私の人生は、私が決める」
葵はそう言って、明日のために新しい手帳を閉じた。




