3話
あの日から、ロアンは毎日来た。
孤児院では、身寄りのない子どもにパンを配っていたからだ。
ロアンはそれを知っていた。
「パン、もらいに来た」
そう言って、当たり前のように列に並ぶ。
パンを受け取ると、必ずこちらを見る。
「パンもいいけどさ、やっぱり俺はスープがいいな」
「……私、掃除してるんだけど」
ほうきを動かしたまま、視線だけ向ける。
ロアンはそんなことは気にも留めなかった。
「ねえ、次に炊き出しが来るの、いつだろう」
「さあ。知らない」
「そっかあ」
納得したのかしていないのか分からない返事。
「もっとお金があればなあー」
空を仰いで、間延びした声を出す。
私は黙って、落ち葉を集めた。
どんなにそっけなく返しても、会話は終わらない。
質問が返らなければ、独り言になる。
それでも、声は止まらない。
一方的に、そこにいる。
「なんで、私に話しかけるの?」
「えっ?」
私はぶっきらぼうに言った。
「私なんかより、他の子と話したほうが楽しいと思う」
ロアンは眉を上げ、考えるように上を見た。
「そうかな」
「でも俺、ヒトミシリってやつだしな」
あっさりと、そう続けた。
炊き出しのとき緊張していた理由が、遅れて繋がる。
落ち着きのなさは、人見知りをしていたのか。
「それでも、私よりは楽しいはずよ」
ロアンは不思議そうに首を傾げた。
「いいじゃん、友達なんだし」
「……へっ?」
動きを止めた。
思ったよりも、間抜けな声が出た。
「どうしてそこで変な顔になるの?」
ロアンまで、呆けた顔をした。
「そんなこと、初めて言われたから」
私がそう言うと、今度は彼が目を瞬かせた。
「じゃあさ、俺が初めての友達?」
言葉が、喉でつっかえた。
私は黙ったまま、ロアンを睨むしかなかった。
別の日。
外に出たとき、いつもより空気が冷たいと思った。
足元が白い。
雪だ。
庭も、石畳も、低い屋根も、薄く覆われている。
北国の屋敷では、珍しいものでもなかった。
「なあ、これ何?」
ロアンがしゃがみ込み、足元を指差した。
「踏むとさ、シャクって沈む」
靴底で確かめるように、何度か踏みしめている。
「雪よ、氷の塊。知らないの?」
ロアンは顔を上げ、目を丸くした。
「初めて見た」
それから、地面に積もった白をじっと見つめる。
指で触れ、手のひらに乗せて、すぐに溶ける。
「……綺麗だな」
呟くように、そう言った。
私は素直に頷いた。
「そうね」
その直後だった。
「へっくし」
ロアンがくしゃみをした。
肩をすくめ、鼻を擦る。
「寒いんでしょ。帰ったら」
思ったままを言った。
ロアンは言葉に詰まった。
それから、視線を逸らす。
「家には、かえりたくない」
「帰っても寒いから」
珍しく、はっきりした口調だった。
冗談めかしてもいない。
私は眉をひそめた。
「でも、帰ったら風くらい防げるでしょ」
ロアンは足元の雪を踏みしめ、靴先で白を崩す。
「なんだよ、帰ってほしいの?」
「……ええ。そう。早く帰ってほしい」
即座に答えた。
「あなたなんか、友達でもなんでもないんだから」
言葉が止まらなかった。
間を北風が通り抜けた。
ロアンは、何も言わなかった。
表情も、変わらなかった。
ただ一度こちらを見て。
雪を踏みしめて去っていった。
ぎゅっ、ぎゅっ、と音を立てながら。
◇
それから、ロアンはパンを取りに来なくなった。
何日も、何日も。
掃除の時間に、声をかけられることもない。
――せいせいした。
ほうきを動かしながら、邪魔されることもない。
中途半端な沈黙に、付き合う必要もない。
静かで、規則正しい日々に戻ったのだ。
ふと、周囲を見渡す。
庭の隅、物置の影、いつも立っていた場所。
誰も、いない。
今日は、炊き出しの日だった。
酒場のお姉さんが今日も鍋を抱えてやってきて、
慣れた手つきで野菜や肉を放り込んでいく。
湯気が立ちのぼり、匂いが広がる。
子どもたちは自然と集まってくる。
私は列の後ろに立ち、周囲を探した。
……いない。
頭が勝手に下がる。
あいつは、何をしているの。
こんな日にも来ないなんて。
スープ、食べたいって言ってたじゃない。
このまま、もう来なくなる。
そう思った瞬間、身体が一気に冷え切った。
ためらいはなかった。
私は孤児院の敷地を出た。
歩いて、だんだんと早歩きになり、走る。
じっとしていられなかった。
広場。 市場。 住宅地。
人が多くて、視界が塞がれる。
「嬢ちゃん、どうしたんだ」
誰かに声をかけられた。
足を止める余裕などない。
私は逃げるように、その場を駆け抜けた。
気づけば、人通りのない住宅地まで出ていた。
胸が苦しく、喉が焼ける。
立ち止まり、呼吸を整えるために歩く。
軒の低い家が並ぶ通り。
知らない場所をしみじみと見渡す。
そのうちの一軒の軒下で、赤い髪の男の子が座っていた。
日差しを浴びるように壁にもたれて座り、空を見上げている。
……ロアン。
呼びかけようとして、すぐに声が出なかった。
近づくと、彼は気配に気づいたのか顔を上げた。
一瞬、目を見開き、困ったように笑う。
「なんだよ」
私は息を整えきれないまま、言った。
「炊き出しなのに、来ないから」
ロアンは視線を落とした。
何かを考えるような仕草。
そして、ゆっくりと話し出す。
「俺……嫌われたと、思った」
「エリシアに、嫌われたと思った」
鼻をすする音。
靴先で地面をこする。
「家に帰っても、寒くて」
「誰も、いなくてっ」
声が、少し揺れながら。
「父さんと、母さんっ、いなくて」
「そしたらっ、急にっ」
「寒くなって……っ」
言葉の途中から、息が乱れる。
だんだんと嗚咽が混じり、ロアンの顔が歪んだ。
堪えるように唇を噛んだが、追いつかなかった。
「…………っ」
彼は、顔をおさえて泣き出した。
――そっか。
私はただ立つ。
ロアンのことが理解できたわけじゃない。
でも、これだけは、肌身で分かった。
寂しかったんだ。
初めて会ったとき。
あんなにさらりと、平気そうに話していたのに。
どうしようもなく、寂しくて。
私の前に現れていたんだ、と。
そして、きっと。
私も。
私も、同じ。
急に、記憶が蘇った。
消したと思っていた記憶。
お茶を淹れてくれた従者。
物語を読み聞かせてくれた家庭教師。
叱りつけてくれた乳母。
誰も、もういない。
もう、二度と会えないんだ。
――寂しかったんだ。
胸の奥底まで、どんどん痛くなった。
顔が歪むのを抑えきれない。
私はしゃがみ込んで、顔を伏せた。
姿勢を変えても、痛みは変わらない。
手に大粒の涙が落ちる。
ロアンは泣きながら、こちらを見た。
それから、堰を切ったように声をあげて泣いた。
二人で、彼の家の軒下で泣き続けた。
声をあげて、泣き続けた。
わけも、順番も、分からないまま。
声を抑えることもできず、ただ涙がこぼれる。
近所の大人たちが気づくまで、
私たちは、ずっと泣き続けていた。




