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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
砂浜の踊り子

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30/44

1話

初めて見た海は広くて綺麗で、それだけで胸がいっぱいになった。

潮の香りに、海鳥の鳴き声を、身体で感じる。

馬車に乗せられ街道を進む私に、事態の深刻さは何も伝わっていなかった。


私は北の国の貴族の家に生まれた。

大きな屋敷で、厚い壁と重たい扉に囲まれて育った。


七つになるまで、私の世界は変わらなかった。

乳母が身の回りの世話をし、家庭教師が文字や数を教えた。


両親は、いつも忙しかった。

季節が巡るあいだ、一度も顔を見ないことも珍しくない。

それが当たり前だった。


変化は、静かに始まった。


ある日、一人の家庭教師が屋敷を去った。

優しい声で物語を読んでくれた人。

理由は知らない。


使用人が一人減った。

二人減り、三人減った。


食卓に並ぶ皿が、少しずつ簡素になった。

暖炉にくべられる薪が、目に見えて減った。


やがて、あまり面識のない上の兄弟たちが、順番に家を出ていった。

荷馬車に積まれた最低限の荷物。 振り返らない背中。


私は手を振った。

それが別れだとは思わなかったから。


そして、私自身が馬車に乗せられた。

どこへ向かうのかもわからないまま。


揺れる車内で、私は外を見る。

街道、知らない町。

そして、初めて見る海。


今なら分かる。

あれは、没落だったのだと。


私は何も知らずに、新しい世界に目を奪われていた。


やがて、馬車が止まった。


「降りましょう」


同乗していた乳母がそう言って、私の手を取る。

声が、いつもより硬い。


馬車から降りると、石畳と低い建物。

そこが何なのか分からないまま、乳母に導かれて中へ入った。


薄暗い廊下の先で、大人たちがいた。


「この子です。お願いします」

「ええ。わかりました」


落ち着いた、年配の男の声。


二人の会話を、私は他人事のように聞いていた。

話されているのは、きっと私のことなのに。


床のきしむ音。

壁に掛けられた木の十字架。


乳母は、私の前にしゃがみこんだ。


「いい子でいるのよ」


そう言って、私の髪を撫でる。

手が離れたとき、身体がが少しだけひんやりした。


私は呼び止めなかった。

わがままを言うと怒られていたから。


扉が閉まる。

それで終わり。


こうして、私の孤児院での生活が、始まった。





孤児院での暮らしは戸惑いの連続だった。

初めて海を見たときめきは、早くも消えかけていた。


規律や規則は、すぐに覚えることができた。

起きる時間、祈りの言葉、掃除の順番。

教えられたことをその通りにこなすのは、屋敷と同じ。


「覚えがいい子ね」


そう言われるたび、私は小さく頷いた。


問題は、別のところにあった。


同じ場所で暮らす子どもたち。

年の近い子も、少し年上の子もいる。


私と同じくらいの年頃の子どもを見るのは初めてだった。

屋敷には、同年代の子などいなかったから。


「ねえ、どこから来たの?」


食事の席で、向かいに座った女の子が聞いてきた。

私は、匙を止めたまま、答えに迷った。


どこから、と言われても。

家名も国名も、きっと通じない。


「……北の方」


今度は別の子が身を乗り出した。


「髪、黒いんだね。珍しい」


指差され覗き込まれる。

背筋を伸ばしたまま、動けなかった。


ご飯のときも、寝るときも。

同じ机、 隣の寝台。


屋敷では食事も寝室も、一人が当たり前だった。

ここでは違う。

みんな、私の事情など知りもしない。


夜、寝台に横になると、天井を見つめた。


屋敷を思い出す。

厚い壁。 重たい扉、静けさ。

私はすぐに、屋敷が恋しくなった。


私の反応が悪いと分かると、皆、次第に私に話しかけてこなくなった。

質問に答えない、 笑わない、視線を伏せる。

そういう態度は「つまらない子」なのだろう。


それでよかった。


孤児院の子どもたちは、入れ替わりが早かったから。


昨日まで隣で食事をしていた子が、次の日にはいない。

寝台が一つ空き、そこに別の子が入る。


「元気な子は、引き取り手が見つかりやすいのよ」


元気、という言葉の意味を、私は少しずつ理解していった。

よく笑うこと。 よく話すこと。 自分から近づいていくこと。


そういう子たちは特に、いなくなった。


私は、少しずつ、孤児院の中で輪郭を失っていった。

誰かの記憶に残らないように。


ここで静かに生きるための、私なりのやり方だった。


そんな生活が続いて、一年ほどが過ぎたころ。


孤児院の外では、ときどき炊き出しが行われる。

酒場で働いているという髪の短い女性が、鍋を抱えてやって来る。


子どもたちは自然と列を作る。

私も、その後ろに並んだ。


そのときだった。


「ね、ねえ、ここに並んだら、食べ物……もらえるかな」


背後から、少し高い声がした。


振り返ると、赤い髪の見覚えのない男の子が立っていた。

新しい子だろうか。

誰かに話しかけられたのは久しぶりだった。


「……し、知らない。べちゅの人に聞いて」


どもったし、舌がもつれた。

耳が熱くなる。

男の子はきょとんとして、ほっとしたように表情を緩めた。


「そ、そうだよな。お姉さんに聞いてみる」


そう言って、私の横を通り過ぎる。

前へ進んでいく背中は、さっきよりも軽やかに見えた。


私は気づいた。

語尾が不安定で、落ち着かないような雰囲気。

あの子、緊張してたんだ。


それが、私のまぬけな返答で和らいだとでもいうの。


――失礼なやつだ。


そう思いながらも、私は彼の背中から視線を逸らせなかった。


しばらくして彼は振り返り、手を振った。

どういう意味なのか、分からない。


私は真似をするように、ほんの少しだけ手を上げた。


それが、私たちの最初だった。


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