第二章 誰にも読まれない男が売文主義を批判しても虚しい
孤独な愚者である彝久紗について。
彝久紗は彼自身が反売文主義であり、非売文業者であることを自嘲気味に語る。
「芸術は商品ではない。ましてや金儲けの手段でもない。乃ち、売られるべきではない。真の名作は読者に媚びずに無償で配信されるべきだ」
そう主張した。
作家が作品を売ることは、当たり前のことのように普通の人には思える。
しかし、彼はそれを拝金主義と謗り、神聖なる芸術を商品のように売ることは卑しい行為であるとした。よく言えば(?)禁欲的理想主義だが。
そこには人間的な、あまりにも人間的な事情があった。
ちなみに、売文への自責・批判は彼が初めてではない。
芥川龍之介も金のために書くことを蔑み、自嘲したが、確かに金儲主義、金を渇望し、売れる小説を書こうとすることは、真の芸術を目指す者ならば、自己矛盾した卑しく蔑むべき汚い行為とも言える。
ただし、普通の人が普通に仕事をするように、そもそも、生活の糧とするなら、何を言われる筋合いもない。
彝久紗の小説は小難しくて気取ってストイックで読み難く、誰も興味を持たない主題しか選ばず、他人が読むには苦痛でしかないものばかり書き、誰からも読まれなかった。
そのせいで、安易に読まれる小説には批判的になり、自分は孤高なのだと自我自尊の自己肯定をし、金を得る行為そのものを蔑み、拝金主義と批判することとなり、余計に孤立した。
そもそも、哲学派のうちの無頼派で、その後はそれも捨て、彼の口調を借りれば「十代の超絶天才詩人アルチュール・ランボーが二十歳で詩を棄てたように」無味乾燥な現実主義者になった、のである。
綺綺に言わせれば、
「それはそれで悪くないんじゃない。
存在であることに変わりないんだから。ハーモニカのサウンドのようなものよ。何者でもない存在自体でしかない。安土桃山時代の茶陶の焼成具合の風味や景色のように、釉薬の塗られていない高台の土味のように、滋味深く味わい尽くせぬ深みがあるわ。
誰にも知られないことは罪じゃない。
彼の言う無味乾燥とも感覚・体感・経験的に一致するんじゃない? もっとも、彼はそういう合致整合の合理性を追究していないし、むしろ、否定しているけれどもね」
そして、神子斗は、
「彼はまるで彝之イタルみたいだ。
何者にも媚びない。名誉も利己的損得も顧みない。パンクだ。
エリック・クラプトンは一九三〇年代のアメリカ南部のブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンの曲、演奏を聴いて、西洋的な音楽セオリーから外れたテンポの転調やコード進行を「彼は何ものにも縛られずに自由に弾いた」という趣旨の言葉で称賛したが、彝久紗にも同じことが言える」
として讃嘆していた。
「俺の小説は神が知るのさ。神は全知だからな。神が俺の唯一の読者だ。誰も読まなくても、俺の小説は存在する。それが神が読むということだ」
次回は数学派について。




