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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
からっぽな騎士

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19話

俺は今日も、夜の酒場の前に立った。

湿った夜気と、向こうから漏れてくる騒がしさ。

いつもの光景だ。


戸に手を掛け——動きを止めた。


声が聞こえた気がした。


聞き慣れた声だったので、耳に引っ掛かる。

似ている、いや、近い。

彼女の声に。


反射的に耳を澄ます。

酒場の中からではない。


俺は戸から手を離し、建物の脇へ回った。

正面口から外れた、荷や空樽を一時的に置くための場所。

灯りは乏しく、影が濃い。


暗がりに目を凝らす。


黒い髪が、かすかに揺れた。

外套の影から覗く輪郭を見ただけで、分かった。。


エリシアだ。

壁に背を預け、こちらには気づいていない。


彼女のすぐ傍に、もう一人。


金色の髪がわずかな灯りを弾き、彫りの深い顔に濃い影を落としている。

暗がりでも、輪郭が崩れない。


バーツだった。


なぜ、この二人が一緒にいる。

問いの答えを探す前に、口元の動きが目に入る。

喋っている、それだけが分かる。


胸の奥が、きつく締め付けられた。

血が一気に巡り、体の内側が熱を持つ。

名前の付けようのない、刺すような感情。


次の瞬間、それは消えた。

別の違和感が浮かび上がってきたからだ。


俺と、女と、バーツまでいる。


場所は分からない。

女は座っている。


バーツとの距離だけ、異様に近い。

近いどころか、俺の襟を掴んでいる。

布が引きつり、呼吸が詰まる感覚。


『お前には、失ってはいけないものがあるだろう!』

『だからだろ!』


今までで一番、はっきりしていた。


声は音ではなく、意味を伴った。

頭の内側に直接叩きつけられる。


怒りだけが伝わる。

声を荒げ、バーツが叩きつけるように叫んでいる。


——俺も同じ声量で言い返していた。


これが、本当に俺なのか。

喉が焼けるような感覚まで、感じられそうだった。


手先が冷え、息が早くなる。

現実に戻った俺は、暗がりにいた。


エリシアとバーツは、まだそこにいる。


耐えきれなくなって、俺は踵を返した。

とにかく、ここから離れたかった。


家に辿り着くまでの道を、ほとんど覚えていない。

気づけば扉の前にいて、それを閉める。

扉に背を預けて、ようやく息を吐いた。


頭の中が、静かになる。

考えが、沈殿していく。


いや、考えたくない。

早く寝て、忘れたい。


それだけを頼りに、俺は寝台に身体を沈めた。





翌朝の兵舎は、昨日までと変わらない。

湿った木の匂いに、汗の残り香。

鎧や靴が床を打つ音。


見慣れたはずの光景だ。

俺の感覚だけが微妙に噛み合っていない。

現実が、半歩遅れて追いついてくる。


寝られはした。

だが、十分だったとは言えない。


訓練が始まると、身体は勝手に動いた。


剣を振る角度、踏み込みの距離。

考える前に決まる。

反復の中で染みついた動きだ。


考える必要はない。

だが、隙間に入り込んでくる。


女、金色の髪、距離、違和感。

断片のまま浮かんでは消える。

確実に、邪魔だった。


休憩のため、各々が水を取りに散る。

俺は、自然な流れを装ってバーツの方へ向かった。


「昨日、酒場にいたよな」


俺は、呼吸を整えてから声を掛けた。

感情を含まず、平坦に出た。


バーツは動きを止め、水袋を持ったまま、ゆっくりとこちらを見た。


「……見られちまったか」


いつも通りの軽い口調。

冗談めいた響きさえある。

だが、目が違う。


逃げも逸らしもない、真っ直ぐな視線。


「酒場の踊り子と、仲が良かったのか」


バーツは答えず、水袋の口を締めた。


「言えないのかよ」


俺の声は低くなった。

沈黙が、意図的なものだと分かる程度には長い。


バーツは、息を吐いた。


「すまない。言えないんだ」


頭に、昨夜の違和感が戻ってくる。

意外なほど、すんなり出た。


「……昔のこともか」


「俺の胸倉を掴んだことも」


バーツの目が大きく見開かれる。

驚きが、そのまま表に出た様子。


「お前、思い出したのか」

「やっぱり、何かあったんだな」


俺が首を振ると、バーツは小さく舌打ちした。

苛立ちか、あるいは別の感情か。


「はっきりとは、思い出していなかったか」


「バーツ。俺に何か隠してないか」


一歩踏み込み、声を落とす。

周囲には他の兵がいるが、この距離なら届かない。


「なぜなんだ。教えてくれ」


詰めるような問いが止められなかった。

バーツは、しばらく俺を見返していた。

視線を逸らす様子はない。


「さっきも言ったが……俺からは言えない」

「それに、俺には何もできない」


声は低く、細い。

冗談を挟む余地もない。


俺は言葉を失った。


「信じてくれなくていいが」


バーツは視線を外し、兵舎の奥を見た。


「ロアン、お前は味方に恵まれている」

「それを、大切にな」


それだけ言うと、彼は背を向けた。

何事もなかったように訓練へ戻っていく。


残された俺は、その場で呆然とした。


言われた意味は、分からない。

問いへの答えも、一つも得られていない。


ただ一つ、はっきりしたのは。


俺の知らないところで、何かが動いている。

止めることも、触れることもできないまま、俺だけが取り残されている。


その感覚だけだった。

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