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第五章 歴史学派 事実主義

 物語性を干乾にしてまでも、事実性にこだわる事実・現実主義(理論超越主義)の歴史学派。



 かつて、森鴎外は歴史というものに魅せられ、文献を渉猟し、事実を事細かに調べて晰らかにし、それによってその時代の現実を作り上げていった。その時代に没入するかのような、尋常ならざる〝歴史〟というものに取り憑かれたかのように思える。


 たとえば、『興津弥五右衛門の遺書』など、何だかその時代の本当の遺書のように(いや、江戸時代にあんな内容の遺書などなかったであろうが)、その時代のただの遺書に見える。

 そういうふうにリアリティに疑似するよう構築し、芸術性の完成度を高めている。


 ちなみに、リアルという英語は形容詞で、日本では名詞や形容動詞のような使われ方だが、英語では間違いで、現実と言いたいならリアリティ(名詞)が正しい。日本では逆にリアリティの方が現実性みたいな意味で使われているという滑稽な状況にある。


 まあ、これも結局、さわり(一番の聞かせどころ。「出だし」や「ほんの少し」や「導入部」では全然ない。浄瑠璃の用語。ちなみに、この「全然」も本来は否定に使われ、「全然いい」って言い方は間違いだが、その語調のズレの面白さから使われるようになり、頻繁に使われれううち、時代とともに標準語のような顔になってきている)や憮然(あまりのことに驚き、落胆する様。不機嫌や不貞腐れでは全くない)のように市民権を得て、勉強しない者の勝利ということになるのであろう。


 いや、話を歴史事実への傾倒に戻そう。

 それは、アララギ派の斎藤茂吉が短歌で写生(写実)を重んじ、自然主義的で素朴素直に事象に没入した万葉の大らかな(?)精神に還ったかのような勘違いをしていたこととは全く別の意味合いであり(だいたい万葉時代は素朴ではないし、柿本人麻呂は技巧的で、その上、道殣者を悼む歌には怨霊を鎮める呪術的な意味があった)、人智を超えた歴史の壓倒的な存在に打たれ、取り憑かれたかのように思える。


 とつらつら語ってきたが、実は(さて)、そんなことはどうでもよくって、眞神文學倶楽部の歴史學派である。


 精密な機械式の時計を組み上げるように、念の入った歴史事実の考証によって緻密に一大歴史小説を構築しようとするあまり、細緻事実の説明解説明晰化に没頭し、エスカレートしてマテリアルの描写に終始し、ついには写実至上主義から物語性の否定にまで達して、それを主張するようになった。完全ノン・フィクション主義という意味で、写実主義、私小説派、積極ポジティーフ派と一脈通じ、ある程度の一致をみている。


 ちなみに、ここで云うポジティーフとは、哲学者フリードリヒ・シェリングの「積極哲学(ポジティーフ・フィロゾフィーpositive Philosophie)」と「事実哲学(フィロゾフィー・デア・ファクティツィテートPhilosophie der Faktizität )」のことであり、楽器(ポジティフ=移動式パイプオルガン)のことではない。


 シェリングは合理主義的な哲学が学問的・理性的な理念ばかりを扱い、理不尽で、牡蠣の身のようにぐちゃぐちゃで不条理な、不可解・不可得な、実際の現実の事象・事実に積極的に向き合おうとしないことを批判し、そういう現実に在る事象・事実に向き合う自分の哲学を「積極哲学」「事実哲学」と呼び、理性の範疇内にしかないヘーゲルなどの合理主義哲学を「消極哲学(ネガティーヴェ・フィロゾフィーnegative Philosophie)」と呼んだ。

 概念による論理、論理のみの必然性によって世界全てを説明しようとする哲学への批判である。


 それを踏まえ、歴史学派は、「結果として既に在る、厳然と実在する「事実・現実としての存在(実存)」を基礎とし、頭の中のみの論理ではなく、思考以前の事実・現実(実存)に直参すべき」と措定し、理論武装した。

 この基幹を据える歴史学派は、通俗的な歴史小説派とは別格の派閥である。


 歴史学派の始祖は現在、二十五歳の白舟大樂(しらふねたいらく)で在る。

 彼は天易真兮や彝之イタルと同年代で、いわゆる怪物揃いの時代(又は恐竜時代、巨人時代)の一人であった。

 大樂という名の由来は『大樂金剛不空眞實三麼耶經 般若波羅蜜多理趣品』(略して『理趣経』。真言宗の根本経典の一つ。唐の不空がインドから持ち帰り、中国語に翻訳した)にあるが、彼自身は仏教に全く興味がない。

 

 ちなみに、理趣という(人によっては)聞き慣れない語は、サンスクリット語(古代インドの聖語)の「ナヤ(naya)」の訳語で、正しい道筋、道理、真理に至る方法を意味する。


 白舟家は眞神郡の眞神族(彝之家を中心に紀元前八千年に南阿弗利加(アフリカ)で王朝が成立。初代王イクニ(彝玖邇))が渡来した紀元前七百年代よりも遙か前、紀元前四千五百年のトリートニス(現リビア)時代に眞神族に加わった一族で、三叉戟を家紋とし、地中海に於いて強大な海軍を持ち、軍事という現実主義を思考の中枢とする一族ゆえ、藝術・晢學に本来的な興味はなく、只管(ひたすら)現實に追隨した。

 そのような一門の出であることが、大樂に徹底非情な、非藝術・反文學・排晢學的な事実主義を貫かせたのであろう。

 

 奇しくも、『理趣経』も又、事実在る人間の欲望や煩悩を否定せず、本来それも清浄なものであるとし、智慧によって正しく用い、解脱の大樂への原動力とする趣旨を説いている。

 冒頭の「十七清浄句」で、欲望や煩悩などあらゆる人間の本性が清浄であると言い、欲望・煩悩を昇華して悟りへ至る『煩悩即菩提』の境地と説法する。

 経典内の説法も、大日如来が他化自在天宮という欲界の頂点で行うところから始まるのもまた、象徴的であると観ぜられる。

 事実主義と一脈通じていないであろうか。


 大樂くんの親戚である白舟司馬(しば)が今は歴史学派の中心であった。


 司馬は今、『貞觀正國(じょうがんしょうこく)()伝』を執筆中である。

 貞觀正國寺は畝邨(ほむら)村にある。畝邨は眞神村の西にある、眞神郡の一つだ。

 貞観三年(八六一年)四月に福岡の直方(のおがた)に隕石が落下し、同六年(八六四年)には霊峰富士が噴火し、(所謂、貞観大噴火である)民衆の心が動揺し、蝦夷の眞神で叛逆が起こると流説され、貞観八年(八六六年)三月、大内裏の正庁である朝堂院の正門(応天門)が放火されて炎上し、白河殿、乃ち藤原良房公(延暦二三年(八〇四年)から貞観一四年(八七二年))が古代名家の伴氏を流刑に追い込んだ応天門の変の勢いで、眞神の彝之家に仏教への帰依を屰為のない証として命じ、同源家がその仏門を宗とすることで折り合い、貞觀正國寺が建立された。

 ちなみに、同源家は、元来、彝之家と同じ家であったが、臣下に下り、その際に、源は同じであるという意味で、その名を賜った。


 司馬は趣味の革製品の手入れや機械式腕時計の外装の清掃や靴磨き及びその道具選びのように入念に、又、帆船模型を作り込むときのように細緻精密な現実味にこだわって、まさに〝製造・製作〟中である。




 ロマンチックではない本来の浪漫派と古代古典を規範カノンとする古典派。

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