第12話 美香への慰謝料請求
第12話 美香への慰謝料請求
佐伯弁護士の事務所を訪れた朝、葵は淡い水色のブラウスに紺色のスカートを合わせていた。十年前なら、この時間には義母の薬を用意し、義父の朝食を作り、洗濯機を回していただろうが、今は自分のために淹れた紅茶を飲んでから家を出てきた。駅前のパン屋から焼きたてのバターの香りが流れてきたので、葵は足を止め、チーズの入った小さなパンを一つ買った。紙袋を手に持ったまま法律事務所のドアを開けると、受付の女性が笑顔で頭を下げた。
「おはようございます、立花さん。佐伯がお待ちしております」
応接室に入ると、佐伯はすでに資料を机の上へ並べていた。葵が椅子に座ると、佐伯は分厚いファイルを開き、圭介と美香の関係を裏づける資料を一枚ずつ確認していく。メッセージの履歴、二人が食事をしている写真、圭介が美香へ送った言葉、そして美香自身が圭介の結婚を知っていたことを示すやり取りまで揃っていた。葵は買ってきたパンの袋を膝の上に置きながら、写真の中で笑っている二人を静かに見つめた。
「先生……この人にも、請求するんですか?」
「状況を整理したうえで、請求を検討します」
佐伯は感情を交えずに答えた。相手が誰であろうと、証拠がなければ話は進まないし、逆に事実を裏づける資料が揃っていれば、必要な手続きを取ることができる。葵は十年間、介護日誌を書き続けてきた。毎日の出来事を忘れないためだったが、今では自分が何を背負っていたのかを示す記録になっている。そして今回、美香との不貞関係についても、感情ではなく事実として整理する必要があった。
「美香さんは、圭介さんが既婚者だと知っていたんでしょうか」
「はい。そこはかなり重要です」
佐伯が一枚のプリントを差し出した。そこには圭介から美香へ送られたメッセージが印刷されていた。「妻とはもうすぐ別れる」「親の介護が終わったら離婚する」「家を出てもらえば自由になれる」といった言葉が並んでいる。そのやり取りに対して、美香も「早く一緒に暮らしたい」「奥さんがいなくなったら旅行に行こう」と返信していた。
葵は紙を持つ指先に力を入れた。美香は自分の存在を知らなかったのではない。葵という妻がいることを知ったうえで、圭介の言葉を信じ、離婚を待っていた。そこまで分かると、十年間の出来事が別の角度から見えてくる。圭介が「親の介護が終われば自由になれる」と考えていたのなら、葵にとっては十年間の介護生活そのものが、夫から捨てられるまでの待ち時間にされていたことになる。
「……この人は、私が介護している間も、私が知らないところで未来の話をしていたんですね」
「そう考えるだけの資料はあります。ただ、ここでも重要なのは感情ではなく証拠です」
佐伯の言葉に、葵は小さくうなずいた。以前なら、こんな話を聞けば声を荒らげていたかもしれない。けれど今は違う。十年間の記録を一つずつファイルへ綴じていく作業をしていると、自分の人生を誰かに説明できる形へ戻しているような気持ちになった。葵は膝の上のパンを取り出し、一口かじった。チーズの塩気と焼きたての生地の香りが口に広がり、朝から何も食べていなかったことに気づく。
「先生、食べてもいいですか?」
「もちろんです。むしろ、ちゃんと食べてください」
佐伯が少し笑った。葵もつられて笑った。十年間、食事さえ義父母の都合に合わせていた。熱いうちに食べられないことも多く、冷めた味噌汁を立ったまま飲む日も珍しくなかった。それを思えば、今、自分の好きな時間に買ったパンを自分のペースで食べられることは、小さなことのようでいて大きな変化だった。
その頃、美香は会社近くのカフェで一人、スマートフォンを眺めていた。圭介から「少し待ってほしい」と何度も連絡が来ているが、美香は既読をつけても返事をしなかった。テーブルの上にはアイスコーヒーとサンドイッチが置かれているものの、サンドイッチのレタスは時間が経ってしんなりしている。美香はストローを指で何度も回しながら、圭介と付き合い始めた頃のことを思い返していた。
