17話
酒場が休みの日。
朝の町は、昼や夜とは別の顔をしている。
露店が賑やかに並び、人の声が広場に反響し、子供も大人も動き回っていた。
広場で、俺は立ち止まる。
「また、町を歩きましょう」
酒場でそう誘ってきたのはエリシアだった。
約束の時間より少し早く来たはずなのに、彼女の姿はすでにあった。
隅に立ち、周囲を眺めている。
見慣れた外套ではない。
色味が少し明るく、仕立ても柔らかい。
いつもより、着飾っている気がした。
「おはよう」
声をかけながら、俺は歩み寄る。
服の変化に触れた言葉を続けようとして、喉で止まった。
照れくささが先に立つ。
「おはよう、ロアン」
エリシアは立ち上がり、こちらを向いた。
「今日の服、新しくしてみたの。どう?」
俺の内心を知ってか知らずか、ころころと楽しそうに聞いてくる。
「あっ、ああ……」
視線が彷徨った。
「似合ってる……と思う」
簡単な誉め言葉のはずなのに、すんなりと出なかった。
エリシアは一拍置き、それから柔らかく言った。
「ありがとう」
十分だと告げる様子だった。
広場の鐘が鳴り、町の一日が本格的に動き出す。
人波の中へ歩き出しながら、俺は思う。
夜の酒場とは違う時間が、積み重なっていくのだと。
エリシアが立ち止まった。
「何か、したいことはある?」
振り返って、首を傾げる。
「それは俺が聞きたい。しておきたいことは、あるか」
エリシアは一瞬だけ考える仕草をして、それから曖昧に笑った。
「んー……」
視線が露店の並ぶ通りへ流れる。
「とりあえず、市場を見てみましょうか」
「分かった」
そう答え、人波へ足を踏み入れる。
流れに身を任せるような提案だった。
そもそも、町を歩くことにお互い主体性はない。
俺はそれを、悪くないと思った。
探し物を急ぐ気持ちは、希薄になりつつあった。
忘れた記憶なんて、手を伸ばしてすぐに届くものではない。
それを、悟ったのかもしれない。
『急いでも、結果は出ないわ。ゆっくり探しましょう』
浜辺で聞いた、あの言葉。
俺はその言葉にならおうと思った。
焦らず、立ち止まらず、今ある景色を見失わずに。
――その考えに至った後だったのに。
「見て、鮮やかな果物」
不意に、エリシアが足を止めた。
露店の一つを指さし、こちらを振り返る。
「買ってみましょうか」
問いかける調子だった。
赤や橙、深い紫などが山と積まれた果物。
その光景を目にしたときだった。
別のものが、重なる。
『鮮やかな果物だな。どんな味なんだろう』
すぐ隣から、別の声が続いた。
『ロアン、それは頼まれてないわ』
やんわりと、少し呆れた調子。
――なんだ、これは。
俺と、女?
違和感もなく、頭の中に、その記憶が収まっている。
まるでずっと前から、そこにあったかのように。
頭痛すら、ない。
俺は、足を止めたまま、両手で頭を押さえた。
「……ロアン?」
心配そうな声が、現実へ引き戻す。
エリシアが、すぐそばに立っている。
俺は顔を上げた。
「……いや、大丈夫だ」
無理に口角を上げた。
露店の商品を、改めて見渡す。
「買っていこうか、果物」
「ええ」
エリシアは嬉しそうに頷く。
「果物と、それから……いくつか屋台で買って、昼食にしましょう」
そう言って、彼女は露店の前に一歩踏み出した。
一つ一つ、色合いを見比べ、形の揃い具合に小さく首を傾げる。
さっき頭をよぎった断片が、また上がりそうになる。
だが。
今はひとまず、置いておくことにした。
籠に果物が収まり、代金を支える音がする。
「次は、何を買う?」
エリシアが振り返る。
その問いに、俺は肩をすくめた。
「腹にたまるものだな」
「ふふ、賛成」
彼女は人波の中へ歩き出す。
俺はその後ろを追いながら、市場の喧騒に身を委ねた。
◇
俺の家に着いたときには、太陽が真上まで登っていた。
扉を開けると、少しひんやりとした空気が肌を撫でた。
「お邪魔します」
エリシアは迷う様子もなく中へ入り、軽く辺りを見回す。
「整ってる」
感心したような調子だった。
「必要なものしか、置いていないだけだ」
そう答えながら、俺は卓の上を片づける。
袋の中身を並べると、昼食には十分すぎる量になった。
香ばしい香りの残るパンと、焼いた肉と野菜の串を何本か。
赤と橙の果物が、窓からの光を受けて艶を放っている。
「さ、食べましょうか」
エリシアは自然な動作で椅子を引き、腰を下ろした。
俺の家に居ても、物怖じした様子はない。
少し意外で、妙に落ち着いた。
俺が肉の串に手を伸ばすと、 エリシアは迷わず赤い果物を取った。
「果物から先に食べるんだな」
何気なく言うと、エリシアは一口かじり、
少し考えるように首を傾げる。
「今日は、そんな気分だったの」
その言葉に、胸の奥がひくりと反応した。
『あなた、果物から食べるの?』
『気分なだけだよ。今日だけ』
重なる声。
まただ。
どこだろうか。
家、ではない気がする。
エリシアの姿に、重なって浮かんだ。
――これは、よくない。
きっと幻影だ。
俺が忘れた記憶を戻したいと、心のどこかで願っているから。
無意識にエリシアと重ねているだけだ。
「うん、瑞々しくて美味しい」
現実の声が、思考を断ち切る。
エリシアは、果汁で少し濡れた指先を拭いながら笑った。
「ああ、肉も美味いぞ」
串にかぶりつく。
考えるよりも、彼女と食事を楽しむ方が大事だ。
俺はそう結論づけた。




