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第13話 十年間の記録が、すべてを語る

第13話 十年間の記録が、すべてを語る


 離婚調停の日は、朝から細かな雨が降っていた。葵は薄いグレーのブラウスに黒いパンツを合わせ、髪を低い位置でまとめていたが、出かける前に鏡の前で襟元を何度も直した。十年前なら、この時間には義母の朝食を用意し、薬を一錠ずつ確認してから家を出ていただろう。けれど今日は違う。自分の予定だけを考えて家を出られることが、まだ少し不思議だった。


 玄関を出る前、葵は小さなトーストを一枚焼いた。バターを塗ると香ばしい匂いが部屋に広がり、焼き目のついた端をかじると、口の中に塩気と甘みが残った。食べ終わった皿を洗い、温かい紅茶を一杯だけ飲んでから、テーブルの上に置いていた書類のファイルをバッグへ入れる。十年間分の介護日誌は重かったが、葵は両手でしっかり持ち上げた。


「行ってきます」


 誰もいない部屋へ声をかけてから、葵はドアを閉めた。以前は「行ってきます」と言えば、奥の部屋から義母の呼ぶ声が返ってくることがあった。「葵さん、お水ちょうだい」「葵さん、薬はまだ?」そんな声に足を止めるのが当たり前だった。今日は雨音だけが聞こえていた。


 家庭裁判所の建物へ入ると、床に濡れた傘の水滴がいくつも落ちていた。葵は傘をたたみ、受付を済ませると、指定された待合室へ向かった。そこには圭介と代理人の姿があり、圭介は濃い紺色のスーツを着ていたが、以前のように背筋を伸ばしてはいなかった。葵と目が合うと、一瞬だけ顔を上げ、それからすぐに視線を逸らした。


「葵……」


 圭介が声をかけた。葵は立ち止まったものの、返事をする前に佐伯が隣へ来た。


「立花さん、こちらへどうぞ」


「はい」


 葵は佐伯と一緒に席へ着いた。佐伯はいつもと変わらず落ち着いていた。黒いスーツの胸ポケットには白いハンカチが入っていて、机の上には整理されたファイルが何冊も並んでいる。葵はそのファイルを見ながら、これまで自分が書いてきた記録が、今日ここで意味を持つのだと考えた。


 調停が始まると、圭介側から主張が出された。圭介の代理人は穏やかな声で話していたが、その内容を聞いているうちに、葵は膝の上で手を握った。十年間、自分が何をしてきたのかを知らない人が話しているように聞こえた。


「妻も介護について了承して結婚生活を送っていました」


 葵の指が少し動いた。了承したという言葉だけなら間違いではない。結婚当初、義父母との同居を受け入れたのは自分だった。しかし、それと十年間の介護を一人で背負うことは同じではない。


「家庭内では普通の夫婦でした。夫婦関係に重大な問題があったとは考えておりません」


 続けてそう言われたとき、葵は目の前の机を見た。木目の小さな傷が一本、横に伸びている。以前なら、そんな傷にも気づかなかっただろう。毎日やることが多すぎて、机の傷など見ている暇がなかったからだ。


 佐伯は静かに資料を取り出した。


「では、こちらをご確認ください」


 最初に提出されたのは、十年間の介護日誌だった。年月日、時間、義父母の体調、食事、排泄介助、通院、夜間の対応などが細かく記録されている。ページの端には何度も水がかかった跡があり、ところどころ文字が滲んでいた。それでも一日ごとの記録は途切れていない。


「これは、立花さんが十年間記録してきた介護日誌です」


 圭介側の代理人がページをめくる音が聞こえた。圭介は横から資料を見ていたが、次第に顔を上げられなくなっていった。そこには「午前二時、義母のトイレ介助」「午前四時、義父が徘徊」「夫に対応を頼んだが仕事を理由に断られた」といった記録が並んでいた。


「記録の信頼性については、他の資料とも照合しています」


 佐伯が次に出したのは、通院記録だった。病院の領収書、薬局の明細、介護用品の購入記録、交通費のメモまで整理されている。葵はその一枚一枚を見ながら、当時のことを思い出した。雨の日に義母を病院へ連れて行ったことも、真夏に紙おむつを買いに走ったことも、領収書の数字を見るだけで鮮明に浮かんでくる。


「これらは、すべて奥様が負担していたのですか?」


「はい。家計から出したものもありますが、私自身が立て替えた分もあります」


 葵は落ち着いて答えた。以前なら、こんな場所で自分の生活について説明するだけで声が震えていたかもしれない。しかし今日は違った。十年間の記録が、自分の代わりに話してくれている。


