20話
しばらく俺は、普通の生活を心掛けた。
朝は兵舎で訓練、昼になれば酒場へ向かい、下働き。
身体は、いつも以上によく動いた。
無駄がなく、止まらず、疲労すら後から追いかけてくる。
周囲から見れば、さぞ勤勉に映っただろう。
本当はただ、頭を空にしていたかっただけだ。
何も考えなければ、光景も言葉も、出てこない。
そう思っていた。
だが、現実は完全には切り離せない。
訓練の合間、酒場の隅、ふとした瞬間に名前を呼ばれた。
エリシア、バーツ、ゲラルト。
それぞれが、俺を外へ引き出そうとした。
言葉は違っても、向けられる視線は同じだ。
俺は、やんわりと断った。
バーツに対しては、距離を取った。
近づけば、また何かを問い詰めてしまいそうだったから。
ゲラルトには、踏みとどまった。
あいつは子供だから、今の俺を向けていいはずがない。
そして、エリシア。
顔を合わせるたび、安堵と同時に、何かが広がっていく。
視線が合うだけで、胸の奥がざわつく。
声を聞けば、意識が引き寄せられる。
存在だけが、強くなる。
俺の頭が作り出す場面は、確実に俺を蝕んでいた。
日を追うごとに、曖昧だった像はくっきりとしてきた。
影、景色、匂いといった細かい部分だけ、確信が伴ってきた。
そればかりか、俺自身の感情まで、ありありと浮かび上がってくる。
重く、逃げ場のない感情が。
意識とは無関係に塗り替えられていた。
現実の音や匂いに、別の感触が混ざり込む。
顔すら分からない女に、重い感情が乗っている。
からっぽな俺の中へ、伸ばしてしまった腕。
取り返しのつかないものを、拾った感覚。
それが怖くて、俺は今日も、動き続けていた。
◇
夜も更け、酒場の喧騒は次第に角を落としていった。
酔客の笑い声が間延びし、椅子を引く音も疎らになる。
食事を終えたあと、俺は蒸留酒を頼んだ。
普段の俺は、強い酒を飲んでもあまり酔わない。
だが、その日は違った。
杯を傾けると、喉が熱を持ち、頭が軽くなる。
熱が頭に上がり、思考が軽く、薄くなる。
輪郭が、緩む。
境界が曖昧になり、身体だけが先にほどけていった。
「……お酒、珍しいですね」
声に呼ばれて、視線を上げる。
カウンター越しに、エリシアがいた。
手を止め、少し身を乗り出して覗き込んでいる。
いつもと変わらない、柔らかな声。
「金もあるし、たまには飲んでみたくなった」
俺はそう答えた。
少なくとも、今の自分には一番しっくりくる理由だった。
「知見を広げるのは、いいことですわ」
「でも……今の貴方は、少し違います」
言い切られるような言葉。
反射的に何か言い返そうとして顔を上げるが、エリシアは視線を外さない。
「何か、ございました?」
視線が正面から交わる。
何でも受け止めてくれそうな目。
いや、それは、ただの願望か。
俺は一度、杯を置いた。
指先が、わずかに震えている。
言うつもりはなかったのに。
その場に流れている酔いに、背中を押されたんだ。
「……最近、白昼夢を見るんだ」
「見知った場所で、知らない女と、俺がいる夢を」
言葉にした途端、胸の奥がざわつく。
エリシアは少しだけ口元が固くなったように見えた。
けれど彼女はすぐにそれを消して、静かに聞く側の姿勢になる。
もう、引き返せない。
「場所は分かるんだ。市場、広場、酒場に、孤児院」
「なのに、女の姿だけが分からない。顔も声も、背格好も、何も」
喉の奥が、ひくりと鳴る。
一瞬、言葉が詰まった。
「分からないのに……場面だけが、出てくるんだ」
「女が何を言ってるのか、俺がどう答えるのか、細かいところまで」
エリシアは口を挟まない。
ただ、俺から目を離さない。
「俺の気持ちまで、先に用意されてる」
「代弁されてるみたいに、既にあるんだ」
杯を持ち上げ、一口飲む。
熱くなった喉を押さえ込むように、深く息を吸った。
「……俺は、その女を愛していた」
世界が一段、静かになった。
言ってしまってから、ようやく自覚した。
あまりにも、大きな感情。
疑いようがないほど、重い。
酔いとは別の熱が、身体の奥で広がる。
「俺は、忘れているのか?」
声が低く、掠れた。
酒を喉に流し込み、誤魔化す。
「愛した女を忘れているから……こんなにも、空虚なのか?」
杯の中は、もう空だった。
「なら、どうしてだ」
顔を上げる。
視線が彼女を探していた。
「どうして、俺は忘れてしまったんだ」
「なぜ俺は一番大切なものを、忘れてしまったんだ!」
言い切った瞬間、何かが切れた。
堪えていた糸が、音もなくほどける。
視界の端が滲む。
目尻に冷たい感触。
触れなくても、落ちたのが分かる。
慌てて瞬きをしても、滲みは広がるばかり。
そして。
彼女の目にも、細い水の筋があった。
光を反射して、くっきりと。
なぜ、君まで。
エリシアは口元を固く結ぶ。
必死に崩れるのをこらえるように、俺を見ていた。




