29話
出立の日。
彼女の姿は、どこにもなかった。
俺はそれでいいと思った。
彼女の辛そうな顔を、見なくて済む。
別れの言葉を、また重ねなくて済む。
それに――必ず、帰ってくるのだから。
前回とは、条件が違う。
先頭部隊の騎士ではない。部隊をまとめる隊長だ。
部隊長というだけで、今回は馬まで貸与された。
死が近い仕事であることに変わりはないが、
「必ず死ぬ」と言われて送り出された部隊を、俺はすでに経験している。
あれを越えたのだ。
そうそう、死ぬとは思えなかった。
それでも。
馬があったとて、経験があったとしても、道中は楽ではなかった。
ぬかるんだ道。
夜営の寒さ。
部下の不安と、無言の期待。
進むたびに、身体よりも先に神経が削られていく。
詳細を思い返す気には、なれない。
思い出したくもなかった。
今はただ――
前を向いて、進むだけだった。
そうして幾日も歩き続け、大きな部隊と合流した。
本部隊。
見渡す限りに人がいる。
整列する隊列、林立する天幕、絶え間なく行き交う伝令。
これまで見てきた人数とは、桁が違った。
俺たちは、その一部隊として編入される。
名を呼ばれ、位置を示され、命令系統に組み込まれる。
身体が重くなった。
ここから先は、逃げ場がない。
今さらになって、戦争の実感が沸き立った。
押し潰されそうな数と、終わりの見えなさ。
それが、じわじわと身体に染み込んでくる。
俺は無意識に、懐へ手をやった。
紫色の手袋に触れ、強く握りしめた。
持ってきた私物といえるものはこれと、
何となく手放せなかった紫色の肩掛けだけ。
戦いまで、残り数日だろうか。
陣地の配置、補給の確認、部下への指示。
やることは多く、暇がないほど忙しい。
ふとした瞬間に、頭の隙間から不安が顔を出す。
落ち着け。
俺なら、できる。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
部下だっている。
俺の背中を見て、歩く者たちだ。
ここで揺らげば全員が崩れる。
自分を掻き立て、部下を掻き立て。
声を張り、姿勢を正し、弱音を飲み込む。
俺は、そうして辛い数日を過ごした。
心を削りながら、それでも生きるために。
◇
合図とともに、戦いが始まった。
広い平野だった。
視界を遮るものはほとんどなく、地平線まで続く草地が、これから血で汚れることだけがはっきりと分かる。
怒声と、激しい足音。
数万の人間が同時に動く音は、もはや音ではない。
地鳴り。
大地そのものが唸り、空気が震える。
俺たちの部隊は、新兵の集まりだ。
緊張で強張った顔、浅い呼吸。
槍を握る手に、無駄な力が入っているのが分かる。
役割は明確だ。
主力の脇を固め、矢を射て本部隊に取りつこうとする敵を受け止める。
引き剥がし、槍でいなし、前線を保つ。
前へ出すぎるな。突っ込むな。
俺は何度も叫び、腕を振って指示を出した。
戦況は——順調だった。
前方で相手の部隊が崩れたのを見逃さず、俺たちは動く。
「今だ! 前へ!」
声を張ると、部下たちが一斉に応じた。
騎馬での突進は、一人でも想像以上に効果があった。
新調された鎧が衝撃を受け止め、馬の体重が敵の陣形を押し潰す。
槍撃を受け流し、間合いを外し、反撃する。
一人を倒せば、次が怯む。そこを逃さない。
接近の気配は、馬上にいるからこそ早く察知できた。
「右だ! 寄せるな!」
叫ぶと同時に、身体が動く。
初めての隊長ながら、これ以上はないほど順調だった。
俺たちは流れの中に身を置き、部隊を前へ前へと進めていた。
このままいけば——
そう思った瞬間だった。
横から、地鳴りのような音が響いた。
一拍遅れて、地面が揺れる。
蹄が叩きつける振動が、骨を通して伝わってくる。
騎馬だ。
近い。
かなり、速い。
気付くのが遅れた。
視線を走らせるより先に、嫌な予感が胸を突いた。
敵の騎馬隊。しかも、正面からではない。
横合い——いや、後方もいる。
――遊撃か
声に出す暇もなかった。
本部隊を狙った突撃だろう。
主戦線が拮抗している隙を突き、脆いところを食い破るつもりか。
助けを呼ぶには、距離が近すぎる。
伝令を走らせる時間もない。
俺たちだけで、しのぐしかない。
直感で、そう理解した。
迷っている暇はなかった。
「迎撃しながら引け!」
喉が裂けるほど声を張る。
「本隊へ合流!」
腕を大きく振り、退路を示す。
部下たちは一瞬の動揺のあと、命令に従って動き出した。
敵騎馬の先頭が視界に入る。
数は多くないが、勢いがある。突撃に特化した編成だ。
「構えろ! 突っ込むな、受けて流せ!」
槍の穂先が一斉に向きを変える。
最初の衝突。
鈍い衝撃が腕を打ち、馬がいななく。鎧越しでも、骨に響く。
一度、二度。
押し返しながら、じりじりと後退する。狙い通りだ。形は崩れていない。
——いける。
そう判断した、そのときだった。
前方から、何かが飛んできた。
気づいた時には、遅かった。
衝撃。
身体が弾かれ、視界が反転する。
息が一気に吐き出され、声にならない音。
次の瞬間、宙を舞っていた。
地面が迫る。
馬から、落ちた。
叩きつけられる衝撃に、肺の空気がすべて押し出される。
視界の端で、矢が見えた。
——腕だ。
右腕を、矢が貫通していた。
鎧の隙間を正確に抜き、肉を割って突き刺さっている。
遅れて、焼けるような痛みが走った。
指先が言うことをきかない。
俺は必死に身体を起こそうとした。
頭に血が上った。
視界が赤く滲む。
息がうまく入らない。
目の前に、敵の騎馬兵がいた。
馬上から見下ろし、ためらいなく槍を構えている。
動け。
動け。
身体に命じるが、応えが遅い。
次の瞬間が、もう来ていると分かる距離。
——そのとき。
頭に廻ったのは、場違いなほど静かな光景だった。
走馬灯、なのだろうか。
幼いころ、両親を失っていたときの空。
酒場で、黙々と荷物を運んでいた時間。
浜辺で、交わした約束。
どれも断片で、順序もない。
ただ、確かに自分の人生だ。
そして、そのすべてに。
隣に、ひとりの女がいた。
黒髪の女だ。
エリシア。
ああ。
やっぱり。
君だったんだな。
ようやく、顔がわかったよ。
胸の奥で、納得する。
納得した今。
ひとつだけ、強く思う。
帰りたい。
彼女のところへ。
――帰りたいなあ。




