港町ポルテ1
波の音が心地よく響く、南の港町ポルテ。
静かな山荘とは対照的に、ここは街の活気と、強い陽光に満ちていた。リリアは眩しさに目を細め、この急激な変化に少しだけ戸惑った。
馬車から降りたリリアは、数ヶ月前までこの地で汗を流していた過酷な特訓の日々に思いを馳せる。
「あの日々が、とても前のことのように感じるわね……」
深呼吸してみると、懐かしさと共に心がふわりと軽くなるのを感じた。
しかし、その安らぎは長くは続かない。リリアの隣には、不機嫌そうな面持ちで海風を受けているノルンの姿があったからだ。
「……なぜ、ノルン様までこちらへ?」
リリアは波打ち際から視線を逸らし、短く言葉をこぼした。ノルンは組んだ腕を解こうともせず、視線を海に向けたままぶっきらぼうに返す。
「そんな疑うような目で見るな。公務だ」
「公務……ですか?」
「今回、ヴェルナード家とロゼッタ家で行う新港の建設と、魔導航路の整備に関する共同事業が決まっただろう」
エリオットの来訪や、聖獣を巡る騒ぎの裏で、ロゼッタ家とヴェルナード家はしっかりと契約を結んでいた。
それが、ポルテにおける「新港建設」と「魔導航路の整備」という共同事業である。
「あからさまな軍用港を作れば、反乱の兆候と疑われかねませんわ。……ですから、普段は大型の貿易船や豪華客船も自由に泊まれる、『商業港』としての顔を持たせるのでしょう?」
「さすがだな、その通りだ。そこで、俺が現地視察に来たということだ」
なるほど、とリリアは納得するが、なぜそれが彼なのかと疑問が浮かぶ。以前のノルンであれば、自身の制御不能な魔力が周囲を惑わし、家族さえも彼への執着に狂わせていたはずだった。
「……ノルン様、皆様のご様子は。もう、以前のようではありませんの?」
リリアの問いに、ノルンはわずかに眉を寄せ、しかしその表情には微かな安堵が浮かんでいた。
「……ああ。今回のお前との訓練のおかげで、多少は制御できるようになったらしい。家族たちの俺への過剰な執着はこの数日間でも目に見て分かるほどだ。……礼を言う」
「それは、よかったですわ」
リリアが心から微笑むと、ノルンは少し気まずそうに顔を背けた。
そして、肩から提げた大きめのポシェットをそっと手で押さえる。その中では、小さな白い影――シルヴェスターが静かな寝息を立てていた。
子猫の姿となってしまったシルヴェスターは、どうやら心まで幼くなってしまったらしい。今は見た目も中身も、愛くるしいただの子猫そのものだ。
「……リリア、何をそんなに落ち着かない様子で見ている」
不意にノルンが足を止め、怪訝そうな視線をこちらに向けた。
リリアはできるだけ自然な笑みを浮かべる。
「いいえ、ただ……久しぶりの海が、少し眩しくて」
何食わぬ顔で答えたものの、ポシェットの中のシルヴェスターが「ふにゃ……」と小さな寝言を漏らさないかと、リリアは気が気でない。
「ノルン様、長旅でお疲れではないですか?」
リリアはノルンを気遣いつつも、本音ではロゼッタ公爵家へにシルヴェスターを隠したいと考えていた。
「いや、俺は全く問題ない。せっかく来たんだ、領内の案内を頼む」
ノルンは潮風を全身に浴びながら、疲れを微塵も感じない涼し気な表情で答える。
公爵令嬢として、公務で訪れた客人を放置するわけにはいかない。リリアは内心で深い溜息をつき、しぶしぶ頷いた。
「……承知いたしました。では、最近完成したばかりの灯台へご案内しますわ」
案内を始めたものの、南国の夏の日差しは容赦がなかった。ジリジリと肌を焼くような陽光が、リリアの体力を容赦なく奪っていく。
リリアはポシェットを気にかけ、中を覗き込む。シルヴェスターはぐっすりと眠っているようだが、熱さが心配だ。
リリアがポシェットに入れた氷の魔石のおかげか、シルヴェスターはすやすやと心地よさそうに息をしている。
(よかった、シルの機嫌はいいみたい……。でも、私が持たないわ……)
ふらりと足元が揺れた。意識が遠のき、石畳が目の前に迫ってくる。
だがすぐに、背中に確かな強さと温かさが触れた。ノルンの大きな片手が、倒れ込むリリアの身体を間一髪で支えたのだ。
「おい、大丈夫か。……身体がひどく熱いぞ」
ノルンの厳しい声が、耳元で響く。リリアはふらつく頭を振って、強がりの笑みを浮かべた。
「ええ、少し暑さに当たっただけですわ。問題ありません」
「……問題がない顔か、これが」
ノルンはリリアの言葉を即座に切り捨てた。次の瞬間、浮遊感がリリアを襲う。ノルンは周囲の視線も気に留めず、力強い腕でリリアを横抱きに抱え上げた。
