1話
初めて見た海は広くて綺麗で、それだけで胸がいっぱいになった。
潮の香りに、海鳥の鳴き声を、身体で感じる。
馬車に乗せられ街道を進む私に、事態の深刻さは何も伝わっていなかった。
私は北の国の貴族の家に生まれた。
大きな屋敷で、厚い壁と重たい扉に囲まれて育った。
七つになるまで、私の世界は変わらなかった。
乳母が身の回りの世話をし、家庭教師が文字や数を教えた。
両親は、いつも忙しかった。
季節が巡るあいだ、一度も顔を見ないことも珍しくない。
それが当たり前だった。
変化は、静かに始まった。
ある日、一人の家庭教師が屋敷を去った。
優しい声で物語を読んでくれた人。
理由は知らない。
使用人が一人減った。
二人減り、三人減った。
食卓に並ぶ皿が、少しずつ簡素になった。
暖炉にくべられる薪が、目に見えて減った。
やがて、あまり面識のない上の兄弟たちが、順番に家を出ていった。
荷馬車に積まれた最低限の荷物。 振り返らない背中。
私は手を振った。
それが別れだとは思わなかったから。
そして、私自身が馬車に乗せられた。
どこへ向かうのかもわからないまま。
揺れる車内で、私は外を見る。
街道、知らない町。
そして、初めて見る海。
今なら分かる。
あれは、没落だったのだと。
私は何も知らずに、新しい世界に目を奪われていた。
やがて、馬車が止まった。
「降りましょう」
同乗していた乳母がそう言って、私の手を取る。
声が、いつもより硬い。
馬車から降りると、石畳と低い建物。
そこが何なのか分からないまま、乳母に導かれて中へ入った。
薄暗い廊下の先で、大人たちがいた。
「この子です。お願いします」
「ええ。わかりました」
落ち着いた、年配の男の声。
二人の会話を、私は他人事のように聞いていた。
話されているのは、きっと私のことなのに。
床のきしむ音。
壁に掛けられた木の十字架。
乳母は、私の前にしゃがみこんだ。
「いい子でいるのよ」
そう言って、私の髪を撫でる。
手が離れたとき、身体がが少しだけひんやりした。
私は呼び止めなかった。
わがままを言うと怒られていたから。
扉が閉まる。
それで終わり。
こうして、私の孤児院での生活が、始まった。
◇
孤児院での暮らしは戸惑いの連続だった。
初めて海を見たときめきは、早くも消えかけていた。
規律や規則は、すぐに覚えることができた。
起きる時間、祈りの言葉、掃除の順番。
教えられたことをその通りにこなすのは、屋敷と同じ。
「覚えがいい子ね」
そう言われるたび、私は小さく頷いた。
問題は、別のところにあった。
同じ場所で暮らす子どもたち。
年の近い子も、少し年上の子もいる。
私と同じくらいの年頃の子どもを見るのは初めてだった。
屋敷には、同年代の子などいなかったから。
「ねえ、どこから来たの?」
食事の席で、向かいに座った女の子が聞いてきた。
私は、匙を止めたまま、答えに迷った。
どこから、と言われても。
家名も国名も、きっと通じない。
「……北の方」
今度は別の子が身を乗り出した。
「髪、黒いんだね。珍しい」
指差され覗き込まれる。
背筋を伸ばしたまま、動けなかった。
ご飯のときも、寝るときも。
同じ机、 隣の寝台。
屋敷では食事も寝室も、一人が当たり前だった。
ここでは違う。
みんな、私の事情など知りもしない。
夜、寝台に横になると、天井を見つめた。
屋敷を思い出す。
厚い壁。 重たい扉、静けさ。
私はすぐに、屋敷が恋しくなった。
私の反応が悪いと分かると、皆、次第に私に話しかけてこなくなった。
質問に答えない、 笑わない、視線を伏せる。
そういう態度は「つまらない子」なのだろう。
それでよかった。
孤児院の子どもたちは、入れ替わりが早かったから。
昨日まで隣で食事をしていた子が、次の日にはいない。
寝台が一つ空き、そこに別の子が入る。
「元気な子は、引き取り手が見つかりやすいのよ」
元気、という言葉の意味を、私は少しずつ理解していった。
よく笑うこと。 よく話すこと。 自分から近づいていくこと。
そういう子たちは特に、いなくなった。
私は、少しずつ、孤児院の中で輪郭を失っていった。
誰かの記憶に残らないように。
ここで静かに生きるための、私なりのやり方だった。
そんな生活が続いて、一年ほどが過ぎたころ。
孤児院の外では、ときどき炊き出しが行われる。
酒場で働いているという髪の短い女性が、鍋を抱えてやって来る。
子どもたちは自然と列を作る。
私も、その後ろに並んだ。
そのときだった。
「ね、ねえ、ここに並んだら、食べ物……もらえるかな」
背後から、少し高い声がした。
振り返ると、赤い髪の見覚えのない男の子が立っていた。
新しい子だろうか。
誰かに話しかけられたのは久しぶりだった。
「……し、知らない。べちゅの人に聞いて」
どもったし、舌がもつれた。
耳が熱くなる。
男の子はきょとんとして、ほっとしたように表情を緩めた。
「そ、そうだよな。お姉さんに聞いてみる」
そう言って、私の横を通り過ぎる。
前へ進んでいく背中は、さっきよりも軽やかに見えた。
私は気づいた。
語尾が不安定で、落ち着かないような雰囲気。
あの子、緊張してたんだ。
それが、私のまぬけな返答で和らいだとでもいうの。
――失礼なやつだ。
そう思いながらも、私は彼の背中から視線を逸らせなかった。
しばらくして彼は振り返り、手を振った。
どういう意味なのか、分からない。
私は真似をするように、ほんの少しだけ手を上げた。
それが、私たちの最初だった。




