5話
私が酒場に雇われて少し経ち、生活にも慣れてきたころ。
ロアンは兵舎へ行き、木剣を持つようになった。
騎士になるための訓練が始まったのだ。
始める時期としては、少し早いくらいらしい。
ロアンたっての願いで、近所に住む後見人だという騎士に頼み込み、稽古をつけてもらうことになったという。
朝早く、兵舎を覗き見たことがある。
木剣を握る手はまだ細く、構えも不格好。
それでも、振るたびに息を吐き、何度も同じ動きを繰り返す。
私は、ただそれだけを見た。
「頑張って」
酒場で一緒にいるとき、軽い気持ちでそう言った。
ロアンは頷いて、はにかんだ。
このときの私は、まだ何も分かっていなかった。
ロアンが騎士になるとは、どういうことなのかを。
はじめの変化は、すぐに現れた。
昼になっても、ロアンが酒場に来ない。
訓練は毎朝やる必要がある。
兵舎で木剣を振り、基礎を叩き込まれる。
酒場の手伝いなんて、していられなくなって当然だ。
――それなのに。
ロアンは、訓練のあと、酒場に来た。
前より遅い時間に現れて、無言で袖をまくる。
重い荷物を運び、床を磨き、体を動かす。
最初のうちは、「これも訓練だろ」と言って笑っていた。
私も、ミレディたちも、言葉をそのまま受け取った。
力仕事も立ち仕事も、体作りのうちなのだと。
けれど、毎日見ているうちに、違和感が積み重なる。
樽を転がしたあとの、長い呼吸。
拭き終えたはずの床に、もう一度手をつく仕草。
ロアンの動きが、明らかに鈍り始めている。
それは、明らかに疲労だった。
私は皿を洗う手を止め、彼の背中を見ていた。
声をかけるべきか、迷ったまま。
ロアンは気づいていないふりをして、
いつもと同じように、仕事を続けた。
◇
ある日、ロアンが来なかった。
訓練があっても、必ず顔を出していたのに。
昼を大きく過ぎても、酒場の扉は開かなかった。
嫌な予感がした。
私は、思い切って頼み込んだ。
「……ミレディ」
「仕事、少しだけ抜けてもいいですか」
切羽詰まった声が出た。
ミレディは一瞬だけ私を見て、すぐに答えた。
「今日は帰らなくていい。行ってきな」
問い返しもしない。
すべてお見通しだとでも言うような雰囲気。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
それだけを言って、 酒場を飛び出した。
石畳を蹴る音が、身体に響く。
兵舎が見えたときには、 胸が焼けるように痛い。
息も絶え絶えで、 私は近くにいた騎士に駆け寄った。
「すみませんっ……」
声が裏返る。
「男の子……っ、ロアンは……っ、……いますかっ」
言葉の途中で、息が続かなくなる。
騎士は一瞬きょとんとしたが、私の様子を見てすぐに察したようだった。
「落ち着きな、嬢ちゃん」
低く、穏やかな声。
「男の子の友達かい?」
「はいっ、そうです」
声がまた裏返った。
騎士は顎に手をやり、短く考える仕草をしてから言った。
「なら、会ってやりな」
「兵舎の中にいる。案内してやるよ」
優しい騎士だった。
私は何度も頭を下げ、後を追った。
石造りの兵舎は、外よりもひんやりとしていた。
通路を進み、扉を一つ開ける。
案内されたのは、すぐ手前の部屋だった。
後から知った名前は、救護室。
中にはベッドがいくつも並び、薬の匂いが漂っていた。
中へ入ると、ベッドの間に青年が立っている。
バーツだ。
前に何度か会ったことがある。
ロアンの後見人になっている騎士の子供で、同年代の兄貴分。
彫りの深い顔を、さらに歪めている。
唇を噛み、視線を伏せていた。
視線の先に、ベッドに横たわる影。
ロアンだった。
胸の奥が、ひどく冷えた。
そのとき、青年がこちらに気づいた。
「君は……エリシアか。ロアンの友達の」
確かめるように顔を見る。
言葉の途中で、私は一歩踏み出した。
「ロアンはっ……どうしたんですか?」
声が、思ったよりも大きく響いた。
「落ち着け。寝てるだけだ」
そう言って、視線をベッドに戻す。
「訓練中、急に倒れたんだ」
「俺がもう少し、気にかけてやるべきだったな」
淡々とした口調だったが、悔いが混じっていた。
私は唇を噛んだ。
「私……気付いてたのに」
喉が詰まる。
「ロアンの言葉を、真に受けて……」
あの笑い方を、信じてしまった。
「……エリシア」
微かな声が、聞こえた。
反射的に顔を上げる。
ベッドの上で、ロアンが薄く目を開けていた。
「エリシアと、バーツのせいじゃ、ない」
かすれた声。
言葉の端が、途切れ途切れになる。
「ロアン……!」
私は駆け寄った。
ロアンは身体を起こそうとして、うまくいかない。
「俺を……止めないで、くれ」
息が荒い。
バーツが一歩前に出た。
「疲労がたまってる。じっとしてろ」
低く、有無を言わせない声。
ロアンは悔しそうに歯を食いしばった。
「じっとなんて、してちゃいけないんだ」
視線が、天井を彷徨う。
「俺には……なにも、ないから」
胸が上下するたび、言葉が削れていく。
「家柄も……仕事も……ないから」
「騎士に……ならないと……」
それらは願いというより、縛り。
「そうじゃないと……」
ロアンは、こちらを見ようとして、首を少し動かす。
「エリシアと……並んで、生きられないんだ」
その言葉が、胸に落ちた。
重くて、冷たくて、音を立てて。
私は、唇を開いた。
けれど、言葉は出なかった。
代わりに、私はロアンに近づく。
ベッドの脇に膝をつき、手を伸ばす。
そっと、その手を握った。
訓練でついた豆で固くて、熱い手。
心配だった。
自分を追い込むのを、やめてほしいと思った。
なのに。
私の心臓は、高鳴っていた。
ロアンの言葉を、私は嬉しいと拾ってしまった。
胸の奥で、否定できない感覚が膨らんでいく。
ロアン、私も。
あなたと並んで、生きたい。
私は、ロアンが好きなんだ。