「っ……! ノルン様!?」
ノルンからは、刺々しい魔力は感じられず、今はどこか落ち着いた、熱い鼓動だけが伝わってくる。
ポシェットの中でシルヴェスターが「にゃん」と小さく鳴き、ノルンの存在を警戒するように微かに唸り声を上げたが彼の耳には届いていないようだ。
「無理をさせすぎたな。すまない」
ノルンはリリアを抱えたまま、迷いのない足取りでロゼッタ公爵家へと向かった。
屋敷に到着すると、ノルンはそのままリリアを部屋まで運び、柔らかなベッドへと優しく降ろす。
「……ノルン様。わざわざ部屋まで送ってくださり、ありがとうございます」
リリアが控えめに礼を言うと、ノルンはベッドサイドに立ち、少しだけ困ったように眉を下げた。彼の琥珀色の瞳が、いつもよりずっと優しくリリアを見つめている。
「……そんなに丁寧に礼を言われる覚えはない。当然のことをしたまでだ」
「それでも、助かりましたわ」
リリアがそう言って微笑むと、ノルンは少し気まずそうに目を逸らした。
彼は何かを言いかけたように口を動かしたが、すぐに言葉を飲み込むと、リリアの額を手の甲で軽く触れた。
「……熱いな。今は何も考えるな。ただ休め」
「ですが、まだ案内が……」
「休めと言ったら休め」
そう言って、ノルンは名残惜しそうにしながらも部屋を後にした。
扉が閉まる直前、彼が少しだけ頬を染めていたように見えたのは、気のせいではないはずだ。
部屋が静かになると、ポシェットからひょっこりと白い影が顔を出す。シルヴェスターが心配そうにリリアの顔を覗き込み、小さな手で彼女の頬をペタペタと叩いた。
(ノルン様……いつもと様子が違ったわ)
以前の彼からは想像もできないほどの気遣い。
リリアは胸元にシルヴェスターを抱き寄せながら、不思議な温かさを胸に残したまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
* * *
「お嬢様、体調はいかがですかな?」
静かなノックの音と共に、老執事のローレンスの穏やかな声がリリアに向けられた。
この屋敷の管理を任されている彼は、ロゼッタ公爵の片腕とも言える優秀な執事だ。月に一度リリアの両親が領地に来ると、日々の実務と、細やかな報告を一手に引き受けている。
リリアはベッドの上で身体を起こすと、シルヴェスターを優しくポシェットに戻しながら微笑んだ。
「ローレンス。……ええ、おかげさまで、もうすっかり良くなったわ」
「それは何よりです。この二日間、メイドたちからお嬢様が部屋にこもっておられると聞き、案じておりました」
ローレンスは手慣れた手つきでサイドテーブルのティーセットを整える。その所作には一切の無駄がない。
彼が見せる穏やかな微笑みに、リリアは心から安らぎを覚えた。彼には、無理に強がる必要もないし、秘密を隠すための仮面も必要ないからだ。
「ありがとうございます、ローレンス。……ところでノルン様は、今はどちらに?」
「港の新港建設予定地を視察されておられます。夕刻には戻られるはずです」
リリアは小さく頷いた。ノルンが不在の今のうちに、この平和な時間をもう少しだけ堪能しようと心に決める。
「リリア様を心配しておいででしたよ」
「……っ!」
カップに伸びた手がピタリと止まる。その反応にローレンスが「おやおや」と言いながら、そっと紅茶の入ったカップをリリアに渡す。
「えー。……最近、白い砂浜の海岸が出来たと聞いたわ。案内していただけますか?」
何事もなかったかのように振る舞うリリアを微笑ましく思いながら、ローレンスは執事の礼をとる。
「喜んで。潮風が心地よい時間帯でございます。メイドたちがお支度を整えますので、少々お待ちを」
ローレンスが部屋から出たことを確認すると、二日間の静養で鈍った身体を動かすため、リリアは鏡の前に座る。
ポシェットの中ではシルヴェスターが「にゃあ」と小さく催促するように鳴いていた。
「リリア様、また一段とお美しくなられましたね」
すぐにメイドが部屋に訪れ、支度を始める。
三つ年上のヨナが、慣れた手つきでリリアの柔らかな薄いラベンダー色の髪を梳きながら、鏡越しに笑顔を見せる。
その手際の良さも、センスの良さも昔のままだ。ポルテにいた頃は、リリアの身の回りの世話だけでなく、何でも話せる姉妹のような関係だった。
「シル、こちらにおいで」
リリアがそっと名前を呼ぶ。
すると、初めて見るヨナを警戒しているのか、白い小さな体は姿勢を低くしたまま、ゆっくりとベッドの下から這い出てきた。
