9話
「あなたの探し物、手伝って差し上げましょうか」
そう言って誘った私は、まず町を歩くことを提案した。
二人で過ごした港町。
酒場。 市場。 浜辺。
同じ道を歩けば、同じ匂いを嗅げば、何かが戻るかもしれない。
そんな残酷で、淡い期待が。
まだあったのかもしれない。
ロアンは無言のまま歩く。
隣を歩く彼は反応が薄い。
周囲を見回し、私を見ていない。
昔は何かあるたびに、うるさいほど話しかけてきたのに。
石畳を踏む音だけが一定の間隔で響く。
昼の市場に着くと、人の声と匂いが重なった。
私は露店で、小さな包みを買った。
砂糖をまぶした、甘い焼き菓子。
「ほら、ロアンもいかが?」
かじった逆側をちぎって渡すと、彼は少しだけ眉を動かした。
「……遊んでないか、これ」
表情も、声も、淡いまま。
昔のロアンとは、まるで別人だった。
同じ顔なのに。
私のことは分からないし。
別の人と、喋っているみたいだった。
それでも、私は諦めなかった。
次は、孤児院へ行くことを提案した。
神父に会えば。
昔の私と、昔の彼と、どこかで結びつくかもしれない。
けれど、結果は空振りだった。
「神父さまなら、今朝から町を離れていて」
まさか留守だとは思わなかった。
焦りが先立って、事前の根回しなんてしていなかった。
中庭では、子供たちが走り回っていた。
土埃を上げて、笑い声をあげて。
ロアンは、輪の中心にいた。
ロアンは、笑っていた。
戦場から戻った騎士の顔ではなく、
もっと、幼い頃のような笑みで。
私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、わずかに軽くなる。
たとえ思い出されなくても。
彼の心を、溶かすことはできる。
そう、感じられたから。
噂があるのは知っていた。
酒場の隅で、 ひそひそと交わされる声。
『あいつが騎士に近づくのは、財産が目的だ』
『踊り子が一攫千金を狙ってる』
とても、品のない噂話だった。
全て無視した。
決意は、その程度では揺らがない。
次に私は、彼を漁港へ誘った。
向かう道。
潮の匂いと、濡れた木の匂い。
たまに戯れている猫たち。
私たちが昔、約束した浜辺。
結婚しようと、 彼が言ってくれた場所へ。
たとえ、思い出さなくてもいい。
あの日の言葉を、覚えていなくてもいい。
夕陽と水平線の美しさを。
彼ともう一度共有できたなら。
浜辺に着くと、 空はゆっくりと赤に染まり始めていた。
私は立ち止まり、 海を見つめる彼の横顔を盗み見る。
ロアンは何かを探すように、 黙ったまま水平線を見ていた。
「もう、やめにしないか」
彼は、そう言った。
「……えっ?」
すぐに理解できなくて、声が上ずった。
「これ以上、君を連れ立つ理由がないから」
波が、少し強く砂を叩いた。
「もう、いいんだ」
「俺一人で、探すから」
私は、頭がまっしろになった。
◇
「あいつは、そんなことを……」
バーツは低く呟き、言葉の続きを失った。
日が暮れた酒場の脇、影になる場所で、
私と彼で顔を突き合わせている。
先ほど、浜辺でのことを短く話した。
最後に向けられた、拒絶の言葉を。
バーツは聞いていた。
影の中で、眉を寄せている。
彼は、夜になると時折、酒場に顔を出すようになった。
長居はしない。
状況を確かめ、分かっていることを擦り合わせる。
情報共有。
「……彼は、私のことだけ、わからないのね」
「バーツも、ミレディも、ゲラルトも」
「港町の雰囲気や、石畳の剥げ方まで、覚えているみたいだった」
「なのに」
喉が詰まる。
「私のことだけ、忘れてしまった」
胸の内側が、ぎりぎりと締めつけられた。
苦しくなるだけなのに、その日は愚痴が止まらなかった。
バーツは、どう言葉を返していいのか分からない様子で、視線を逸らした。
「……そう、気を病むな」
励まし方を探して失敗したような、ぎこちない声だった。
ロアンと、どう接すればいいのか。
どこまで近づいていいのか。
何をしてはいけないのか。
私は、分からなくなっていた。
夕方の浜辺に、私は立つ。
ここに来るのが日課になっていた。
拒絶された、あの日から。
我ながら、情けないと思う。
過去にしがみついて。
彼を混乱させまい、傷つけまいと言いながら。
一番引っ掻き回しているのは、私じゃないか。
賢くて強い女になんか、全然なれない。
そんな考えばかりが、頭を巡る。
波の音は一定で、夕焼けは何も知らない顔で、海を染めていた。
――そんなとき。
誰も来ないはずの砂浜に、 砂を踏む音。
私は反射的に振り向いた。
「……ロアン?」
名前が、勝手に零れた。
目を見開く。
赤い髪。
見慣れた顔。
あなたが、どうしてここに。
彼は距離を保ったまま、口を開いた。
「……隣、いいか」
それだけのことなのに。
心臓が、強く波打った。
私の目から、涙が出た。
一筋だけ。
拭おうとして、やめた。
彼は違う。
ロアンじゃない。
それなのに。
ここに来てくれたということだけで。
私は、泣いてしまった。
だから。
私は、話した。
どうして、あなたに構ってしまうのか。
どうして、放っておけないのか。
自分が何者なのか。
言葉にしながら、自分自身を整理した。
彼は、黙って聞いていた。
遮らず、否定せず、そこにいた。
私が言葉を切らすと、 今度は、彼が話し始めた。
自分の心を。
私への恐怖を。
弱さを、隠さずに。
それを聞いたとき。
私は、嬉しいと思ってしまった。
久しぶりに、身体が火照った。
指先から、胸の奥へ。
生きていると、はっきり分かる熱。
この火照りを、忘れたくなかった。
逃したら、また一人に戻ってしまう気がして。
私は意を決して、彼を見た。
「……ロアン」
赤い髪。
見慣れた顔。
今は、別の人。
それでもいい。
「私と、踊りませんか」
波の音に、かき消されないように。
はっきりと。
私は、そう頼んだ。