 続いて佐伯が提出したのは、圭介とのメッセージ履歴だった。画面のスクリーンショットには、葵が何度も介護への協力を頼んでいたことが残されている。


『今夜、お義父さんがまた歩き回ってる。少し見てもらえない?』


『無理。明日仕事だから』


『お義母さんの病院、付き添ってほしい』


『親のことなんだから、お前がやればいいだろ』


 佐伯が最後のメッセージを読み上げた。圭介は椅子の上で身体を動かした。


「これは……言い方が悪かっただけです」


「では、こちらはどうでしょう」


 次に提出されたのは録音データだった。佐伯が再生すると、圭介自身の声が室内に流れた。


『俺は仕事で忙しいんだよ』


『専業主婦なんだから、それくらいやれよ』


『親のことで俺を巻き込むな』


 録音が終わると、室内は静かになった。圭介は俯いたまま、手のひらを何度も握ったり開いたりしている。葵はその手を見ながら、かつてその手が自分の肩を抱いてくれることを待っていた時期があったことを思い出した。


「……こんな録音までしていたのか」


 圭介が小さく呟いた。


「あなたが言ったことを忘れないためです」


 葵はそれだけ答えた。


 そして最後に、不倫を裏づける資料が提出された。美香とのメッセージ、二人で食事をしている写真、圭介が「介護が終われば離婚する」と美香に伝えていた記録などが並べられていく。圭介側が「夫婦関係はすでに破綻していた」と主張していたことも、そのメッセージによって逆に苦しくなった。なぜなら、圭介は美香に対して、葵が介護を終えるまで離婚を待つという話をしていたからだ。


「このやり取りをご覧ください」


 佐伯が示した画面には、圭介の言葉が残っていた。


『もう少しだけ待ってくれ。親の介護が終われば、葵とは別れる』


 葵は画面を見た。自分が義母の最後の数日間、何度も夜中に起きていた頃、圭介は別の女性にそんなメッセージを送っていた。けれど今となっては、その事実を知ったことで自分の十年間がさらに汚れたとは思わなかった。むしろ、なぜ圭介が介護の終了を待っていたのか、その答えがはっきりした。


 佐伯はそこで、最後の封筒を取り出した。


「もう一つ、こちらをご提出します」


 葵はその封筒を見た瞬間、胸の奥が少し詰まった。そこに入っているのは、義母・節子が亡くなる直前に残した言葉を記録したものだった。葵は病室の白いカーテン、消毒液の匂い、細くなった節子の手を思い出した。あの日、節子はほとんど声が出なかった。それでも、葵の手を握って何度も口を動かしていた。


「あなたまで、私たちのせいで人生をなくしちゃ駄目よ」


 その言葉が読み上げられた瞬間、葵は唇を噛んだ。涙が一滴だけ頬を伝ったが、手で拭うことはしなかった。節子の最期の言葉は、葵を責めるためのものではなかった。十年間、自分たちのために時間を使わせてしまったことを、最後になって初めて理解した人の言葉だった。


 圭介は俯いたまま何も言わなかった。葵は隣にいる佐伯を見たあと、ゆっくり前を向いた。これまでなら、圭介に「どうして」と聞きたかったかもしれない。けれど今は、もう答えを聞く必要はなかった。


「私はもう、誰かの都合で自分の人生を決めたくありません」


 その言葉を口にすると、胸の奥に残っていたものが一つほどけたような気がした。圭介は顔を上げたが、葵とは目を合わせなかった。調停委員から離婚条件について確認が入り、財産分与、慰謝料などについて双方が合意できる内容が整理されていく。


「こちらの条件で合意されますか?」


 佐伯が葵に確認した。葵は資料を読み直した。十年間の生活を振り返れば、数字だけで測れるものではない。それでも、これからの人生を始めるためには、法に従って整理し、決着をつける必要がある。


「はい。これでお願いします」


 調停室を出たあと、葵は建物の外へ出た。雨は上がっていて、濡れた歩道には街灯が映っている。コンビニの前を通ると、焼きたての肉まんの匂いが漂ってきた。葵は足を止め、佐伯へ振り返った。


「先生、肉まんを買って帰ってもいいですか?」


「もちろんです」


「今日は、少しお腹が空きました」


 葵は笑った。十年間、義父母の食事を優先して、自分は冷めたものを後から食べることが多かった。今日は違う。自分が食べたいものを、自分が食べたい時間に買えばいい。


 葵は肉まんを一つ買い、紙袋を両手で包んだ。温かな蒸気が指先に伝わってくる。歩きながら一口かじると、熱い餡の味が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


 それは特別な料理ではなかった。それでも葵には、十年間の我慢を一つずつ自分の手で終わらせていくような味がした。法と証拠によって決着した離婚調停を背負って、葵はゆっくりと自分の新しい生活へ歩き始めた。



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