第14話 「十年間、おつかれさま。私」
第14話 「十年間、おつかれさま。私」
離婚が成立した翌朝、葵はいつもより少し遅く目を覚ました。目覚まし時計は六時に鳴るようにしていたが、今日はその音を止めてから、布団の中でしばらく天井を眺めていた。以前なら、義母の部屋から聞こえる咳や、トイレへ行きたいという呼び声を気にして、眠りが浅くてもすぐに起き上がっていた。けれど、今は静かだった。隣の部屋から誰かを呼ぶ声も、介護用ベッドのリモコン音も聞こえない。葵は布団の中で伸びをして、枕元のスマートフォンを手に取った。
「……まだ七時前か」
自分で言ってから、葵は小さく笑った。誰かに起こされることもないのだから、別に七時まで寝ていても構わない。十年間、朝六時前には起きていた身体が、長年の習慣で勝手に目を覚ましただけだった。窓の外では、夏の朝の光が白いカーテンの隙間から細く入り込み、床に置いた段ボール箱を照らしている。新しい部屋にはまだ家具が少なく、壁際には組み立て途中の小さな本棚と、通販で買ったばかりの食器が入った箱が置かれていた。
葵はベッドから降りると、裸足のまま台所へ向かった。以前の家では、起きた瞬間から義母の朝食を考えていたが、今日は冷蔵庫を開けて、自分が食べたいものを選べる。卵が二つ、食パンが三枚、牛乳が半分残っていたので、葵はフライパンにバターを落とした。熱でバターが溶ける甘い匂いが広がり、卵を割ると、ぱちぱちと小さな音がした。白いブラウスに淡いベージュのカーディガンを羽織った葵は、焼きたてのトーストと目玉焼きを皿に載せ、椅子に座った。
「いただきます」
たった一人の朝食なのに、葵はきちんと手を合わせた。トーストの端は少し焦げていたが、バターの香りがしておいしかった。黄身に箸を入れると、とろりと黄色い液が流れ出し、葵は思わず頬を緩めた。誰かの食べやすさを考えて柔らかく煮る必要もない。薬を飲む時間を確認する必要もない。自分が熱いと思ったものを、熱いうちに食べればいい。それだけのことが、葵には妙に新鮮だった。
「私、こんなにゆっくり朝ご飯を食べてもいいんだ」
そう呟いてから、葵は窓の外を見た。通勤する人たちが駅へ向かって歩いている。白いシャツ姿の会社員がコンビニの袋を片手に走り、小学生が黄色い帽子をかぶって母親に手を引かれている。そんな当たり前の風景を眺めながら、葵は十年前の自分を思い出していた。結婚したばかりの頃は、自分も仕事を続けるつもりだった。けれど、義父の通院が増え、義母の脳梗塞をきっかけに介護が始まり、気がつけば仕事を辞めていた。圭介は「今だけだから」と言った。その言葉を信じて十年が過ぎた。
葵は食器を洗いながら、ふとスポンジを持つ手を止めた。十年という時間は、紙に書けばたった三文字だが、実際には何千回もの食事、何百回もの通院、夜中の着替え、薬の確認、洗濯、掃除、買い物でできている。その一つ一つを思い出せば、胸の奥に重たいものが残る。それでも、葵はもう「あの十年を返して」と圭介に言うつもりはなかった。返してもらえる時間など存在しないなら、その時間をこれからの自分のために使えばいい。
「さて、今日は何をしようかな」
葵は洗ったマグカップを水切り籠に置いた。以前なら「何をしよう」ではなく、「何をしなければならない」から一日が始まっていた。今日は洗濯をしてもいいし、本屋へ行ってもいい。昼まで寝てもいいし、駅前の喫茶店でケーキを食べてもいい。考えてみれば、自分の予定を自分だけで決めること自体が、ずいぶん久しぶりだった。
その日の午後、葵は新しくできた介護施設の事務職の面接に出かけた。紺色のスカートに白いブラウスを合わせ、髪を後ろでまとめている。玄関の鏡で襟元を整えたあと、葵は鞄の中に履歴書を入れ、何度も確認した。十年間、家の中で介護をしてきただけだから、職歴として評価されるかは分からない。それでも、介護保険の書類を読み、病院と施設へ電話をし、薬局やケアマネジャーと話し、毎月の費用を管理してきた経験は、確かに自分の中に残っている。
面接を終えた葵が施設の玄関を出ると、昼過ぎの風に植え込みの葉が揺れていた。後日、採用の連絡が届いたとき、葵はスマートフォンの画面を何度も見返した。そして、その夜は少し奮発して駅前のスーパーで買った海鮮丼を食べた。マグロ、サーモン、イクラが並んだ丼を前にすると、以前なら「義母にも食べられるものを」と考えていた自分を思い出す。
「今日は私の好きなものだからね」
誰もいない部屋でそう言って、葵は笑った。箸でサーモンを一切れつまみ、醤油を少しつけて口に運ぶ。脂が舌に広がり、酢飯の酸味が追いかけてくる。テレビではくだらないバラエティ番組が流れていたが、それさえ今の葵には心地よかった。
