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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
からっぽな騎士

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18話

俺はいつものように酒場へ向かっていた。

空はまだ明るさを残しているが、通りには帰路につく人の影が増え始めている。

昼と夜の境目。俺はその流れに逆らわず、足を運ばせていた。


その途中だった。


『なあ、次は向こうまで行ってみようよ』


俺の声、俺の目線。


『嫌。遠いもの』


即座に返る声。

はっきりとした拒否。


――これで、何度目だろうか。


足を止めることなく歩きながら、俺は眉をひそめた。


兵舎で、酒場で、そして家で。

俺は何度も、頭の中でちぐはぐな場面を作り出していた。


決まって現れるのは、俺と女。

顔も年齢も分からない。

そこにいる俺がどんな気分なのかすら、想像するしかない。

ただ会話だけが浮かび、短く、途切れ途切れに湧き出てくる。


演劇を見たら、こんな感覚になるのだろうか。


俺は歩きながら、こめかみに指を当てた。

頭痛はない。

なのに確実に、消耗している。


夕暮れの空が、少しずつ色を落としていく。

酒場の看板が目先に見えた。


俺は息を整え、視線を前に戻す。


酒場の戸を開けた。


「いらっしゃい、ロアンさん」


出迎えたのは、あまり言葉を交わしたことのない従業員だった。


酒場には何人か従業員がいる。

名前を知らない、というほどではない。


それが普通なのだ。

俺は客で、彼らは働き手だ。


「ご注文は?」


丁寧な声。


「煮込みと、パンを。今日は酒はいらない」


「わかりました」


短く答え、従業員は厨房の方へ向かった。

空いている席を見つけ、腰を下ろす。


エリシアはいなかった。


最近は、出迎えが彼女でないだけで、こんな感覚になる。


おかしな話だ。

俺と彼女は、ただの客と従業員のはずなのに。

視線は、無意識に給仕の動線を追ってしまう。


思っている以上に、彼女の存在を当てにしているのか。


自覚した途端、胸の奥がむず痒くなった。


「どうぞ」


皿が卓に置かれる音。

顔を上げると、エリシアだった。


「ロアンが来てるって聞いて、来ちゃいました」


そう言って微笑む彼女は、踊り子の衣装のままだった。

外套を羽織ってはいるが、隙間から見える布や装飾が、酒場の灯りを受けて柔らかく光っている。


顔に血が巡るのが分かった。


「……ああ、ありがとう」


穏やかに応じたつもりだった。

だが、思った以上にぶっきらぼうな言い方になってしまう。


エリシアは気にした様子もなく、当然のように俺の前へ腰を下ろした。


「今朝、丸々とした大きな鶏が入っていたの」


身振りを交えて、少し誇らしげに言う。


「暖かいうちに、食べてください」

「……ああ」


匙を取って、煮込みに伸ばす。


「熱っ」


思わず声が漏れた。


「ふふっ」


エリシアは楽しそうに笑う。


「暖かいうちに、ゆっくり食べてね」


そんなやりとりだけで、疲弊していたはずの心は元に戻っていた。


俺は湯気の立つ煮込みを前に、黙って匙を動かし続けた。

エリシアはそれを眺めながら、楽しげに微笑んでいた。





家に帰った。

夜気を含んだ空気が、扉を閉めたあとも肌に残る。


外套を脱ぐ。

灯りもつけず、ベッドへ向かう。

俺はそのまま身体を投げ出した。


古い木が軋む音。

天井を見上げながら、深く息を吐く。


料理は美味しかった。

湯気の立つ皿、香辛料の匂い、熱が胃の底へ沈んでいく感覚。

腹の奥まで温まり、身体も、確かに楽になっている。


満ち足りている。


なら、この気持ちは何なんだ。


満たされているはずなのに、胸の内側に空いたままの場所がある。

そこに、居座るように現れたものがあった。


ないはずの、記憶。


探していたはずなのに。


俺はそれを探し続けていたはずなのに。

手掛かりが見えた途端、手に余る感覚。


俺と、女。


探し物というのは、この女のことなのだろうか。

女は一体、俺にとって何だというのか。


この女を忘れているから、俺は空虚なのか。


答えは出ないまま、思考だけが同じ場所を回り続ける。


ふいに、別の顔が浮かんだ。


――エリシア。


酒場の灯りの中で、彼女を見たとき。

心が嘘のように和らいだ。


急に、礼を言いたくなった。


彼女が失くした者に対しても、こんな気持ちだったのだろうか。


考えは途切れず、輪のように巡り続けた。

やがて、天井の輪郭がぼやける。


意識が沈む。


問いも名前も形を失っていく。


気が付いたときには、天井を見上げたまま。

俺は眠りに落ちていた。

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