12話
徴兵令。
知らせを聞いたのは、ミレディからだった。
朝の酒場に入ったとき。
その日は、やけに深刻な顔をしていた。
「エリシア」
名前を呼ばれただけで、何かを察した。
「……町に、徴兵令が出たよ」
淡々とした声だった。
感情を抑えた、大人の声。
出立までは、あまり時間がない。
そう聞いた。
私は、奇妙なほど静かだった。
ただ、ひとつの事実が、すとんと収まる感覚。
ああ、来たのだ、と。
妙に納得していた。
幸せなんて、長くは続かないこと。
罪の意識を抱えたまま、続かないこと。
彼の過去を殺したまま、続かないこと。
私は、たぶん。
無意識のうちに、理解していたのだと思う。
だから、泣かなかった。
震えなかった。
胸の奥で、静かに思った。
――やっぱり、そうなるのね。
ミレディは私の顔をじっと見て、
何か言おうとして、やめた。
代わりに、いつものように肩を叩く。
「……今日は、早めに上がりな」
私は、ゆっくりとうなずいた。
その日の空は、嘘みたいに晴れていた。
雨の翌日の、澄みきった空気。
私は空を見上げながら、
もう一度だけ、心の中で繰り返した。
幸せなんて、長くは続かない。
そう。
最初から、分かっていたことだった。
その日の夜、ロアンは酒場に来た。
いつもの合図――札を返すような、遠回しなやり取りではなかった。
まっすぐこちらを見て。
「今日……部屋へ行ってもいいか」
直接、言われた。
私は一瞬だけ息を止める。
頷くしか、なかった。
「……はい」
覚悟なんて、決まってなかった。
ミレディは何も言わず、私を早めに下がらせてくれた。
宿舎の自室で、一人。
着替える時間はいくらでもあった。
鏡も、水も、櫛もある。
それなのに。
私は従業員服のまま、立ちすくんで動けなかった。
布の感触だけが、現実的で。
これが今の私だと、突きつけられている気がした。
扉が、叩かれる。
短く、ためらいのない音。
ロアンだ。
私は深く息を吸って、ゆっくりと戸を開けた。
その後、何を話したのかわからない。
必死だった。
言葉を選んでいたのか、
選ばないようにしていたのかも、分からない。
ただ一つ、決めていたのは。
私はロアンに向かって、笑おうとしていたこと。
「……いってらっしゃい」
そう言うことに、 全力をかけていたこと。
送り出す人間の言葉として、恋人として、
それだけは間違えたくなかった。
なのに。
表情は、ちぐはぐだった。
口元は上がっているのに。
目が、どうしても笑えない。
情けない。
戦地に向かう騎士を、ちゃんと送り出せないで、
何が恋人なのだろう。
そう、思ってしまった。
ロアンは、しばらく私を見ていた。
何か言おうとして、飲み込むように視線を伏せる。
懐に手を伸ばした。
彼は、何かを取り出して、 私の前に差し出した。
小さな木箱だった。
飾り立てられてもいない、 ただの小箱。
「……受け取ってほしい」
手で、そっと蓋を開けられる。
中にあったのは――
金の、指輪だった。
私は、茫然とした。
頭の中が、うまく追いつかない。
呆気にとられた。
ロアンは、息を吸ってから言った。
「これを、君に贈りたい」
「もし俺が……無事に帰って来れたら」
「結婚、しよう」
言葉が、 私の中に落ちるまで、 少し時間がかかった。
私は小箱の中の指輪を、そっと受け取った。
ずっしりと、存在感がある。
指輪の内側に、 何かが刻まれている。
蝋燭の灯りの中でも、文字は私に飛び込んできた。
『君を忘れない』
喉が、ひくりと鳴った。
――そんな。
「……そんな」
言葉にならないまま、 私は続けた。
「ずるい」
「私が、断れるわけない」
指輪を握る手に、力が入る。
「その言葉で……断れるわけ、ない」
堪えていたものが、切れてしまった。
今まで、 必死でこらえていたのに。
取り乱さないように。
あなたの助けになれるように。
あなたのために、 必死で耐えていたのに。
胸の奥から、 押し殺していたものが、 一気に溢れ出した。
声が、震えた。
視界が、滲んだ。
ロアンが、私を抱き寄せた。
優しく、受け止めるように。
胸に、誘われた。
硬い体。
私は、ロアンの胸で泣いた。
声を殺すことも、
形を保つことも、できなかった。
こらえきれない感情を。
一晩かけて、彼にぶつけた。
◇
出立の日、
私は、彼の下へ行けなかった。
行ったら、泣いてしまう。
言葉を、交わしてしまう。
行ったらきっと、引き留めてしまう。
そう思って、行けなかった。
遠く、足音のうねりが聞こえてくる。
大勢の靴底が、同じ方向へ向かう音。
窓辺に立ち、 指にはめられた指輪を、ぎゅっと握った。
重たい金属の感触。
冷たいはずなのに、温かい。
生きて帰ってきて。
声に出さず、 何度も、何度も、念を込める。
――帰ってきて。
彼のいない生活は、 これが二度目。
けれど、以前とは比べ物にならないほど、空虚だった。
朝、彼がいない。
昼、彼がいない。
夜にも、やっぱり、彼がいない。
前と同じだったはずなのに。
先頭部隊として出立した彼と、 何も変わらないのに。
私に落ちる影は、 以前より、ずっと大きすぎた。
私は、毎日、浜辺へ向かった。
一度目の約束の場所。
彼と踊った場所。
私の、お気に入りの場所。
波の音だけが、 変わらずそこにあった。
戦争の最中だ。
彼がすぐに帰ってこないことなど分かっている。
それでも私は、ここに来るのをやめられなかった。
彼がすぐに帰ってこないことなど。
私が一番、わかっていた。




