8話
「ロアンは、君のことだけを忘れているようだった」
帰郷してすぐ、酒場に来たバーツは、そう言った。
鎧も脱がないまま、椅子に腰を下ろす。
疲労の残る顔。
汚れたままの髪。
長旅で、疲れたままなのに。
私に伝えようと来てくれたのが、すぐに分かった。
「……もう、ロアンには会ったか」
低い声で、バーツが聞く。
「……ええ」
私は短く頷いた。
彼に水を給仕する。
「人違いだろって、言われた」
「……っ、顔を見ても、変わらないか」
バーツは舌打ちした。
荒っぽい音が、静かな店内に響く。
彼は乱暴に席に座り直し、苦い顔のまま言った。
「あいつを、帰還の列で見た時」
「俺は、自分のことみたいに喜んだ」
一息で、水をあおる。
「生き残れたんだな、って」
「……彼女に、また会えるなって」
水を飲んだのに、掠れた。
「でも、あいつは」
言葉が、そこで途切れる。
バーツは、歯を食いしばった。
「その時から、様子がおかしかった」
「話が、噛み合わないんだ」
「それに……」
視線を落とし、吐き捨てるように言う。
「芯が無くなったみたいに、腑抜けちまった」
私は、何も言えなかった。
ロアンの顔が、頭に浮かぶ。
あの、困ったような目。
知らないものを見るような、静かな視線。
バーツの言葉は、残酷なほど、的確だった。
「……これから、どうする」
バーツが、ぽつりと聞いた。
視線は、卓の上に落ちたままだった。
「怖くなって、俺はエリシアの名前を、あいつの前で出していない」
胸が、ひくりと痛んだ。
バーツは、私を見ないまま言う。
「言って……みるか」
頭の中が一気に冷えた。
「それはだめ」
私は即座に言った。
声が強く出る。
「彼を、余計に混乱させるだけ」
「それに、もし……思い出さなかったら」
バーツが、ゆっくり顔を上げた。
言葉の先が、喉に引っかかる。
――彼に、中途半端な先入観を植え付けるだけ。
口からは、出なかった。
そんなのは。
「……許されることじゃない」
自分に言い聞かせるように、言った。
バーツは眉間に皺を寄せ、唇を噛む。
「なら、どうするんだ」
低く、重たい声だった。
私は、視線を落とした。
どうしたらいいのかわからない。
それでも。
「彼には、私のことは言わないで」
はっきり言った。
「どうするかは……今から考えるから」
逃げではない。
そう、信じたかった。
バーツは、長く息を吐いた。
そして。
「……わかった」
短く、そう言った。
その返事が、胸に重く残った。
何かが、静かに崩れていく。
私は、水瓶に映る自分の顔を見下ろした。
そこにいたのは、 待ち続けた女でも、恋人でもない。
ただ、 過去を手放せない者の顔だった。
◇
翌日の朝。
酒場は、いつもより早く人が集まっていた。
ミレディ、ゲラルト、従業員たち。
私は、皆の前に立った。
昨夜から、何度も頭の中で組み立てた言葉を、慎重に並べた。
ロアンは私のことだけを忘れていること。
私と彼の過去を、彼に直接明かさないでほしいこと。
沈黙。
ゲラルトが、真っ先に声を上げた。
「……なんでさ!」
椅子から半分、身を乗り出す。
「ロアンは帰って来たんだろ?そんな都合よく忘れる?」
「過去を言って、思い出してもらえば……」
「ゲラルト」
ミレディが、静かに遮った。
いつもより柔らな声だった。
「それで思い出さなかったら、どうなると思う」
ゲラルトは口を開きかけ、 何も言えず、ぱくぱくとさせた。
やがて、視線を落とし、口を閉ざす。
ミレディは、今度は私を見た。
「辛い判断だろう。お前は、それでいいのか」
責める色はなかった。
「わからない。これが、辛いことなのかすら」
私は、正直に答えた。
ミレディは短く息を吐いた。
「……そうかい」
それから、皆を見渡す。
「皆、聞いてたね」
低く、しかしはっきりとした声。
「エリシアのことを、尊重してやってくれ」
一人、また一人と、頷きが返る。
ゲラルトも悔しそうな顔のまま、 最後には小さく頷いた。
私はその光景を、静かに見ていた。
その夜。
踊りの舞台に立ったとき。
酒場の扉に視線が引き寄せられた。
人の影が揺れる。
酒の匂いと、ざわめきの向こう。
――赤い髪の、彼の姿。
一瞬、息が止まる。
いや、違う。
すぐに打ち消す。
きっと違う。
あんな、ぼんやりと立っている影。
あんな腑抜けた奴。
ロアンじゃない。
音楽に意識を戻す。
足を運び、腕を伸ばす。
身体だけを、舞台に残す。
客の顔は、もはや見なかった。
◇
今日はバーツと先輩騎士たちの意向で、 酒場は貸切になっていた。
生き残った騎士たちが集まり、 飲んで、食べて、騒ぐ。
笑い、肩を叩き、声を張り上げる。
生を実感するためのひととき。
血と死を越えてきた者たちの、 必要な時間。
私は壁際に立ち、 空になった皿を下げて回る。
この日ばかりは、 私の踊りも必要ないだろう。
誰も、それを求めていなかった。
笑い声の中で、私はただ給仕に徹していた。
ちらちらと、視界に映る赤い髪。
彼は、騎士たちの輪の中にいた。
肩を並べて杯を渡され、聞かれた時だけ喋っている。
その横顔を、盗み見る。
――違う。
想像しない。
宴は、次第に熱を帯びていった。
笑い声が大きくなり、酒の匂いが濃くなる。
赤い髪の人が、静かに席を立った。
誰にも声をかけず、扉の方へ向かう。
その背中に、私の視線は吸い寄せられた。
気づいたときには、私は盆を置いていた。
仕事を放り出して、 その背中を、追ってしまった。
外は、静かだった。
酒場の宴までが、嘘のように遠い。
港の匂い。 潮と鉄の混じった空気。
彼は、軒下に立っていた。
背中越しに見ても、 どこか、疲れた輪郭だった。
ああ。
あんなに、寂しそうにしていたから。
宴の中にいても、どこにも属していないみたいで。
あなたが、寂しそうだったから。
それだけで、 私は。
声をかけてしまうんだ。
「……騎士さま、お加減はいかがですか」
彼は振り返った。
目が合う。
明らかな、警戒。
幼い時の、私のよう。
それならば。
あなたが忘れてしまったなら。
私を忘れてしまったなら。
それでもいい。
私が代わりになるから。
私はもう一度、隣に立つから。
失くしたものの代わりになるから。
また、あなたの隣に立ちたいから。
ねえ、ロアン。
今度は。
私のことを見て。




