表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
砂浜の踊り子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/44

8話

「ロアンは、君のことだけを忘れているようだった」


帰郷してすぐ、酒場に来たバーツは、そう言った。

鎧も脱がないまま、椅子に腰を下ろす。


疲労の残る顔。

汚れたままの髪。


長旅で、疲れたままなのに。

私に伝えようと来てくれたのが、すぐに分かった。


「……もう、ロアンには会ったか」


低い声で、バーツが聞く。


「……ええ」


私は短く頷いた。

彼に水を給仕する。


「人違いだろって、言われた」


「……っ、顔を見ても、変わらないか」


バーツは舌打ちした。


荒っぽい音が、静かな店内に響く。

彼は乱暴に席に座り直し、苦い顔のまま言った。


「あいつを、帰還の列で見た時」

「俺は、自分のことみたいに喜んだ」


一息で、水をあおる。


「生き残れたんだな、って」

「……彼女に、また会えるなって」


水を飲んだのに、掠れた。


「でも、あいつは」


言葉が、そこで途切れる。

バーツは、歯を食いしばった。


「その時から、様子がおかしかった」

「話が、噛み合わないんだ」


「それに……」


視線を落とし、吐き捨てるように言う。


「芯が無くなったみたいに、腑抜けちまった」


私は、何も言えなかった。


ロアンの顔が、頭に浮かぶ。

あの、困ったような目。

知らないものを見るような、静かな視線。


バーツの言葉は、残酷なほど、的確だった。


「……これから、どうする」


バーツが、ぽつりと聞いた。

視線は、卓の上に落ちたままだった。


「怖くなって、俺はエリシアの名前を、あいつの前で出していない」


胸が、ひくりと痛んだ。

バーツは、私を見ないまま言う。


「言って……みるか」


頭の中が一気に冷えた。


「それはだめ」


私は即座に言った。

声が強く出る。


「彼を、余計に混乱させるだけ」

「それに、もし……思い出さなかったら」


バーツが、ゆっくり顔を上げた。

言葉の先が、喉に引っかかる。


――彼に、中途半端な先入観を植え付けるだけ。


口からは、出なかった。


そんなのは。


「……許されることじゃない」


自分に言い聞かせるように、言った。

バーツは眉間に皺を寄せ、唇を噛む。


「なら、どうするんだ」


低く、重たい声だった。


私は、視線を落とした。

どうしたらいいのかわからない。


それでも。


「彼には、私のことは言わないで」


はっきり言った。


「どうするかは……今から考えるから」


逃げではない。

そう、信じたかった。


バーツは、長く息を吐いた。

そして。


「……わかった」


短く、そう言った。

その返事が、胸に重く残った。


何かが、静かに崩れていく。


私は、水瓶に映る自分の顔を見下ろした。

そこにいたのは、 待ち続けた女でも、恋人でもない。


ただ、 過去を手放せない者の顔だった。





翌日の朝。


酒場は、いつもより早く人が集まっていた。

ミレディ、ゲラルト、従業員たち。


私は、皆の前に立った。

昨夜から、何度も頭の中で組み立てた言葉を、慎重に並べた。


ロアンは私のことだけを忘れていること。

私と彼の過去を、彼に直接明かさないでほしいこと。


沈黙。


ゲラルトが、真っ先に声を上げた。


「……なんでさ!」


椅子から半分、身を乗り出す。


「ロアンは帰って来たんだろ?そんな都合よく忘れる?」

「過去を言って、思い出してもらえば……」


「ゲラルト」


ミレディが、静かに遮った。

いつもより柔らな声だった。


「それで思い出さなかったら、どうなると思う」


ゲラルトは口を開きかけ、 何も言えず、ぱくぱくとさせた。

やがて、視線を落とし、口を閉ざす。


ミレディは、今度は私を見た。


「辛い判断だろう。お前は、それでいいのか」


責める色はなかった。


「わからない。これが、辛いことなのかすら」


私は、正直に答えた。

ミレディは短く息を吐いた。


「……そうかい」


それから、皆を見渡す。


「皆、聞いてたね」


低く、しかしはっきりとした声。


「エリシアのことを、尊重してやってくれ」


一人、また一人と、頷きが返る。

ゲラルトも悔しそうな顔のまま、 最後には小さく頷いた。


私はその光景を、静かに見ていた。


その夜。


踊りの舞台に立ったとき。

酒場の扉に視線が引き寄せられた。


人の影が揺れる。

酒の匂いと、ざわめきの向こう。


――赤い髪の、彼の姿。


一瞬、息が止まる。


いや、違う。


すぐに打ち消す。

きっと違う。


あんな、ぼんやりと立っている影。

あんな腑抜けた奴。


ロアンじゃない。


音楽に意識を戻す。

足を運び、腕を伸ばす。

身体だけを、舞台に残す。


客の顔は、もはや見なかった。



今日はバーツと先輩騎士たちの意向で、 酒場は貸切になっていた。


生き残った騎士たちが集まり、 飲んで、食べて、騒ぐ。

笑い、肩を叩き、声を張り上げる。


生を実感するためのひととき。

血と死を越えてきた者たちの、 必要な時間。

私は壁際に立ち、 空になった皿を下げて回る。


この日ばかりは、 私の踊りも必要ないだろう。


誰も、それを求めていなかった。

笑い声の中で、私はただ給仕に徹していた。


ちらちらと、視界に映る赤い髪。


彼は、騎士たちの輪の中にいた。

肩を並べて杯を渡され、聞かれた時だけ喋っている。


その横顔を、盗み見る。


――違う。


想像しない。


宴は、次第に熱を帯びていった。

笑い声が大きくなり、酒の匂いが濃くなる。


赤い髪の人が、静かに席を立った。

誰にも声をかけず、扉の方へ向かう。


その背中に、私の視線は吸い寄せられた。


気づいたときには、私は盆を置いていた。


仕事を放り出して、 その背中を、追ってしまった。


外は、静かだった。

酒場の宴までが、嘘のように遠い。

港の匂い。 潮と鉄の混じった空気。


彼は、軒下に立っていた。

背中越しに見ても、 どこか、疲れた輪郭だった。


ああ。


あんなに、寂しそうにしていたから。


宴の中にいても、どこにも属していないみたいで。


あなたが、寂しそうだったから。


それだけで、 私は。


声をかけてしまうんだ。


「……騎士さま、お加減はいかがですか」


彼は振り返った。


目が合う。

明らかな、警戒。


幼い時の、私のよう。


それならば。


あなたが忘れてしまったなら。

私を忘れてしまったなら。


それでもいい。


私が代わりになるから。


私はもう一度、隣に立つから。


失くしたものの代わりになるから。


また、あなたの隣に立ちたいから。


ねえ、ロアン。


今度は。


私のことを見て。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