「課長なら、もっと余裕のある生活ができると思ってたのに……」
美香にとって圭介は、会社で頼りになる上司だった。高い店で食事を奢ってくれ、仕事の相談にも乗ってくれた。妻とはうまくいっていない、介護が終われば離婚する、そう言われれば、いずれ自分が圭介の隣に立つものだと思っていた。しかし現実には、課長職を外され、離婚条件については弁護士が入り、慰謝料や財産分与の話まで出ている。自分が思い描いていた未来とは、ずいぶん違っていた。
そこへ郵便配達員が店の前を通り過ぎた。美香は何気なく窓の外を見たが、その直後、スマートフォンが震えた。知らない番号からの着信だった。美香は一瞬ためらったあと、電話に出る。
「はい……」
「水野美香さんのお電話でしょうか」
「はい、そうです」
「私、佐伯法律事務所の佐伯と申します」
美香の顔から血の気が引いた。店内では隣の席の女性が楽しそうに笑っている。コーヒーマシンの音も、食器の触れ合う音も、さっきまでと変わらない。それなのに、美香には自分の周囲だけ時間が止まったように感じられた。
「……何のご用件でしょうか」
「立花葵さんの代理人として、確認したいことがございます」
「私、何もしてません」
「まずはお話を聞いていただけますか」
電話を切ったあと、美香はしばらく動けなかった。やがてスマートフォンにメッセージが届く。佐伯法律事務所からの正式な書面についての連絡だった。美香は慌てて圭介へ電話をかけたが、何度呼び出しても出ない。
「圭介さん……どういうことなの?」
その日の夜、圭介のスマートフォンには美香から何件もの着信が残っていた。圭介は自宅のソファに座り、ネクタイを外したまま画面を眺めていた。テーブルにはスーパーで買った弁当が置かれているが、蓋を開ける気にもならない。ようやく電話をかけ直すと、美香は開口一番に尋ねた。
「弁護士から連絡が来たんだけど!」
「……俺にも関係することだ」
「何で私にまで来るの?」
「葵が本気でやってるんだろ」
「私はあなたが、もうすぐ離婚するって言ったから付き合ったのよ!」
「分かってる」
「分かってない!」
電話の向こうで美香の声が震えた。圭介は何も言えなかった。自分なら何とかできると思っていた。葵は泣いて謝れば戻ってくると思っていたし、美香も離婚が成立すれば自分についてくると思っていた。しかし、どちらも自分の思い通りにはならなかった。
一方、葵は佐伯から届いた書類を確認していた。美香への慰謝料請求については、証拠を整理したうえで適切な金額を検討し、必要な手続きを進めることになっている。葵は机の上に十年間の介護日誌を置き、その隣に不倫関係を示す資料を並べた。二つの記録はまったく違うものなのに、並べてみると一本の線でつながっているように見えた。
十年間、自分は家族のために時間を使ってきた。その間に夫は別の女性との未来を考えていた。だからこそ、葵はもう、自分の時間を誰かに勝手に使わせるつもりはなかった。
「私は、私の人生を取り戻します」
葵は書類を封筒に戻した。窓の外では雨が降り始め、ベランダに干していた洗濯物を慌てて取り込む。白いシャツを一枚ずつ畳みながら、葵は明日の予定を考えた。明日は佐伯との打ち合わせがある。その帰りには、以前から気になっていた小さな洋菓子店へ寄るつもりだった。
十年間、誰かのために我慢してきたのだから、これからは自分のために一つずつ選んでいけばいい。美香への請求も、その一つだった。誰かを憎むためではない。自分の人生を踏みにじった行為について、きちんと責任を問うためだった。
葵は洗濯物の最後の一枚を畳み、クローゼットへしまった。そして机の上の書類を確認してから、温かい紅茶を淹れた。蜂蜜を少し入れると、甘い香りが湯気と一緒に立ち上る。
「さて、きっちり清算してもらいましょう」
葵はそう言って、静かにカップへ口をつけた。




