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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
砂浜の踊り子

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11話

翌朝、私は寝不足だった。


まぶたを閉じれば、昨夜の感情が浮かんだ。

誰にもぶつけられない感情。


何度も寝返りを打って、結局ほとんど眠れなかった。


朝の酒場は静かだ。

仕込みの音だけが、規則正しく響いている。


野菜を刻み、樽を運び、布を濡らす。

身体を動かしていれば、頭も落ち着くと思っていた。


「大丈夫かい」


ミレディの声。


「元気、ないの?」


続いて、ゲラルト。

二人に並んで覗き込まれて、私は手を止めた。


「……へいき」


明らかに良くない声だった。


「昨日の、あれかい」


見られていたのか。

私は視線を逸らす。


「大丈夫。夜までには立ち直るから」


そのときだった。


ミレディが、何も言わずに近づいてきて。

私の頭を、胸に引き寄せた。


突然のことで、抵抗する間もなかった。


「大丈夫」


耳元で、柔らかい声。

背中をさすられる触感。


「あんたは、強い女だよ」


抱きしめられた胸は、温かくて。

石鹸と、酒の匂い。

安心する香り。


張り詰めていたものが、そこで切れた。


朝に、少しだけ。

ミレディの胸で、泣いた。


私は今日も浜辺へ行く。


それは、完全に日課になっていた。

足が自然と砂浜へ向かう。


誰もいないこの場所は、踊りの練習に最適だ。


そう、自分に言い聞かせて。


潮風が、髪を揺らした。

浜辺に落ちる夕陽を眺めながら、私は立ち止まる。


今日の晩も、ロアンは来るのだろうか。


来たら、私は。

彼にどう接したらいいのだろう。


この気持ちを、今の私は、どう伝えたらいいのだろう。


そのとき。


一歩。


また一歩。


後ろから、砂を踏みしめる足音がした。


――現実は、待ってくれないのね。


私は、振り返らなかった。


「……どうして、ここへ」


波の音に紛れるように。

背を向けたまま、そう言った。


「ここに、探していた人がいると聞いた」

「来てみたら……きみが居た」


ゲラルトかな。

彼には、悪いことをしたな。


私は小さく返事をして、振り返った。




ロアン。




あなたは、同じでいられた?


真実を教えられても。


思い出さずに、理解しても。




私は、同じでいられなかった。


無理だったから。




私の代わりになりたかったのに。

なれなかったから。


なれないと、思い知ってしまったから。




ごめんね、ロアン。




これから私は、一世一代の演技をする。

一生を貫き通す、嘘をつく。


深く、心を整えるように呼吸をして。


そして、口を開く。




「……探していた彼女じゃなくて、ごめんなさい」


「そんなことより」


「私と、踊りましょう」





ある日の酒場。

その日は珍しく、雨が降った。


石畳を叩く音が、外から聞こえる。

この港町ではそう多くない雨に、客足もまばらだった。


湿った空気のなかで、私はカウンターを拭く。


扉が、大きな音を立てて開いた。


「いらっしゃい……ロアン」


反射的に挨拶してから、気づく。


「……濡れちゃった?」


入ってきたロアンは、少しだけ雨に濡れていた。


肩口に濃い染みがある。

赤い髪も、いつもより大人しく寝ている。


「俺が外に出た途端、振り出してな」


短くそう言って、肩をすくめた。


「少し待ってて。ふきん、持ってくるわ」


そう言って、私はカウンターの奥へ回った。


私たちの関係は、この上なく順調だった。


あの浜辺での出来事のあと、

私は自分の部屋で、想いを告げた。


そして、恋人同士になれた。


彼は、今の私を見てくれるようになった。


過去でも、失われた何かでもなく。

踊り子としての私を。

酒場で働く今の私を。


好きだと、言ってくれた。


私は、昔の私に勝ったのだ。


ふきんを手に戻ると、ロアンは素直に受け取った。


「ああ、ありがとう」

「いつものでいい?」


「ああ、頼む」


私もロアンも、淀みなく答える。


私は甲斐甲斐しく動く。

鍋の火加減を見て、 皿を温め、 パンを切る。


その姿は酒場の従業員というよりも、

もっと身近な存在。


私たちの間では、それが普通になっていた。


しばらくして、煮込みの用意が整う。

湯気の立つ皿を両手で持ち、 私はロアンのもとへ向かった。


「どうぞ」

「ありがとう」


短い礼。

差し出すと、 彼はいつもの所作で受け取る。


私は、彼の前の席に腰を下ろした。

向かい合う距離。


「今日は、いいのか」


ロアンが聞く。


「雨で、お客もあまりいないし」


そう答えると、 彼は小さく息を吐いた。


「ミレディに怒られても、知らないぞ」


冗談めかした声で、ふっと微笑む。


「本当に、煮込みが好きね」


匙を動かす彼を見て、言った。


「……温かいものを食べると、元気が湧く」

「それに今日は、雨で濡れたしな」


「濡れてなくても、いつも食べてるじゃない」


私がそう返すと、ロアンは言葉に詰まっていた。

そして、何でもないふうを装って、 匙を動かした。


何気ない日々。


それがどれほど貴重なものかを、 私たちはもう知っている。


雨音が、酒場の外で続いている。

ロアンは皿を空にし、椅子の背にもたれる。


「明日は、晴れるかな」


独り言のような声だった。

私は布を畳みながら答える。


「雨が降り続けることは、あまりないわ」


視線を向けて、付け足す。


「きっと、止んでる」


「なら、明日は出かけようか」

「酒場、休みだったよな」


その言葉に、胸が小さく跳ねる。

私は微笑んで、うなずいた。


「ええ。行きましょう」


彼は頷くかわりに、息を吐いていた。


ロアンも、どうしてか。

少しずつ、昔の雰囲気を取り戻しつつあった。

無鉄砲で、前向きだった頃の彼に。


二人で、 明日はどこに行くか。

何を食べるか。

どれくらい歩くか。


そんなことを、 他愛もなく話し合いながら。


私たちはその時間を胸に刻みつけながら、

輝かしい最後の日々は、過ぎ去っていった。

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