その愛らしい姿を目留めたヨナは、驚きに薄桃色の瞳を丸くする。
「あらあら!このかわいい生き物はどうなさったのですか?」
「ポルテに向かう途中で拾ったの。シルヴェスターよ」
(拾った……まぁ、あながち間違ってはいないわ)
リリアがそう紹介すると、ヨナは警戒を解くようにそっと腰を落とし、優しく手を伸ばした。怯えさせないよう、ゆっくりとその小さな頭をなでてあげる。
「シルちゃんですね、どうぞよろしくお願いします」
ヨナの温かい手のひらが心地よかったのか、シルヴェスターはさっきまでの警戒が嘘のように、気持ちよさそうに目を細めたのだった。
(シルがすぐに受け入れてくれて、本当に良かったわ……)
「シルちゃんは、バスケットの中に氷魔石を入れた涼しい所で、お昼寝しましょうね」
「にゃーん!」
ヨナとシルヴェスターの微笑ましいやり取りに、リリアは心の底からホッとする。これなら、この屋敷でもうまくやっていけそうだと胸をなでおろしながら、リリアは真剣な表情でヨナを見つめた。
「シルの事はあまり公にはしたくないの。……できるかしら?」
聖獣という存在を、不用意に周囲に知られるわけにはいかない。ヨナは察するように小さく頷き、まっすぐな視線を返した。
「配慮いたしますわ。ローレンスと、リリア様の側近メイドには情報を共有させていただいてもよろしいでしょうか?」
「えぇ、もちろんよ」
的確な提案に、リリアは深く頷く。信頼できる一部の側近であれば、むしろ共有しておいた方がシルの安全を守りやすい。
(ヨナがいてくれて、本当に心強いわね、シル)
「それにしても、本当に可愛らしい猫ちゃんですわね」
ヨナの言葉に、リリアとシルヴェスターの体が同時に反応したことにヨナは気付かなかった。
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「……まぁ、なんて綺麗な場所なのかしら!」
思わず感嘆の声が漏れるほど、目の前に広がる砂浜は想像以上に真っ白に輝いていた。
ポルテの海には、願いを叶え終えたルミナスの星が降ることが多いと聞く。
その星のかけらが長い時間をかけて海岸に打ち上げられ、サンゴのかけらたちと混ざり合い白さを生み出している。
「ルミナスティア・ビーチ」と名付けられた白浜は、言葉にできないほど美しかった。
同行した老執事のローレンスは、周囲の一通りの警備配置と案内を済ませると、「お呼びであればすぐに」と一礼し、リリアの邪魔をしないよう少し離れた場所へと静かに控えてくれた。
ここは、領主のために用意された特別なプライベートビーチ。
高くそびえる塀や椰子の木を隔てた向こう側には、一般開放されている賑やかな砂浜も広がっている。
椰子の葉で作られた屋根の、高級感のあるカバナが立ち並び、優雅な日よけのパラソルと、ラタンというツル植物を編み込んで作られた涼しげなベンチが備え付けられていた。
「さあ、シル。ここなら大丈夫よ」
リリアが手元にあるバスケットの蓋をそっと開けると、中からシルヴェスターがひょっこりと顔を出した。シルヴェスターは、見たこともないほど白くきらめく砂浜に興味津々の様子で、クンクンと鼻を鳴らしている。
リリアは日差しを遮るパラソルの下、ラタンのベンチに深く腰を下ろした。優しく寄せては返す波の音がとても心地よく、久しぶりにゆったりとした気分を味わえる。
(……去年の夏は、ただ海を楽しむだけで良かったわ)
波打ち際を見つめながら、リリアはふと去年のことに思いを馳せた。
あの頃は、厳しい訓練はあったものの、弟のルカやヨナたちと海に入り、無邪気に水しぶきを上げて笑い合う時間があった。
けれど今の自分は、聖獣シルヴェスターをそばに置き、『無効化』という未知の力を巡り、問題が次々と起こっている。
「忙しい日々だわ、本当に」
小さく呟いた言葉には、ちょっぴり苦笑いが混ざる。
だが、こうして波の音を聞きながら、きらめく星の砂を見つめていると、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのを確かに感じていた。
「……ねえ、シル。海に入ってみる?」
リリアが微笑みながら問いかけると、返事の代わりにシルヴェスターが小さな前足でリリアの指先にきゅっとじゃれついてきた。その愛らしい温もりに、リリアの心がじんわりと満たされていく。
南国の柔らかな風が、リリアのラベンダー色の髪を、優しく揺らしていた。




