16話
昼。
俺は酒場の手伝いで荷車を転がしていた。
漁港は昼でも人が多い。
魚の匂いと呼び声が混じり合い、潮風が絶えず吹き抜けている。
「一番きつかったのは、戦ってる時じゃない」
木の車輪が石畳の継ぎ目で跳ねるたび、
腕から肩に小さな衝撃が返ってくる。
俺は荷物を積み込んだ帰りの道すがら、
ゲラルトに戦争のことを話していた。
「道中だ。鎧を着込んで、何日も歩き続けるのが辛かった」
ゲラルトは目を丸くした。
「そうなの? 戦争中じゃなくて?」
「ああ」
俺は前を見たまま答える。
「戦争そのものは、一瞬だった。少なくとも、俺にとっては――」
そこまで言って、言葉を切った。
鎧の重さ。土埃。夜明け前の冷え込み。
ここまで話す必要はないだろう。
ゲラルトはそれ以上促さなかった。
代わりに、荷車の縁に乗せた指先をもじもじさせて言った。
「俺さ、ロアンは……、もう帰ってこないんだと思ってた」
「先頭部隊に行ったって聞いたから」
「生きて戻れるやつなんて、いないって」
「だからさ」
「帰ってきたって聞いた時、正直、信じられなかった」
潮風が吹き抜け、荷車の木枠が小さく鳴った。
少しだけ視線を落とし、続ける。
「……でも、戻ってきたロアンは」
「元気、なかった」
俺は否定も肯定もせず、ただ荷車を押す手に力を込めた。
ゲラルトは、俺の横顔を盗み見るようにして言う。
「でも最近は、少し、元気になったみたいでさ」
「俺、嬉しいよ」
短い言葉が、胸に染み込む。
俺はしばらく黙って歩き、それから答えた。
「なら……あの踊り子のおかげかもしれないな」
自分でも意外なほど、素直な言い方だった。
ゲラルトが足を止める。
「踊り子?」
眉をひそめて、すぐに言い直した。
「エリシアが?」
「ああ」
荷車を押す手を緩め、前を見たまま続ける。
「どうして俺に構うのかは、まだ分からないが」
「でも、救われてるのかもしれないな」
大げさ、かもしれないが。
言葉を選びながら、ゆっくりと。
潮風が、二人の間を抜けていった。
ゲラルトは何も言わず、歩調を合わせ直す。
横顔は、何かを言いたげな様子を感じ取れた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そっか」
短い相槌。
それから、少し考えるように視線を落として言った。
「エリシアは……すごいな」
感心とも、納得ともつかない声音だった。
荷車の軋む音だけが、しばらく続く。
やがて、酒場の裏口が見えてきた。
俺とゲラルトは荷車を止め、積み荷を一つずつ下ろしていく。
樽を転がし、布袋を抱え、壁際に寄せる。
「……そういえば」
手を止めずに、ふと思ったことを口にする。
「エリシアを、昼間の酒場で見たことがないな」
木箱を置き、息を整える。
「住み込みの従業員じゃないのか?」
ゲラルトは一瞬、手を止めた。
ほんの僅かな硬直。
「いや、うちの宿舎に住んでるよ」
短く否定してから、こちらを見上げる。
当然のことのように言ったあと、少し間を置いて付け足した。
「でも、エリシアはいいのさ。
踊り子だし、肉体労働させられないよ」
「今は……」
ゲラルトの声が、わずかに小さくなった。
振り返ると、少年は視線を逸らし、唇を噛んでいる。
「いや、何でもない、忘れて」
すぐに首を振り、強く言い直した。
荷をすべて下ろし終え、裏口の扉を押す。
中から、いつもの酒場の匂いが流れ出してきた。
「分かった」
それだけ答える。
ゲラルトはほっとしたように息を吐き、裏口の向こうへ去っていった。
酒場の裏で手を洗っていると、背後から声がかかった。
「ご苦労さん。問題はなかったかい」
振り向くと、ミレディが腕を組んで立っていた。
険のある表情はいつも通りだが、鋭さは幾分か抑えられている。
「ああ。いい運動だったよ」
そう答えると、ミレディは鼻で小さく笑った。
「それは結構。あの子も、ずいぶん手際が良くなった」
一拍置いてから、声の調子を落とす。
「ゲラルトの調子は、どうだった」
「ん、特に変わったところはないな」
俺は布で手を拭きながら言った。
「そもそも、あまり心配をする年でもないんじゃないか」
ミレディはすぐには返事をしなかった。
視線を伏せ、しばらく考え込むような間があった。
「いや、……子供には、少し酷なことを頼んじまっていて、ね」
小さく漏らした言葉に、俺は眉を寄せた。
ミレディは視線を上げ、俺を見る。
いつものぶっきらぼうな口調に戻して言った。
「あの子は、あんたに懐いてる」
「だから、これからも、普通に接してやってくれ」
俺は首を傾げ、それから肩をすくめた。
「言われなくても、そうするさ」
ミレディはその答えを聞いて、ようやく安心したように目を細めた。
「なら、いいんだ」
それだけ言うと、踵を返し、店の中へ戻っていく。
残された俺は、しばらくその背中を見送ってから、再び作業に戻った。
胸の奥に、引っかかるものが残ったまま。
だが、その正体を掘り下げるほどの理由も、今は見つからなかった。




