第一章 コンセプチュアル・アートとしての小説、及びその起源について
倶楽部の中には、コンセプチュアル・アート派という派閥がある。
コンセプチュアル・アートとして小説を求道・追究する連中だ。
では、コンセプチュアル・アートとしての小説とは、どんなふうなのか。
たとえば、古本屋で買った夏目漱石の『心』を置く。それに拠って、本という實在、冊子という實在、小説という實在を表現する、いや、表現というか、在らしめる。
全ての言語表現は間接表現であるが、この方法ならば直截表現となる。
それそのものだからだ。
そして、これを敢えて小説と言い切ることがコンセプチュアル・アートとしての小説ということになるのだ。
写実ではなく、實であること、實自体であること。
すなわち、小説とは言語表現に限定されない、自由だという考え方だ。
つい先日も、クラブ内のスタジオで、バンド演奏をして、ロック・バンド小説と称した四人組がいた。
間接ではなく、實そのものだ、という訳だ。
それはまるでレフ・トルストイ伯爵の『戦争と平和』を「偉大だが、偉大な作り話だ」と某講演会で暴言妄言した久米正雄のようなものかも知れない。観えるがままの事実を書けば眞實だという空想である。観えるがままが事實に相違ないという迷信である。
だが、真実であるかどうかという空疎な論理的観念を打破して考えれば、真実や否やは問わず、ただ、事実だけをぶち込む、そういう考え方もある。ただ、古い街道の四辻にある石の道祖神像を人に知られぬ小説『道祖神石像』とするなどである。読者は天のいる全知全能の神のみである。
それは繁華街の裏路地に不法に捨てられたニシンの缶詰の空き缶でもいい。缶截りで、ざくざくに刻まれて捲れ上がった蓋の金属的な照りでもいい。
実際、コンセプチュアル・アート派の一部は現實主義派からの派生であった。現實主義派以外の多くはアヴァンギャルド派の最先鋭たちである。
ちなみに、彝久紗は現實主義派の一亜流と解釈されているが、実態は一匹狼、孤立している。嫌われているというのが正確かもしれない。
ちなみに、コンセプチュアル・アート派のごく一部は晢學小説派の先鋭で、神子斗は晢學派の一端で、超越晢學の神秘主義のうちの超越論的絶対神主義を主張する者であった。超越論的絶対神主義は彼独りしかいない。
綺々も晢學派の龍肯主義者である。
彝之龍肯は龍肯主義であり、かつ、コンセプチュアル・アート派で、ロック・バンド演奏を小説と称した四人組のうちの一人だ。
彼には特別な思惑があった。
彼の遠縁であった彝之イタルは眞神郡では伝説的な夭折のアーティスト(享年十七歳)であり、ライブハウスメチャクチャなパフォーマンスの末にライブハウスの機材を破壊して損害を与え、停学明けに顔の左半分に青龍の刺青を入れてあらわれ、学校の屋上でライブを強行し退学、深夜の公園で無許可の凄絶なライブを行って、『豪奢なる修羅の戯』という曲の途中で意味不明な言語を喚きながら、円盤型の噴水にガソリンを撒いて火を点け、警察に追われ、最後は眞神山の頂上にある縄文時代の祭祀跡にある『彝龍の裂』の大巖からガソリンを被って点火して飛翔し、炎の裂となって狂裂なる炸裂のパフォーマンスを實在させた、伝説の狂奔裂アーティストである。
詳細は『Ekstase -脱自態-』という小説に詳しい。 https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/ekstase.pdf
それは自死ではなく、命や存在を顧みない超純粋な超超越的パフォーマンスであり、その死はバンド・メンバーであった彝之〆裂や同源叭羅蜜斗や天平普蕭のみならず、眞神の青少年たちに強い衝撃を与えた。
また眞神郡の最大の青年思想家である天易真兮(現在二十五歳)はイタルの同級生であったが、彼の思想にも大きな影響を与え、文學倶楽部で『BLUES HARP』を一秒吹いて、これを小説であると主張し、コンセプチュアル・アート派の起源となった。
言語による芸術は間接表現(書や画や彫刻などは半直截半間接表現)となるが、音楽だけは直截表現のかたちしかない。音はそれそのもの、即物、モノ自体として入ってくる。有無を言わさない。是非もない。
彼がサウンドを選んだ理由はそれであった。
その音源はホームページ https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/index7-2.html の画面をクリックすることで確認することができる。
なお、真兮の主著は『人間存在の實存的分析による存在論考-「空」-』( https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/index2.html を参照。朱書のタイトルをクリックすると本文が在る)で、眞神の第一義である「未遂不收」について即物的に表現している。