一方、圭介は会社から離れた地方の営業所で新しい生活を始めていた。管理職の肩書はなくなり、これまで使っていた広いデスクも、名前の入った役職プレートもない。仕事を終えて戻った部屋には、スーパーで買った弁当の空き容器と、クリーニングに出し忘れたワイシャツが椅子に掛かっていた。冷蔵庫を開けても缶ビールと調味料しかなく、圭介は舌打ちしながら弁当の蓋を開けた。
「こんなはずじゃなかった」
その言葉を口にしても、返事をする人はいなかった。以前なら家に帰れば葵が夕食を用意していた。シャツは洗われ、靴は磨かれ、必要な書類は机の上に揃っていた。圭介はそれを自分の努力で築いた生活だと思っていたが、葵がいなくなった途端、その生活を支えていた細かな仕事が一つずつ消えていった。
スマートフォンを見ると、美香とのトーク画面は最後のメッセージで止まっていた。美香から「しばらく距離を置きたい」と送られてから、何日も連絡はない。圭介は何度か電話をかけようとしたが、指が止まった。課長でなくなった自分に、美香が何を期待するのか分からなかった。
「俺は、こんな生活をするために離婚したんじゃない」
圭介はそう言ったが、その言葉を聞く人間はいなかった。自分が「自由になりたい」と言ったことも、「葵はもう必要ない」と言ったことも、今では全部覚えている。それでも、あのときは葵が出ていけば自分の人生がもっと楽になると思っていた。
数週間後、葵は新しい職場で働き始めた。朝は七時に起きて、簡単な朝食を食べ、八時過ぎの電車に乗る。施設の事務室にはコピー機の音と電話の呼び出し音が響き、机の上には介護保険関係の書類が積まれていた。初日は慣れないパソコン操作に少し戸惑ったが、利用者の家族からの問い合わせに答えたとき、葵は自分が十年間してきたことがここで役に立つのだと気づいた。
「立花さん、この書類の確認をお願いできますか?」
「はい。私でよければ、すぐ確認します」
昼休みには職員食堂で温かいうどんを食べた。湯気の向こうに同僚の笑顔があり、「昨日のドラマ見ました?」などという何気ない会話が続いている。葵は箸を動かしながら、こういう普通の時間を自分はずっと後回しにしていたのだと思った。
仕事から帰った夜、葵は小さなテーブルに新しい通帳を置いた。銀行の窓口で作ったばかりの通帳には、自分の名前が印字されている。指先でその文字をなぞるようにしてから、葵は椅子に座った。
「立花葵……」
声に出して読むと、胸の奥に温かいものが広がった。圭介の妻でも、義父母の介護をする嫁でもない。ただの立花葵として、自分の名前がそこにある。それだけのことなのに、何度見ても飽きなかった。
ふと、葵は十年前の夜を思い出した。リビングでビールを飲みながら、圭介は笑っていた。
「葵、おつかれー。十年間、よくやってくれたよ。だからさ、もう離婚しよう」
あのときの言葉は、今でも耳に残っている。けれど、もうその言葉を聞いて胸を締めつけられることはなかった。葵は通帳を閉じ、机の引き出しにしまった。そして、キッチンへ行って冷蔵庫から小さなプリンを取り出した。
「そうね。あの日は、あなたからのおつかれさまだった」
スプーンでプリンをすくい、葵はゆっくり口に運んだ。卵の甘い味が舌に広がり、カラメルの苦みが少しだけ残る。葵は空になった容器を見ながら、十年間の自分を思い出した。何度も眠れない夜を越え、何度も自分のことを後回しにして、それでも毎日を続けてきた。
「だから、今度は私から言うね」
葵は窓を開けた。夜の風が部屋に入り、カーテンがふわりと揺れる。外からは車の走る音が聞こえ、どこかの家から夕食の焼き魚の匂いが流れてきた。葵はその匂いを感じながら、玄関に置いた新しい靴を見た。
「十年間、おつかれさま。私」
翌朝、葵は新しい服に袖を通した。淡い青のブラウスに紺色のスカート、足元には昨日買ったばかりの靴を合わせた。鏡の前で髪を整え、鞄を持つと、以前より少しだけ背筋が伸びていることに気づいた。
玄関の鍵を手に取り、葵は一度だけ部屋を振り返った。小さな本棚、買ったばかりのカーテン、冷蔵庫に貼ったスーパーのポイントカード、その一つ一つが自分で選んだものだった。もう誰かの機嫌を気にして出かける必要はない。自分が行きたい場所へ、自分の足で行けばいい。
「行ってきます」
誰もいない部屋に声をかけ、葵は扉を閉めた。
鍵がかかる音を確認してから、葵は駅へ向かって歩き出した。復讐はもう終わった。十年間の人生を取り戻すのではなく、これから先の人生を自分で作っていけばいい。
葵は振り返らなかった。
今日から始まる毎日は、誰かのためではなく、自分のためにあるのだから。




